35.無事の帰還と、温かな安堵
「本日の調査は終了します。直ちに帰還します」
しばらくして涙が落ち着いた頃、アインス様がそう告げた。
帰還の準備が始まる中、念のため火傷以外にも怪我がないか確認してもらう。その時、アインス様が大きく破れたズボンの膝へ目を留めた。
「ここも確認します」
「はい」
傷を見るため、アインス様が破れた片方の裾を、膝から下までハサミで切り落とした。
何度も転んだせいでかなり擦りむいていたようだけれど、傷そのものはもうほとんど消えている。飲んだポーションが効いていたらしい。
「……ここも治っていますね」
「ポーション、すごい……」
他にも怪我がないか一通り確認してもらったけれど、目立つ傷は残っていなかった。
焼けたブラウスは、念のために持ってきていた予備へ着替えた。
着替える時に右肩から腕も改めて見てみたけれど、あんなに酷かった火傷が嘘みたいに綺麗になっている。触った感覚も、ちゃんと戻っていた。
(すごい……)
身体は、ほとんど元通り。
でも、服と髪は元には戻らない。
ズボンは片方だけ膝下がなくなっているし、右側の髪先も、ちりちりと焦げたままだった。
(……美容室、行かないと)
アインス様も自分の怪我を処置し、帰還の準備が整うと、私たちは騎士団へ戻った。
サラマンダーを討伐したこと。私が負傷したこと。そして全員が帰還することは、通信魔道具ですでに本部へ伝えられている。
それでも、帰り道はいつもよりずっと静かだった。
◇
騎士団へ戻ると、今回の遠征に参加していた主なメンバーで、そのまま団長室へ向かった。
扉を開けると、机の向こうにいたアルベルト様が顔を上げる。
その視線が、私のところで止まった。
「……」
ほんの一瞬、新緑色の瞳が見開かれる。
火傷が治ったことは聞いているはずだ。
でも、予備のブラウスに着替え、片方だけ膝下のなくなったズボンを履き、髪まで焦がした姿までは想像していなかったのかもしれない。
隣にいるアインス様の軍服も、一部が黒く焦げている。
アルベルト様は私たちを順番に見たあと、小さく息を吐いた。
「……大変だったようだな。皆、よく帰還した」
「はい」
その一言だけで、少し肩の力が抜けた。
アインス様が一歩前へ出る。
「報告します」
本来の目的だった魔道銃の実地試験では、使用者や距離を変えながら固定標的への試射を進めていたが、途中で予定外の中型魔物が相次いで出現し、試験を中断した。
討伐後に試験を再開し、小型のトカゲ型魔獣を対象として、実戦での使用記録も取ることができた。
「その個体を討伐した後、サラマンダーの成体が出現しました。討伐した個体は、サラマンダーの幼体だったと考えられます」
アルベルト様が静かに聞いている。
その後の戦闘については、各員の動きや使用した魔法、サラマンダーの反応まで含めて、アインス様が順を追って詳しく報告していった。
私が最後まで執拗に狙われたことや、右肩から腕に火傷を負った経緯も、その中で説明された。
「火傷については、私が水魔法で処置した後、持参していたポーションを2本使用しています。右肩から上腕にかけて、一時的に感覚が鈍くなっている部分もありましたが、現在は回復しています」
アルベルト様の眉がわずかに寄った。
「感覚が鈍くなっていた?」
「はい。熱が深いところまで入っていました」
「……そうか」
アルベルト様が私を見る。
「リナ。今は?」
「大丈夫です。痛くないですし、感覚もちゃんとあります」
「そうか」
もう一度、今度は少しゆっくり息を吐いた。
「それなら良かった」
アルベルト様は少し黙ってから続ける。
「だが、今回は運が良かったと思っておいた方がいい」
「え?」
「ポーションも回復魔法も、何でも元に戻せるわけではない。失った身体の一部を生やすことはできないし、深い火傷で組織が大きく損傷すれば、綺麗に治らないこともある」
「……そうなんですか?」
思わず右腕を見る。
今は、どこを見ても火傷の跡なんて残っていない。
「今回はアインスがすぐに処置できたことも大きい」
アルベルト様がアインス様へ視線を向ける。
「アインスでなければ、ここまで綺麗に治すのは難しかったかもしれない」
「……」
アインス様が少しだけ目を見開いた。
「現場責任者として、リナを負傷させたことは――」
「それは後で聞く」
アルベルト様が静かに遮った。
「まずは今回の結果を整理しよう」
「……はい」
アインス様が小さく頷いた。
魔道銃や魔術団側の記録については、持ち帰った資料を整理したうえで、改めて正式な報告書を提出することになった。
続いて話題になったのは、サラマンダーだった。
「この周辺は、サラマンダーの生息域ではなかったはずだな」
「はい」
アインス様が頷く。
「子育ての時期に餌場を変え、一時的に移動していた可能性があります。ただ、幼体が単独で行動していたこと自体が珍しいため、発見時点ではサラマンダーだと判断できませんでした」
「見た目も、小型のトカゲ型魔獣にかなり近かったよ」
ルディ様が付け加える。
「僕も、危険度の低い個体だと思った」
その声は、まだ少し沈んでいた。
アルベルト様はルディ様をしばらく見た。
何も言わない。
ルディ様も目を逸らさなかった。
やがてアルベルト様が口を開いた。
「今回、誰かが判断を間違えたとは思っていない」
「……兄様」
「中型魔物が続けて現れた。通常は成体のそばにいるはずの幼体が、単独で行動していた。その幼体がサラマンダーだと気づかないまま討伐し、親が現れた」
一つずつ、確認するように言葉を続ける。
「こうして振り返れば、すべてがつながって見える。だが、それは結末を知った今だからだ。あの場では、それぞれの出来事が何につながるのか、分からなかった」
その言葉に、はっとした。
確かに、そうだ。私だって、あの小さな魔獣があんな事態を引き起こすなんて、想像もしていなかった。それなのに、今になって「あの時、気づいていれば」と考えてしまっていた。
部屋の空気が少しだけ変わった。
「想定外が重なった。それだけだ。そういうことも、稀にはある」
部屋の空気が少しだけ変わった。
「だからこそ、次に同じことが起きないようにすればいい」
アルベルト様が机の上の紙へ視線を落とす。
「今回確認したサラマンダーの特徴は、全隊へ共有する。幼体が単独で行動する可能性があること、幼体へ攻撃した者を成体が執拗に狙うこと。それから、全身の硬化と、水によって硬化が弱まったことも記録しておこう」
「はい」
「魔物の生態や過去の遭遇記録を学ぶ時間も、今までより増やした方がいいな」
「そうですね」
アインス様が頷く。
「実地試験の体制についても見直します。想定外の中型以上の魔物が続けて現れた場合、その時点で周辺の危険度を一段階引き上げるべきでしょう」
「ああ。試験を続けるかどうかの判断基準も決めておこう。必要なら人員も増やす」
アルベルト様はそこで一度、私たち全員を見た。
「大変だったと思う」
誰も口を開かなかった。
「だが、収穫もあった」
その言葉に、ルディ様が顔を上げる。
「魔道銃の実戦データも取れた。魔物の新しい情報も得た。そして、今回足りなかったものも分かった」
アルベルト様の表情が少しだけ柔らかくなった。
「皆、よく頑張った」
「……はい」
今度のアインス様の声は、さっきより少しだけ軽かった。
私も胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていくのを感じた。
「それと、リナ」
「はい」
アルベルト様の視線が、私の切られたズボンへ下がる。
「今後、普段の勤務でも騎士団の軍服を着用してもらいたい」
「え?」
「合同集会で着ていたものだ。事務官用の服より丈夫で、防護性も高い」
「でも、私、基本的には団長室で仕事ですよ?」
「ああ。だが、今回のように遠征へ同行することもある。それ以外でも、いつ何が起きるかは分からない。普段から着慣れておいた方がいいだろう」
「なるほど……」
確かに、今回着ていた服はあっという間に焼けた。
騎士団の軍服なら、少なくとももう少し違ったかもしれない。
「分かりました」
「それから」
アルベルト様が少しだけ表情を改めた。
「リナ。もう遠征には行きたくないか?」
「……」
すぐには答えられなかった。
怖かった。
本当に、怖かった。
炎が次々に飛んできて、どこへ逃げればいいのかも分からなくなった。
死ぬかもしれないと思った。
「……怖かったです」
「ああ」
「でも、仕事で必要とされるなら、また行きたいです」
アルベルト様の目を見る。
「魔法も、もっと上手くなりたいです。今回みたいなことがあっても、もう少し自分でできることを増やしたいです」
アルベルト様はしばらく私を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「そうか」
「はい」
「なら、分かった」
少し安心していると、アルベルト様が続けた。
「ただし、今後リナが遠征へ同行する場合は、私も同行する」
「……え?」
部屋が静かになった。
アインス様が眼鏡の奥からアルベルト様を見る。
オスカーさんも何とも言えない顔をしている。
レオくんまで黙った。
「……兄様?」
ルディ様が口を開いた。
「何だ」
「いや……」
ルディ様が私を見て、それからアルベルト様を見る。
「別に」
「皆を信用していないわけではない」
アルベルト様は至って真面目だった。
「だが、今回のようなことが起きる可能性がある以上、私がいた方がリナを確実に守れる」
「……」
「何か問題があるか?」
誰も答えなかった。
(……安全対策、だよね?)
団長自ら同行するって、かなり大掛かりな安全対策な気もするけど。
まあ、今回みたいなこともあったし。
きっとそういうことなんだろう。
「今回の件については、各自報告書をまとめて提出してくれ。魔術団側の試験記録と合わせて、改めて対策を決める」
「了解」
「はい」
オスカーさんたちが順番に団長室を出ていく。
ルディ様も最後にこちらを振り返ってから、静かに扉を閉めた。
部屋には、私とアルベルト様だけが残った。
私はいつもの机のそばに立ったまま、少し迷ってから声をかける。
「あの、アルベルト様」
「どうした?」
「ポーション。本当にありがとうございました」
「ああ」
「2本とも使ってしまいましたけど……おかげで、こんなに綺麗に治りました」
右腕を見せる。
アルベルト様も傷がないことを確認するように、静かに見ていた。
「『何かあれば、惜しまず使いなさい』って言ってくださったから、ちゃんと使えました」
「……そうか。持たせておいて良かった」
「はい」
私は少し俯いた。
「私……今回、みんなに守ってもらってばっかりでした」
アインス様にも。
レオくんにも。
ルディ様にも。
オスカーさんにも。
「結局、何もできなかったなって――」
「何もできなかったわけではない」
すぐに否定された。
顔を上げる。
「報告で聞いたが、リナは自分で氷壁を作っただろう」
「でも、すぐ溶けました」
「それでも炎の勢いを何度も止めた」
アルベルト様の声は静かだった。
「最後の炎もそうだ。あの氷壁がなければ、もっと大きな被害になっていたかもしれない」
「……」
「魔法を覚えて、まだそれほど経っていない。今はまだ、子供の魔法とほぼ変わらない。それでも自分で考えて、自分の身を守った」
アルベルト様の表情が少し柔らかくなる。
「十分だ」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「……アルベルト様と、アインス様が教えてくれたからです」
「リナ自身が覚えたから使えたんだ」
「それでも」
私はアルベルト様を見る。
「二人があんなに訓練に付き合ってくれなかったら、私、何もできなかったと思います。本当に、ありがとうございました」
アルベルト様が机の向こうから歩いてくる。
「アルベルト様……?」
目の前で止まると、大きな手がそっと頭の上に置かれた。
「よく頑張った」
「……」
ぽん、と優しく頭を撫でられる。
「重度の火傷だった。痛かっただろう」
その一言で。
また、目の奥が熱くなった。
「……はい」
声が震える。
「痛かった、です……」
「ああ」
アルベルト様の手が、もう一度ゆっくりと頭を撫でる。
「……無事で良かった」
涙が落ちた。
でも、森で止まらなかった涙とは少し違った。
怖くて流れる涙じゃない。
ずっと張り詰めていたものが、ようやくほどけていくような涙だった。
頭に触れる大きな手の温かさを感じながら、私は今度こそ、本当に無事に帰ってこられたんだと実感した。




