34.サラマンダーの怒りと、逃げられない標的
巨大なサラマンダーは、倒れた幼体を見下ろしたまま動かなかった。
ほんの数秒だったはずなのに、森から音が消えたように感じる。魔術団の研究員たちが、試験用の魔道具や資料をまとめて後方へ下がり始める中、私も記録用紙を鞄へしまった。
その指が、少し震えていた。
(大きい……)
さっきまで戦っていた魔物とは、何もかもが違う。息を吸おうとしたのに、喉の奥で引っかかった。
「全員、警戒してください。研究員はそのまま後方へ!」
アインス様の声が飛び、耳元のイヤーカフからも同じ指示が響いた。
やがて、サラマンダーの頭がゆっくりと持ち上がった。
「……え?」
赤く燃えるような瞳が、こちらを向く。
大勢の騎士たちが武器を構えているのに、その目はまっすぐ私だけを見ていた。背中がぞくりと冷える。
(もしかして……私が、あの子を倒したから?)
「リナ、私のそばから離れないでください!」
アインス様の声と同時に、サラマンダーが大きく口を開いた。
喉の奥で炎が膨らむより早く、大量の水がその頭部を丸ごと包み込む。さらに風が渦を巻くように水を押し込み、逃げ場を失った炎が水の中で爆発した。
「っ……!」
激しい泡とともに白い蒸気が噴き上がる。
それでも炎は消えない。水の中で炎が膨れ上がり、サラマンダーが無理やり首をこちらへ向けた。
「……え?」
口の奥から、再び炎がせり上がる。
「リナ!」
炎が吐き出された。
「危ない!」
ルディ様が片手を上げる。
私の目の前に、黒い闇が広がった。
「えっ!?」
飛んできた炎を、その闇が丸ごと包み込む。
炎を呑み込んだ闇が、一瞬だけ大きく膨らんだ。そして、炎ごと消えた。
「……今の」
(炎を消した……? 闇魔法って、魔法そのものを消せるの?)
「第一部隊は脚と尾を! 第二部隊は炎の拡大を防いでください!」
アインス様の指示で、騎士たちが一斉に動き出す。
「まず目ぇ潰す!」
地面から土の槍がせり上がった。
オスカーさんが柄を掴み、そのまま大きく振りかぶる。一直線に飛んだ槍が、サラマンダーの目を捉えた。
――ガンッ!
「えっ……?」
硬い音を立てて、槍が弾かれた。
「硬ぇな……!」
オスカーさんが舌打ちする。
「全身を魔力で硬化してやがる! 急所も簡単には通らねえぞ!」
「副団長! もっと強い風で押し返します!」
レオくんが前へ出ようとする。
「そうしたいところですが、今は抑えてください。長期戦になる可能性もあります。魔力配分には気をつけてください」
「はい!」
レオくんがすぐに頷いた。
隆起した土が太い脚へ絡みつき、その間にも火、水、風、土――いくつもの魔法が四方から巨体へ叩き込まれていく。
レオくんも上空へ飛び上がり、顔の周囲を旋回しながら風の刃を放っていた。
「リナ! 認識阻害かけるよ!」
「はい!」
ルディ様が私へ片手を向ける。
黒い魔力が身体を覆った。
けれど、サラマンダーの赤い瞳は少しも揺れなかった。
「……え?」
ルディ様の顔に戸惑いの表情が浮かんだ。
「なんで……隠れない?」
その直後、巨大な尾が大きく振り上げられた。
「各員、散開!」
アインス様の声が飛んだ直後、炎をまとった尾が地面を薙ぎ払い、弾けた火の塊が周囲へ飛び散る。
ルディ様が地面を蹴り、ふわりと宙へ浮かんで身を翻す。次々と飛んでくる火球へ黒い闇を放ち、私たちへ届く前に呑み込んでいった。
けれど、全部がこちらへ飛んでくるわけではない。騎士たちを掠めて飛んだ火の塊が木の幹へぶつかり、枝から枝へと炎が燃え移っていく。
「まずい……!」
アインス様が片手を地面へ向けた。
大量の水が燃え始めた木々へ走る。同時に周囲の地面まで一気に濡れ、その上から土が持ち上がった。
水を含んだ土が泥となり、燃えている場所を囲むように広がっていく。
(水と土の複合魔法……?)
炎そのものを水で消しながら、泥でその先への延焼を止めている。
頭部では、まだ大量の水がサラマンダーの炎を抑え込んでいた。
(同時に……?)
そんなことを考えている間にも、騎士たちの攻撃は続いている。
「炎刃!」
レオくんの5つの斬撃が、サラマンダーの首元へ走った。
大きな傷はついた。でも、中型の魔物を相手にした時ほど深くない。
「レオ! 硬化が強い! 風で顔を抑えろ!」
「はい!」
アインス様の指示に、レオくんがすぐに動きを変える。
強い風が巨大な頭へ叩きつけられた。そこへアインス様の水が重なり、サラマンダーの頭が大きく横へ振られる。
(これなら、いける……?)
さっきまでの魔物とは比べものにならないほど巨大なのに、みんなの動きに迷いがない。
このままなら――。
そう思った瞬間だった。
サラマンダーが頭部を覆う水を振り払い、こちらへ首を向けた。
「リナ! 動かしますよ!」
「え――」
口の端から炎が噴き出す。
次の瞬間、身体がすっと持ち上がった。
「きゃっ」
足が地面から離れ、そのまま横へ滑るように運ばれていく。
(アインス様が、風で私を……!)
直後、さっきまで私がいた場所を炎が焼き払った。
「……っ!」
ドクン、ドクン、と心臓の音が耳の奥まで響いている。息を吸っているはずなのに浅く、手のひらも汗ばんでいた。
自分でも飛べる。そう分かっているのに、今の状態で自分の身体を浮かせて、炎を避けながら飛行まで制御できる気がしなかった。
地面へ下ろされた途端、足から力が抜けそうになる。
あと少し遅かったら。
アインス様が、倒れた幼体と私を見比べた。
「……幼体に残った魔力の残滓から、リナを特定した可能性があります」
「私の……魔力?」
「幼体には、リナの魔力が残っています」
アインス様の表情が険しくなる。
「狙われているのはリナです」
アインス様がすぐに戦場へ視線を戻した。
「オスカー、ここからの指揮をお願いします!」
「了解!」
「リナは戦闘用の装備ではありません。騎士たちと違って、防護も十分ではない。直撃すれば危険です」
アインス様が私の前へ立つ。
「研究員たちを巻き込まないよう、リナを離します。私は護衛につきます」
「はい!」
身体がすっと持ち上げられた。
アインス様もすぐそばを飛び、研究員たちとは別の方向へ一気に距離を取る。騎士たちの姿が少し遠くなった。
(ここまで離れれば……)
「ギャアアアアア!!!!」
「え……?」
大きな声に振り返る。
サラマンダーが、騎士たちの攻撃を受けながらこちらへ向かって突進していた。太い脚が地面を踏み砕き、進路上の木々を巨体で押し倒していく。
「何やってもリナちゃんから標的が外れねえ!」
オスカーさんの怒声が飛ぶ。
アインス様が追ってくるサラマンダーを見据えた。
「……やはり、魔力を追っていますね」
距離を取っても、ルディ様が認識阻害をかけても、サラマンダーは私を追ってくる。
(そんなことまで分かるの!?)
(それなら、足を止めれば……!)
幼体を倒した時と同じように、追ってくる前脚へ片手を向ける。地面から氷が這い上がり、太い脚を一気に包み込んだ。そのまま首元にも氷をまとわせる。
「止まって……!」
一瞬、サラマンダーの動きが鈍った。けれど次の一歩で脚を覆っていた氷は音を立てて砕け、首元の氷も白い蒸気を上げながらみるみる溶けていく。
(速い……! 幼体とは全然違う……)
凍らせることはできても、維持できない。
それなのに、サラマンダーの頭部ではアインス様の水がまだ流れ続けていた。高熱に触れた端から蒸気へ変わっているのに、それを上回るように新しい水が送り込まれ、途切れることなく冷やし続けている。
(私の氷でも、すぐ溶けるのに……)
その間にも、騎士たちの攻撃は止まらない。
「もう一発!」
オスカーさんが再び土の槍を構えた。
狙うのは、さっきと同じ目。大きく振りかぶり、一気に投げる。
今度は――。
「ギャアアアアッ!!」
「刺さった!」
思わず声が出た。
さっきは弾かれた槍が、今度は赤い瞳へ深く突き刺さっている。
すぐに、アインス様の水に覆われていた頭部を見る。
「……水か!」
オスカーさんが叫んだ。
「冷やし続けたところは硬化が弱くなってる!」
「そのようです!」
アインス様が答えた。
「全員、水だ! 威力は要らねえ! 冷やし続けろ!」
「はい!」
一斉に水が放たれた。
細い水流、大きな水弾、上空から叩きつける水。強さも形も違う水魔法が次々と巨大な身体へ降り注ぎ、濡れた箇所へすぐに土や風の攻撃が叩き込まれる。
さっきまで弾かれていた攻撃が、今度は少しずつ傷を増やしていく。
(ちゃんと、効いてる……!)
そう思ったのも束の間だった。
片目に槍を突き立てたまま、サラマンダーが大きく身体を沈め、次の瞬間には地面を蹴った。
「来るぞ!」
巨体が一気に加速した。
降り注ぐ水も、風も、土の槍も避けようとしない。そのまま木を薙ぎ倒し、一直線に私を追ってくる。
「おいおい、避ける気なしかよ……!」
巨大な尾が地面へ叩きつけられ、土と石が弾け飛ぶ。
続けて前脚が地面を抉り、間を置かずにまた尾が薙ぎ払われた。倒された木が宙へ飛び、その隙間から炎まで飛んでくる。
「危ない!」
レオくんの風が太い幹を弾き飛ばす。
「させない!」
ルディ様の闇が、続けて飛んできた火球を呑み込んだ。
けれど、防いだ瞬間にはもう次の攻撃が来ていた。
「次から次へと……! こいつ、休む気ないのかよ!」
(何これ……!)
攻撃が止まらない。サラマンダーは、自分が傷つくことなんてどうでもいいみたいだった。
ただ私に、何でもいいから一撃だけでも当てようとしている。
「リナ、動きます!」
「はい!」
木々の間を抜けるように飛ぶ。
アインス様も横につき、私を動かしながら後方のサラマンダーへ水を叩きつける。それだけじゃない。燃え始めた木へ別の水が走り、地面では泥が炎の進路を塞いでいた。
(私を飛ばして、自分も飛んで、攻撃を防いで……火事まで広がらないように……)
それでも、サラマンダーの炎が次々と森を焼いていく。
炎の近くを抜けるたび、焼けるような熱気が頬を掠める。レオくんが大きな木片や瓦礫を逸らしてくれていても、細かな砂や灰までは消えない。
「痛っ……」
砂埃が目に入り、反射的に目を細める。
涙で視界が滲んだ。焦げた木と煙の匂いが辺りに充満し、呼吸がしにくくなっていた。
アインス様が水を浴びせたはずの木々の向こうで、また別の炎が上がる。消しても次の火が飛び、濡らしても別の場所が燃える。
「まずいな」
オスカーさんの声が、イヤーカフから響いた。
「長引けば消耗戦になる。魔力が先に尽きた方が負けだ」
その言葉に、背筋が冷えた。
アインス様の視線が、一度だけ戦場を走る。
水を浴びせ続ける騎士たち。炎を消し続けるルディ様。次々と燃えていく森。
全部を見たあと、アインス様は迷いなく片手を上げた。
「オスカー、正面を空けてください!」
「全員、左右へ退け!」
オスカーさんの声に、騎士たちが一斉に散る。
正面には、突進してくるサラマンダーだけが残った。
アインス様が片手を前へ向けると、次の瞬間、大量の水が一気に地面を走った。
「うわ……!」
水流というより、濁流だった。
進路上の土や灰を巻き込みながら、巨大な水の塊が正面からサラマンダーへ激突する。
ドォンッ!!
巨体が大きく揺れた。
太い爪を地面へ食い込ませても止まりきれず、地面を削りながら後方へ押し流されていく。
やがて水の勢いが弱まった。
そこへオスカーさんの放った土の槍が飛ぶ。
今度は弾かれなかった。槍が深く身体へ突き刺さる。
「効いてる! 硬化も落ちてる!」
オスカーさんの声が響いた。
「全員、ここで決める! 得意魔法を叩き込め!」
「はい!」
今まで抑えていた魔法が、一斉に放たれた。
「炎刃!」
レオくんの5つの斬撃が、サラマンダーの首元へ深く食い込む。
風が唸り、土の槍が次々と巨体を穿つ。第二部隊の水も一点へ集中し、その隙間へさらに攻撃が叩き込まれていった。
さっきまで魔法を弾いていた身体が、大きく傾く。
それでも。
「ギィヤアアアアア!!!」
サラマンダーが吠えた。
巨大な尾が振り抜かれ、近くにいた騎士たちをまとめて薙ぎ払う。そして、傷だらけの身体で地面を蹴った。
「……来たっ!」
狙っているのは、やっぱり私だった。
アインス様の風が私の身体を包み、騎士たちから離れすぎないよう大きく回り込みながら木々の間を抜けていく。それでもサラマンダーは止まらず、走りながら激しく首を振って次々と炎を吐き出した。
最初の炎をかわした先へ、もう次が飛んでくる。アインス様の水が一つを消した直後、その横から別の炎が迫った。
「ルディ!」
さっきまで近くにいたルディ様は、騎士たちへ飛んだ炎を消すうちに少し離れた位置まで移っていた。こちらを振り返ると、すぐに片手を突き出す。
「消えろ!」
黒い闇が炎を呑み込む。その間にも別の炎が地面すれすれを走り、さらに上からもう一つが迫った。
「危ない!」
レオくんの風が炎の軌道を逸らす。アインス様も私を運びながら水で防いでいるのに、炎は途切れなかった。
避けた先にも炎がある。水で消したその横から次が飛び、闇が呑み込んだ直後には、もう別の炎が迫ってくる。
(これ……全部、避けられるの……?)
逃げる方向を考えるより先に次の炎が来る。どこを見ればいいのかも分からなくなって、息をすることさえ忘れそうだった。
(どこに逃げればいいの――!?)
怖い。もう何も見たくないくらい怖いのに、目を逸らしたら次の炎がどこから来るのか分からない。
私はアインス様に運ばれながら後ろを振り返り、私たちとサラマンダーの間にある地面へ震える手を向けた。
「氷壁!」
地面から氷が一気にせり上がり、サラマンダーの進路を塞ぐように大きく湾曲する。直後に炎が激突し、白い蒸気が勢いよく噴き上がった。
『一度防いで、その間に逃げてもいい』
アルベルト様に言われた言葉が頭をよぎる。耐えるんじゃない。一秒でもいいから時間を稼いで、その間に逃げる。
アインス様の風が進路を変え、炎が氷壁に阻まれている間に距離を取った。けれど背後から氷の砕ける音が響き、振り返った時には、蒸気の向こうからまた炎が迫っていた。
「……まだ……!」
ルディ様の闇が炎を呑み、アインス様の水が別の炎を弾く。レオくんの風まで加わっているのに、サラマンダーは残った力を全部吐き出すように攻撃を続けた。
その時、闇と水のわずかな隙間を抜けて、短い炎が一つ飛び込んできた。
「くそっ、届かなかった!」
ルディ様の焦った声が響く。
考えるより先に、目の前へ氷壁を広げる。炎を受け止めた氷壁は白い蒸気を噴き上げ、瞬く間に溶けていった。
(無理――!)
勢いを殺しきれなかった炎が迫る。
その瞬間、横にいたアインス様が私を強く抱き寄せ、炎へ背を向けるように身体を捻った。
激しい熱と衝撃が、二人まとめて襲う。
「熱っ――!」
アインス様の身体の脇を抜けた炎が、外側に出ていた私の右肩を掠め、そのまま腕へ走った。
「痛いっ!!」
「リナさん!!」
「リナちゃん!」
「リナ!!」
イヤーカフから、みんなの声が重なった。
右肩から上腕にかけて服が黒く焼け落ちた。髪の右側まで熱に巻かれ、焦げた髪と布、それとは違う生々しい焦げ臭さが鼻につく。
露出した皮膚は赤く焼け爛れていた。ひどく痛むのに、一部だけ感覚が妙に遠い。
アインス様の軍服も黒く焦げ、結んだ白金の髪も一部が焼けている。それでも私を抱く腕は離れず、すぐに冷たい水が焼けた右肩から腕を薄く覆った。
「っ……!」
その直後、二人の身体が大きく揺れた。私を庇うために身体を捻ったところへ炎の衝撃をまともに受け、二人を支えていた風が大きく乱れる。
身体が落ちていく。揺れる視界の向こうで、サラマンダーの赤い瞳がまだ私を見ていた。
もう、サラマンダーも限界だったのだろう。炎が私に届いた直後、巨体からふっと力が抜け、前脚が崩れるように地面へ沈んでいった。
「リナさん!!」
レオくんがこちらへ身を翻す。その声と同時に下から強い風が吹き上がり、落下の勢いが一気に弱まった。
「レオ! 副団長がいる! こっちが先だ!」
オスカーさんの声に、こちらへ向かいかけたレオくんの動きが止まる。一瞬だけこちらを見たあと、すぐにサラマンダーの方へ向き直った。
その間にアインス様が風を立て直し、私を抱えたまま地面へ降りる。右肩から腕を覆った水は、その間も途切れなかった。
「トドメを刺すぞ!」
オスカーさんが周囲を制しながらサラマンダーへ近づく。
地面から巨大な土の刃を作り出すと、柄を掴んで大きく踏み込み、一気に振り抜いた。
サラマンダーの首が落ちる。
切り落とされた頭部まで確認してから、オスカーさんがようやく息を吐いた。
「……討伐完了」
その言葉がイヤーカフから聞こえた瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けた。
(終わった……生きてる。)
もう炎は飛んでこない。あの赤い目も、私を追ってこない。
ようやく息を吸うと、今度はちゃんと空気が入った。視界がじわりと滲み、止めようとする前に涙が頬を伝った。
「第一部隊は周囲を確認! 他の魔獣がいたらすぐ報告しろ! 第二部隊は消火と負傷者の確認! 研究員は安全が確認できるまで待機!」
「はい!」
オスカーさんの指示で、騎士たちがすぐに動き始める。
アインス様も私の腕を冷やし続けたまま、周囲へ視線を走らせた。
「すぐに治療が必要です。安全を確認でき次第、治療できる場所へ移ります」
「……はい」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
右腕も痛いし、身体もあちこち痛い。さっきまで何度も炎を避けて、落ちて、死ぬかもしれないと思っていた。
全部終わったはずなのに、頭がうまく動かなかった。
安全が確認されると、アインス様に支えられて少し離れた場所へ移った。
ルディ様が真っ先にこちらへ来る。その後ろからレオくんも駆け寄り、周囲への指示を終えたオスカーさんもすぐに続いた。
「ごめんっ……!」
「ルディ……様……」
「ごめん。僕が……ただのトカゲの魔獣だと……安易に決めつけなければ……」
ルディ様が俯いた。
「副団長、リナさんの腕、かなり酷いけど治りますか?!」
レオくんの顔が青ざめている。
オスカーさんも、焼けた私の腕を見たまま笑わなかった。
「……酷いな。これ……ちゃんと元通りになるんだよな?」
「……今の段階では、何とも言えません。まず状態を確認します」
アインス様の言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
(元通りに……ならないかもしれない……?)
何か言おうとしたけれど、声が出なかった。代わりに、涙だけが次々と頬を伝っていく。
「何が何でも止めるべきでした」
アインス様の声も低い。
私は四人の声を聞いていたけれど、まだ何も返せなかった。
「……悪かった」
「え?」
「俺も、魔道銃を使うの、背中押したから」
「……最終的には、私が決めたので。…だから、気に病まないでください」
「みんなが守ってくれたから、このくらいで済んだんですよ」
三人がこちらを見る。
本当に、そう思う。止められたのに、最後に撃つと決めたのは私だ。
誰かのせいじゃない。
そう思っているのに、涙はまだ止まらなかった。
「治療をします。リナ、腕を見せてください」
「……はい」
アインス様が焼けた右肩から腕を確認する。
近くで見ると、アインス様の軍服も黒く焦げていた。白金の髪の先も少し焼けている。
「アインス様も……」
「私の方は軽傷です。先にあなたを診ます」
右腕を覆っていた水の感触が変わった。ただ冷やしていた水が、傷の状態に合わせるようにゆっくりと動いていく。
「これ……水魔法で、治療を……?」
「はい。外傷なら、水魔法である程度処置できます」
「いた……い……」
「大丈夫です。すぐ処置します」
冷たい水に包まれているのに、焼けたところだけが熱を持っている。
アインス様が慎重に腕へ触れた。
「……ここは?」
「……はい」
「触れているのが分かりますか?」
「……あんまり、分からないです」
アインス様の表情がさらに険しくなる。
「腕は動かさないでください」
「はい……」
「ポーションはありますか?」
「あります……。アルベルト様にもらったのが、2本」
震えた左手で鞄へ手を伸ばそうとすると、アインス様が止めた。
「私が取ります」
鞄から取り出した1本を開ける。
アインス様がポーションを水魔法で薄い膜のように広げ、焼けた右肩から腕へ均一にまとわせていった。
ひんやりとした感触が広がる。
「もう1本は飲んでください。衝撃も受けています」
「はい……」
渡された瓶を左手で持ち、少しずつ飲む。前にも飲んだ、少し苦い味。
全部飲み終わってしばらくすると、身体の重さが少しずつ引いていった。焼けるようだった腕の痛みも、さっきより遠くなり、頭の中にかかっていた靄も少しずつ晴れてくる。
アインス様に促され、右手の指を一本ずつ曲げてみた。まだ少し震えているけれど、ちゃんと動く。
肘も、肩も、ゆっくり確かめるように動かしてみる。痛みは残っているものの、さっきまで感覚が遠かったところにも、今はちゃんと感覚が戻っていた。
レオくんが大きく息を吐いた。オスカーさんの強張っていた表情もわずかに緩み、ルディ様も少しだけ肩の力を抜く。
アインス様も右腕をもう一度確かめると、張り詰めていた表情をほんの少し緩めた。
顔を上げると、レオくんはまだ心配そうにこちらを見ていた。オスカーさんにも、いつもの軽い笑顔はない。
もう安全だ。サラマンダーは倒された。腕の痛みも、少しずつ引いている。
そう思った途端、戦っている間は考えないようにしていたものが、一気に押し寄せてきた。
「……怖かった……」
声が震えた。
「すごく……怖かったです……」
「はい。もう大丈夫です。よく頑張りました」
アインス様の声は、いつもと同じように落ち着いていた。
「特訓した魔法、上手く使えてました」
その言葉に、仕事終わりにアインス様と続けていた魔法の訓練を思い出した。
ダンジョンへ行くと決まってからは、アルベルト様も加わってくれた。
私はもう一度、アインス様を見る。
焦げた軍服も、焼けた髪も、全部私を庇った時についたものだ。
「ありがとうございます……。アインス様がいなかったら、私、死んでたと思います」
アインス様は静かに私を見た。
「命が無事で……本当に良かったです」
また涙が一つ落ちる。
氷壁。避け方。
何度も何度も、自分で身を守れるようになるまで、二人が付き合ってくれた。
(アルベルト様が、身を守れるまではって、力をつけてくれた……)
魔法が使えなかったら、もっと酷いことになっていたと思う。
『私、ウサギのためにあんなに訓練したんですか?』
あの時、そんなことを思っていた自分は、何も分かっていなかった。
アルベルト様は、いつだって想定外のことが起きる可能性まで考えていたんだ。
「……アルベルト様にも、ちゃんとお礼言わないと……」
涙を拭いながら呟くと、アインス様が一瞬だけ目を伏せた。
「……そうですね」
いつもより少し低い声だった。
オスカーさんが手を動かすと、細かな土がふわりと浮かび、服や髪についていた煤や灰を絡め取って足元へ落としていく。
「あ……ありがとうございます」
「……これくらいさせて」
それだけ言って、オスカーさんは手を下ろした。
少し離れたところでは、レオくんも黙ったままこちらを見ている。
ルディ様は俯いていた。
誰も、いつものように笑わなかった。
傷はもう痛くない。
なのに。
私はしばらく、涙を止めることができなかった。




