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第六章(8)「全部言うて」

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《登場人物紹介》

◾️吉野遍

自販機で「ティラミス・ラテ」なるものを見つけてしまった……

不可抗力……


◾️白川古都

遍の影響でついに自販機でブラックコーヒー以外のものを購入してしまった。

(でもキレートレモンなので、遍に言わせたら全然冒険してないレベル)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夕方、古都が帰宅すると遍は照明もつけずに、リビングのソファに身体を預けていた。

「ごめん遅くなってしもて……あまね……?」

遍は古都が見立てたネイビーのセーターに、黒のパンツを着ている。

「こんな良いやつ、よっぽどやないと着られへん!」と騒いでいたそのセーターを着ている。

どこかに行っていたのか。

そしてこのただ事ではない様子。

酷く、嫌な予感がした。

古都はジャケットを脱いで椅子にかけ、遍の隣に座った。

「あまね……どうした……何があった」

「……古都、」

すぐ隣に古都を認めた遍は一瞬だけ目を見開き、すぐに弱々しく、目を細めた。

抱きしめようと伸ばされた古都の腕を制するように掴んで、遍は俯いた。

「……俺、やっぱり古都の人生をめちゃくちゃにしてしまう存在なんかな……ごめん、ごめんな古都……」

今にも砕けそうなガラス細工のような目をしていた。

古都は遍の腕を握り返し、無理やりにこちらを向かせた。

「何があった」

それでも俯こうとする遍の頬を両手で包み、その目を間近から覗き込んだ。

「全部言うて、あまね」


その声は優しく響き、遍は酷く安堵した。

遍の目から一筋、涙がこぼれ落ちた。

今日、初めて流した涙だった。


遍は古都の腕に抱かれて、ぽつりぽつりと今日のことを話した。

父親に呼び出されて出会ったこと。

素性を全て調査されて、家族の情報も全て掴まれていること。

別れてくれと言われ、転職先の紹介と、引越し費用と言われて分厚い封筒を渡されたこと。

遍は泣きじゃくり、嗚咽に噎せながら自分を責めた。

その姿を見て、古都の顔から少しずつ、温度が消えてゆく。


(──あのクソ親父、あまねに揺さぶりかけよったな)


古都の脳内に、父親に対する激しい怒りと、それ以上に、あまねを不安にさせてしまった自分への怒りがふつふつと湧き上がる。

自然、遍を抱く腕に力が籠った。

遍が驚いたように古都を見上げたので、古都はにこりと笑って低く、優しい声で遍の名前を呼んだ。

「あまね。こっち見ろ」

古都はあまねの涙で濡れた頬を両手で包み込んで、真っ直ぐにその目を見つめる。

「……お前はなんも悪くない」

「っ、古都……」

「俺は俺の意思でここにおる。絶対に、お前のせいやない。俺は何も失ってない。俺の人生に本当に必要なもんは、最初からこの部屋にしかない」

古都はあまねの額に自分の額をこつんと当てた。

「俺は……っ」

遍は嗚咽をやり過ごして、古都の腕にすがりついた。

「俺自身を悪く言われることは何ともない……、けど、古都のこと侮辱されるんは、許せへんかった……ほんまの親やのに……古都とみやびさんのこと……酷いこと言うて……」


——みやび。


その名に、古都の身体が硬直する。

父親は何を言った。

何を、どこまで。


遍は涙に潤んだ目で、古都を見上げた。

「なあ、古都……お父さんが言うたん、嘘やんな、古都がみやびさんのこと、手籠にしたとか……」


遍は、それ以上続けることができなかった。

見上げた古都の表情は、遍が思っているそれではなかったから。

「あまね……」

こんなに困惑した古都の声をきくのは、初めてだったかもしれない。

いや、付き合うようになった朝。

顔を真っ赤にして付き合うかどうかを尋ねてきた、あのとき以来だったかもしれない。

古都はゆっくりと身体を離して、ソファに力無く座った。

まるで魂の抜けた人形のように。


——「俺とみやびの距離が近すぎたから」


あの日、旅館の広縁で闇を見ながらつぶやいた、古都のあの一言。

あの言葉の後ろにまだ隠されていた、本当のこと。

「古都……?」

古都は両手で顔を覆い、細いため息を吐いた。

「古都、どこまでが、ほんまのことなん……?」

古都は、顔を覆ったまましばらく沈黙した。

「あまね、すまん……」

何に対する謝罪なのかもわからず、遍は腹筋に力をこめた。

顔を覆ったまま、古都はこれまでに聞いたこともない、震える声で、小さく、呟いた。


「……あの日。十六のとき。俺は——みやびを抱いた」


世界のすべての音が、消えた気がした。

時間も、止まった気がした。

遍はまるでただひとり宇宙に放り出されたような気がして、座っているにも関わらず、平衡感覚を失ってびくりと身体を震わせ、我に帰った。

たった今聞いたことが聞き間違いではなかったかと何度記憶を巻き戻しても、古都は同じことを言った。

「俺は……ただみやびのぬくもりが恋しくて、寂しくて。みやびを求めた。みやびもそれに」

——応じてくれた。

それは古都の手前勝手な願望だったのかもしれない。

ただ、白い肌に包んで、抱きしめてくれた。受け入れてくれた。

「それでも俺は、ガキやった。バレへんわけなかった……」


愚かだった。

ただ、幼かった。


「父親の秘書に現場押さえられてしもて。みやびは別宅で、俺は自宅で軟禁された。そのあとは、有馬で話したとおり……みやびは大学辞めさせられて、強制的に結婚決められた。父親にやめてくれって頼みに行ったけど、会わせてももらえへんかった。母親に……」

言いかけて、古都は一瞬息を詰まらせた。

「母親に、父親を止めてくれて縋ったけど、あの人、困った顔するばっかりで……追い討ちみたいに、『あおいはまだ小さいから、手ぇ出さんといて』て……」

それは、絶望だった。

「けど、そんなん当たり前や。離れて暮らしてる息子なんて他人みたいなもんやし、娘傷物にされて腹立たへん親はない。全部、俺のせいやねん」

両手に覆われた古都の顔は、今どんな表情をしているのだろう。

こうしてみやびに関することの全てを胸の底に閉じ込めたまま、「自分のせい」と責め続け、もう会うことのできない姉に謝り続けてきた。

遍は古都のその孤独と闇を思った。

なぜか、旅館の離れの大窓からみた、渓谷の闇の深さを思い出した。


(どうしたらええんやろう)


遍は、目の前でうずくまる背中を見て、まるで他人事のように思った。

実姉と関係を持った、その事実が許せないわけではない。

そうなった背景には、あの父親と家父長制がある。

きっと、みやびはもう古都を責めていないだろう。

いやおそらく、最初から古都のことを責めたりなんかしていなかったのではないか。

そんなことを言ったとて、古都は納得するはずもないが。

けれど。

これ以上、古都に辛い思いをして欲しくない。

遍は、そう思った。


(古都って、こんなに小さかったっけ)


遍はゆっくりと手を伸ばし、古都の栗色の髪に触れた。

びくりと古都の肩が揺れる。

恐る恐る、古都が顔をあげた。

遍は無言で古都を引き寄せて、その頭を包み込むように、抱きしめた。

どうしても消すことのできない傷ごと、抱きしめるように。

「あまね……」

古都の指が、遍の輪郭を探るように遍の脇腹から背中を這う。

「あまね」

二人の隙間を埋めるように、古都は遍を強く抱き寄せた。

「あまね……」


遍が代わりに許すのではない。

ただ、温もりはあるのだということを、遍は古都に伝えたかった。


「古都ー、部屋着かして」

風呂を終えた遍は、ボクサーパンツ一枚で、キッチンにいる古都に声をかけた。

「うっかり全部洗濯してしもて、一枚もないねん」

そういう遍に古都は仕方ないなぁと笑いながら、黒い大きめのシャツを貸した。

「あ。これ、初めて泊まった日に借りたやつやん」

遍は愛しそうにそのTシャツの匂いを吸い込み、袖を通した。

オーバーサイズのTシャツから白い太腿をこぼしながら遍は古都に歩み寄り、その広い背中をぎゅう、と抱きしめた。

古都はスポンジを絞って、手を拭いた。

「もう少しで終わるからな、あまね……」


「古都、抱いて」


その背中に、遍ははじめて自分からおねだりをした。


シーツの海で溺れるように、二人は長い時間、互いを求め合う。

遍は何度も何度も、愛しい男の名前を呼んだ。

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