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第五章(6)古都の過去

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

《登場人物紹介》

◾️吉野遍

あまねが八歳のときに父親が亡くなった。

悲しむ母親の姿を見て、なにも言葉をかけることができなかった。

そのことを、ぼんやりと思い出したりしていた。


◾️白川古都

この離れで、こんなに心穏やかに過ごせたのはいつぶりだっただろうと思った。

ちなみにミニシアターがある。

卓球台もある。澤江さんは卓球も強い。

あまねは「想定内」って言いそうだが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな窓に切り取られた闇から届く虫の声が、遍の耳に遠く聞こえる。

遍は広縁のソファに座り、大窓に映る古都の姿を目で追っていた。

湯呑みを二つ盆に載せた古都がこちらに来るのが見えて、遍は慌てて何も無い闇に視線を移した。

「おまたせ」

古都が遍の目の前に湯呑みを置き、自分の前にもひとつ置き、向かいのソファにゆっくりと身体を預けた。

「胃の調子、どうや?」

「まだ喉いっぱい」

ふふ。と古都は笑い、肘置きについた手に頬を預けた。

「お前の食いっぷりは見てて気持ちええけど、今日は無理しすぎたな」

そう言って古都はクスクスと低く笑い、ふと静かになって、小さく首を振った。

「いや……お前に無理させてしもた。気を遣わせたな」

「古都……」

古都は外に顔を向けたまま、目だけで遍を見た。

目が合うと、古都は目を細めて前髪をかきあげ、柔らかく笑った。

「参ったな。何から話そ」

「……古都の話したい順番で、話したいことだけでいい」




耳の奥で、パリ。と、あの古いアルバムをめくる音が聞こえた気がした。

一枚の写真。

栗色の髪の少年と黒髪の少女がこの部屋のこの広縁でむせ返るような渓谷の緑を背景に碁盤を挟んで笑い合う、まるで美しい絵画のようなあの写真を、遍は思い出した。





「俺には、きょうだいが二人おって。五つ上に姉がひとり。三つ下に妹がひとり。その五つ上の姉があの写真の人。……みやびっていう名前」

古都は湯呑みを持って、闇を眺めている。

遍はその横顔を、見つめている。

「ちなみに妹はあおいって言うねんけどな」

みやびに古都にあおい。まさに京都の風情を冠する名付けだと遍は思った。

「……うちは古い家父長制が蔓延る家で、代々事業やってて、俺はきょうだいの中で唯一の男やったから、家業継げ言われて……子どもの頃から誰にも甘えられんと育てられた」

古都は湯呑みの縁を親指でなぞっている。

「勉強、習いごと、当主としての教養の詰め込み。同じ家におるのに、母親やきょうだいらとも離れて過ごすことが多かった」

古都の目の光が、一瞬柔らかくなった。

「年に一回だけ、家族でここに来てたんや。家族で言うても父親はほぼ不在やったかな。母親ときょうだいとで。」

けど、と古都は続ける。

「家族で言うたって、俺はひとりでこの離れに泊まって、母親ときょうだいは別の離れで過ごしてた。紅葉のきれいな離れがあってな。母親らはそこがお気に入りやったから。……多分、俺を離してたんは父親の指示やないかな。母は父に逆らえへん人やったから」

孤独——

遍はアルバムの中の少年の静かな瞳の理由を知り、胸がキュッとした。

「せやから、澤江さんに碁を、瀬戸さんに料理を、山根さんに木や花の名前を教えてもろて」

古都の口元が僅かに緩んだ。

「そんな家族やったけどな。みやびだけは……俺を気にかけてくれてた」

きっと今、古都もあの写真の日々を思い出しているのだろう、と遍は思った。

「ただひとり、家族として俺に接してくれた」

どうにか澤江に勝ちたくてひとりで碁を並べていた古都に、「おしえて」と声をかけてくれた。

ただそれだけで、古都の世界に色が生まれた。

「例え生活が別々でも、みやびがいればそれでよかった。どんなことにでも耐えられると思っていた」

遍は、「みやび!」と、生意気そうな可愛い声で姉を呼びその後を追う栗色の髪の子どもの姿を想起した。

古都は、しばらく黙った。

そして窓の外の闇の、その向こうに何かを探すように目をすがめた。

「……でも父親は馬鹿やないし、俺はガキで、途方もなく馬鹿やった」

古都は目を閉じ、大きく息を吸ってしばらく止めてから、ゆっくりと吐いた。

吐ききってから目を開けて指を組んだ。

「……みやびが二十一のとき。急に縁談が決まった。理由は……」

古都は一度遍を見て、もう一度闇に目をやった。

「……俺とみやびの距離が近すぎたから」

遍は目を見開いた。

そのあまりの理不尽さと、古都の指が小さく震えていることに気付いたからだ。

「……あいつはまだ大学生やったのに中退させられて、二十も年上の会ったこともない男のところに嫁に行くことになった。男子は家業を継ぐ駒、女子は政略結婚の駒。それでいい訳があるか言うて父親に抗議しに行ったけど、取り次いでさえ貰えんかった。どうにかして母親に止めてもらうよう頼んだが、あの人にそんな力はなかった……」

古都はいま、窓の外の闇に何を見ているのだろう。

遍は近くにいるのに古都に手が届かないような気がして、自分の手をきゅっと握った。

「俺に、もう少し上手に立ち回れる機転があったら。父親に意見が出来る力があったら。みやびを逃がしてやれる財力があったら。……けど、十六の俺には、何もかもが足りんかった」

古都は小さく首を振った。

「……俺が、みやびの真っ当な未来を奪ってしもたんや。みやびとはその結婚式以来会うてない。今は金沢かどっかにおるらしい。こどもも出来た言うてたんちゃうかな……せめて、幸せでおってくれたらええなと思う」

古都は喋るのをやめて、しばらく窓の外を眺めてから、遍をまっすぐに見た。

「重たい話でごめんやで。せっかくのんびりしに来てるのにな」

遍は首を振った。何かを言いたかったが、どんな言葉もみつからずにただ、首を振った。

そんな自分が情けなくて、遍はにじむ涙を俯いて拭った。

「何を泣いてるねん、あまね」

古都が眉を寄せて笑う。

「笑わんでええ……っ」

遍は声を上ずらせながら、やっと言葉を発した。

「古都、無理して笑わんといて……」

古都の目が、夜の海のように揺れた。

涙を拭う遍の手を、古都はじっと見る。

その指先がピクリと動いたが、肘掛からは動かなかった。

遍がテーブルに置いた手を強く握りしめる。

古都はその手にゆっくりと手を重ねて、指先に力を込めた。

遍は、ほんのわずか、手を引かれたような気がした。

強さを強いられたこどもはきっと、「こっちに来て欲しい」と、「抱いて欲しい」と、言葉に出来ないのかもしれないと、遍は思った。


身を乗り出し、遍はテーブルを乗り越えて古都の胸に飛び込んだ。

遍の足に湯飲みが当たって、毛足の長い絨毯に鈍い音を立てて落ちる。

湯呑みは割れずに済んだが、茶のこぼれた部分がじっとり黒く濡れている。

「あっ」

遍が肩越しに絨毯を見るが、古都がもう一度遍の腕を強く引いた。

「……明日、怒られよ」

そう言って、胸の中にいる遍を強く抱きしめた。


腕の中で遍は、古都のいつもより少し速い鼓動を感じていた。

ひとりがけのソファは、大人二人では窮屈だ。

両足を手すりに逃がし、遍は古都の胸に頬を密着させる。

そんな遍の髪に鼻を埋めて、古都はひたすら息をしていた。

言葉がなくても、ただこうしてぬくもりを貰えるだけで、それだけで救われる思いがすることを知った。




布団のなかで、二人はただ、裸で抱き合った。

肌を寄せ合って、境界線がわからなくなるほどに、体温を分け合った。

遍は古都が苦笑いしてしまうほどずっと泣いていた。

遍自身も何故これほどに涙がでるのか分からなかったが、もしかすると、古都が我慢してきた分の涙がいま自分の目から出ているのかもしれないと、そう思った。

(ああ……)

泣きながら、みやびの姿が誰に似ているのかを思い出した。

(江永さんや……)

あの黒髪、たおやかな姿。

古都が無意識に求めていた存在。

(古都……)

遍はまた込み上げる涙を持て余して、古都の首筋に顔を埋めて、強く抱きついた。


泣きすぎて少し湿ってしまった遍の黒髪を、古都は指で梳く。

「……お前をここに連れてきたんは、決して思い出を上書きしようとか、お前をみやびの代わりにしようとか、そんな理由やない」

遍は嗚咽で肩を揺らしながら、古都を見上げる。



「俺が大事にしてる場所を、お前に見せたかった——ただ、それだけや」



遍は涙に濡れて宝石のように光る目を見開いて、何度もうなずく。

何度も唇を重ねて抱き合い、二人は呼吸を合わせるように、闇の姿をした理不尽から身を隠すように、ひっそりと眠りについた。




翌朝、二人は部屋で朝食を食べて、広縁で食後のコーヒーを飲んだ。

泣けない古都の代わりに遍流した涙は、夜のうちに流れきって、やがて渓谷の木々の葉の上で朝日を受けてきらめく朝露となった。

古都が手を伸ばして、少し浮腫んだ遍の瞼を指先でなぞると、遍は照れくさそうに笑った。

「めっちゃ、楽しかった」

「そうか」

「ごはんも美味しかったし、みんな優しくて」

「うん」

「俺、ここめっちゃ好きになった」

遍が笑うだけで、古都の胸の重い澱が、流されるような気がした。

「……そうか」

古都は目を細めて、遍の前髪を指先で撫でた。

「ありがとうな、あまね」




二人は荷物をまとめて、密度の濃い時間を過ごした離れを後にした。

正面玄関では、澤江を始め、ここに勤める人達が二人を見送るためにずらりと並んで二人を待っていた。

こんなに人がいたのかと、遍は少し驚いた。


古都は澤江に歩み寄り、手を握った。

「……今年もお世話になりました」

「古都様、またのお越しをお待ちしております。どうぞご自愛ください」

「澤江さんも、元気でいてください」

澤江は握りあった手に手を重ね、祈るように目を閉じた。


「吉野様……」

男性に声をかけられて、遍が振り向くと、白い調理服を着た背の低い男が遍を見上げていた。

「僭越ながらお声がけさせていただきます、瀬戸でございます」

丁重な前置きをして、男は深々と腰を折る。

「吉野様のお食事ぶり、澤江から伺っておりました。また是非お越しください。腕によりをかけておもてなしをさせていただきたく思います」

「……瀬戸さん!」

遍は瀬戸の手を強く握った。

「ごはん、美味しかったです! 特にだし巻きが……いや、全部美味しかったです! 俺、瀬戸さんのファンです!」

「勿体ない……!」

普段無口な瀬戸が顔を赤くして話しているのを、古都と澤江が笑いながら見る。


澤江が歩み寄り、遍の手を取った。

「吉野様……。吉野様だからこそ、吉野様だからこそでございます」

澤江がまっすぐにあまねの目を見て、もう一度手を強く握った。

遍は微笑んで、自信なさげではあるが、確かに頷いた。

「……ありがとうございます」


深々と一礼するスタッフに見送られて、二人の乗った車は門を出る。

スタッフたちが見えなくなり、建物が見えなくなり、竹藪を抜けてゆく。石畳がアスファルトになり、突き当たりに車通りが見えた。

下界に戻ってきたのだ。


まるでさきほどまでの生活が夢のようだと、遍は思った。

贅を尽くした空間、優しい人たち、穏やかな顔をした古都。

そして、彼の重く静かな歴史。


遍は運転席の古都の横顔を見た。

アームレストに置かれた古都の手に、そっと手を重ねる。

気付いた古都がふと遍の方を見て、笑った。

「どした?」

その優しい声に、遍は小さく息をつく。

「古都……」

車は秋晴れの空の下、家路を辿る。

「連れてきてくれて、ありがとう」

古都は重ねられた遍の手を、握り返した。


「……俺の方こそ、ありがとうな、あまね」


握りあった手の温もりが互いに伝わる。

遍はフロントガラスの向こうの、秋晴れの空を見上げた。




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