第五章(3)隠れ宿の二人3
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《登場人物紹介》
◾️吉野遍
ここの旅館なに?王族専用?
7月の誕生日にはシャネルの香水をプレゼントされた。
シュッと吹きかけられて、「どんな匂いする?」って耳元で囁かれた。
「雨上がりのにおい」「濡れた木……?」って、遍の語彙で一生懸命答えるのを、
耳元で「……それから?」「ふふ、うん」って低く相槌を打たれながら鼻埋めて匂いを楽しまれて本当に困った。
とにかく、古都に耳元で囁かれると心臓に悪いという話。
◾️白川古都
ここのシーツの肌触りがほんまに好き。
一人で来た時は広縁で本読んで澤江さんと碁を打って過ごしてる。
今回は賑やかで、これはこれで楽しいと思っている。
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「……あまね、あまね」
深い眠りの海をたゆたっていた遍は、軽く肩を叩かれて、朝の岸に呼び戻された。
鳥の声が朝を告げて、大窓の向こうには薄らと霧のかかった渓谷が広がっている。
「……おはよ、……?」
「……おはよう、あまね」
未だに自分の所在が分かっていない様子の遍に、古都は低く穏やかに笑った。
「そろそろ澤江さんたち来る思うから、シャワー浴びたほうがええかな思て」
遍ははた、と自分の姿を見る。
昨夜愛し合った末に意識を手放したのか、一糸まとわぬ姿で、古都に足を絡めていた。
道理で、布団がやけに気持ちよかったはずだ。
素肌でシルクのシーツで眠りこけていただなんて。
「わあ!」
驚いて飛び起きようとして、腰の痛みに呻いて布団に顔を伏せる。
「……無理させて、悪かったな」
古都が腰を擦りながら、髪に唇を落とす。
「風呂まで連れてったろか?」
遍は断固!と手のひらを見せて立ち上がるが、ふらふらと数歩歩いて、畳の上にへたりこんだ。
古都がクスクスと笑いながら追いつき、首に腕を回すよう促して、遍を軽々と抱き上げた。
「最初から甘えとけばええのに」
「……屈辱や」
遍は恥ずかしさで古都の肩口に顔を埋めた。
朝食の膳が次々と座卓に並べられてゆく。
遍は古都の助けを借りて座椅子に座り、浴衣の合わせを手でまとめて少しモジモジとしている。
昨夜喉元や首筋に付けられた痕が、浴衣ではどうしても隠れないのだ。
恨みがましい目で向かいに座る古都を見るが、古都は飄々としている。
「吉野様、ここではおくつろぎくださいね」
察した澤江が、遍に笑いかけた。
「……なんか、すみません」
申し訳なさそうに遍は頭を下げる。
「まあ、勿体のうございます」
澤江は笑って、漆塗りのおひつから炊きたての白米を茶碗によそった。
「昨夜、美味しそうに召し上がられていたので」
と、提供されたのはつやつやの白米。
昨夜提供されたものと同じ産地だ。
卓上の七輪で炙られているのはノドグロの一夜干し。
小鉢にはひじきの煮付けと青菜の浸し。
ちりめん山椒に椎茸昆布。
そしてふっくらと焼き上げられただし巻きは、まだ湯気が立っていた。
「朝からこんなごちそうを……」
食べる前から満たされた顔をして、遍は手を合わせた。
だし巻きを口にした瞬間、遍は目を見開いた。
「……これ」
舌触りを確かめるようにもぐもぐと口を動かしながら、ごくりと飲み込み、古都を見た。
「……古都のだし巻きと同じ味する!」
古都は、少し目を伏せて小さく笑った。
「まあ。よろしゅうございましたね、古都様」
「……?」
遍が首を傾げて古都を見ると、古都はいらんことを、という風に澤江を横目で見て、右手で頬をかいた。
「……ガキの頃にこのだし巻きが好きすぎて、料理長の瀬戸さんに直談判して作り方を習ったんや」
「ええ?」
澤江が懐かしそうに言う。
「まだ古都様が九つほどの頃でしたね。厨房で料理長に頼み込まれまして、出汁を引くところから指南させていただきまして」
「違います。あの時は厨房の掃除からでした」
古都は少しだけ耳を赤くして、だし巻きを箸で割り、口に運んだ。
「……やっぱ、うま。」
そう言うと古都は、口角上げた。
結局遍は白米を三杯おかわりして、昨夜食べきれなかったシャインマスカットまで平らげて、座椅子に身体を預けた。
「あかん……こんな生活してたら太ってまう……」
「ほなおかわり控えたらええやろ」
食後のほうじ茶を飲みながら古都が言うと、遍は信じられないものを見るような顔をして古都を見た。
「古都……おかわり我慢とか有り得へんやろ、こんだけ美味いんやで……?」
はいはい、と笑って古都は澤江を見た。
「澤江さん。布団そのまま敷いといてください。昼寝するから」
澤江は心得た顔で頷いた。
「それではシーツだけ替えておきますね」
「ありがとうございます」
遍は平然とそういうことを言う古都と、平然とそれを受け止める澤江を、ひとり顔を赤らめて交互に見た。
遍は、腹ごなしだと言って古都の助けを断り、露天までの十段ほどの階段を、手すりを頼みにヨタヨタと歩いた。
秋の朝の風を頬に受けながら肩まで浸かり、深く息をつく。
疲労回復、打ち身、腰痛に効くと聞いたら、今の自分には温泉に浸かる一択だった。
遍は縁に組んだ腕に顎を乗せて、広縁で浴衣のまま本を開いている古都をぼんやりと見つめる。
どんな本を読んでいるのかは見えないが、ソファにゆったりと体を預け、穏やかな顔をしている。
会社では絶対に見ることのない表情だ。
ふと、古都が顔を上げて遍を見た。
遍の視線に気付いたのか、ただ遍の様子を見ようと思ったのか。
小さく手を上げると、また本に目を戻した。
(古都ってすごいよなー……)
こういう所での過ごし方に慣れきっている。
人に世話されることに慣れている。
何もしない贅沢を知っている。
古都が、ひとりになりたいときに来る、と言うこの旅館(だと遍は思っている)に自分を連れてきた意味は何なのだろう。
身体に散りばめられた、昨夜の痕が湯船に沈んでゆらゆらと揺れる。
彼がここまで完璧に甘やかしてくれるのは何故なのだろう。
もう何ヶ月も一緒にいるが、まだまだ遍には分からないことばかりだ。
露天から戻った遍に、古都が手招きをする。
タオルで襟足の水気を拭いながら遍は素直に古都に近付いた。
手首を取られて、抱き寄せられた。
「『昼寝』しよか、あまね」
「えっ」
遍は耳を赤くして、古都の顔を見上げる。
「……その、……また、するん?」
古都はその反応を楽しむように、クスクスと笑った。
「してもええし、せんでもええし。お前抱きながらゴロゴロしたいなー思て」
遍は少しホッとした顔で手を引かれて、寝室に向かう。
真新しいシルクのシーツが、ひとつの皺もなく敷き伸ばされている。
纏ったばかりの浴衣の帯を解かれ、遍はまた一糸まとわぬ姿にされて、シーツに横たえられた。
古都もまた浴衣を脱ぎ、遍の横に寝転び、腕で頭を支えて遍の黒髪を慈しむように指で梳く。
遍はおずおずと足先を絡め、肌を擦り付ける。
「古都、足冷た」
遍の肌は、じんわりと湯の熱を帯びてしっとりと吸い付くように心地いい。
「お前は温いなぁ」
慈しむように、古都は目を細めた。
髪を弄っていた指で遍の顎を捉え、柔らかく唇を重ねる。
「湯のええ匂いするわ……」
唇と舌で溶かされて、次第に遍の息が上がる。
その素直な反応に、古都は思わず笑ってしまう。
「……あまね、可愛いなぁ」
古都の指が、遍の肌を這った。
「……俺、古都の『せんでもええ』は、金輪際信じひんことにするな」
甘い余韻に腰を震わせながら、遍は赤い顔を枕に埋めた。
「……ごめんて」
枕元で古都は低く甘い声で笑い、遍を後ろから抱く。
「……あまね、許して」
肩越しにわざとらしく睨んで、遍は体勢を変えて古都の胸に頬を擦り付ける。
「古都が昼寝用の枕になってくれるんやったら、許そかな」
「そんなんでええの?」
遍は具合のよいポイントを探して、幾度か頭を置き直し、古都に手足を絡める。
古都の肌は、少しだけひんやりとして気持ちよい。
遍は心地の良い疲労の波にゆっくり、ゆっくりと絡め取られていく。
「ことぉ、好き」
「うん、あまね。俺も好きやで」
(ああ。幸せやな)
低くまろい声が耳をくすぐる。古都の匂いを吸い込んで、遍はゆっくりと意識を手放した。




