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第三章(3)「今度、二人で食事に……」

《登場人物紹介》

◾️吉野遍

酒に弱い自覚はあるから迷惑かけないように自粛せねばと思いながら、毎回楽しくて勧められたら飲んでしまう。

ビールよりもワインベースの甘いカクテルが好き。

反省している。


◾️白川古都

こちらのリスクマネジメントを軽く凌駕してきた営業部平社員に恐れ慄いている(色んな意味で)

寝てくれてよかった。

午後三時前。

出先から戻った遍は、今日はオロナミンCの気分だなと思いながら、足取り軽く自販機コーナーに向かっていた。

同棲しているというものの、遍の外回りの日や古都の戦略ミーティングの日を除けば、これまで通りだいたい二時半には自販機前で顔を合わせる二人だった。

(今日は古都おるかな)

少し遅れたので、もう居ないかもしれない。

一ブロック向こうに古都の長身の背中と栗色の髪が見え、遍は目に見えて表情が明るくなる。

駆け寄ろうとして、その背中の向こうに髪の長い人影があるのに気付き、咄嗟に柱の陰に身を隠した。

談笑している声が聞こえる。

女性の楽しげな声と、古都のいつも通りの抑揚のない会社用の声。

「今度、二人で食事に……」

(えっ……)

女性のその言葉に遍は一歩後ずさる。

古都の返事を聞くのが怖くて、遍はその場から足音を立てないように逃げ出した。


古都はどんな表情をしていたのだろう。

古都のあの声のトーンは、会社用のそれだったはずだ。

けれど、語尾がいつもより柔らかくはなかったか。

(古都……)

遍は無意識に手のひらで口元を覆う。

足元のフロアカーペットが泥のようにぬかるんで、ズブズブと沈んでいくような気がした。


遍が愛することができる相手は、古都しかいない。


(けど……)


けれど、古都にはああやって、あらゆる選択肢があるのだ。



午後八時を回っても遍は帰宅せず、何の連絡もない。

LINEが未読であることを確認して、古都はため息を着いた。

いつもなら「腹減った~」と言いながらバタバタ帰宅して食事を終え、風呂に入ろうという時間だ。

ダイニングテーブルには二人分の夕食の準備が出来ている。

もう一度LINEを送ろうかと古都がスマホを取ったとき、玄関の扉が開く音がした。

「あまね?」

古都が玄関に向かうと、スーツ姿の遍が靴を脱いでいるところだった。

「えらい遅かったな。晩飯できてるで」

「……うん」

遍は言葉少なに自室に古都の傍を通り過ぎ、自室に入っていった。

肩を落とした背中が気になって古都があとを追うと、遍は照明もつけないまま、部屋に立ち尽くしていた。

「……あまね、どうしたんや。仕事でなんかあったんか」

肩を僅かに震わせて、遍は古都の方を見る。

けれど目を合わせることができず、その足元に目線を泳がせて小さく首を振った。

「今日はお前の好きな蓮根の挟み焼きやで」

「……古都、ごめん俺あんまり食欲なくて。風呂入ってええかな」

「……ええけどお前、大丈夫か。なんか様子変やぞ」

大丈夫。とフローリングに目を落としたまま独り言のように呟き、遍はバスルームに消えた。


取り残された古都は、首を傾げる。

酷く思い悩んでいる。

そういう意味では、遍はとてもわかりやすいタイプだ。

仕事で何かがあったのならば、帰宅後何よりもまず泣きついて来そうなものを。

風呂場からはシャワーの音が聞こえはじめる。

ひとまずは大丈夫だろう、と古都はひとりで夕食を軽く済ませ、メインの蓮根の挟み焼きにラップをかけてそのまま冷蔵庫にしまった。


風呂から上がった遍はまた自室に戻った。

古都はリビングのソファで遍の部屋のドアが閉まる音を聞き、肩越しに少しだけ目をやった。

一人で考える時間が必要なのだろう、と古都は思った。

「相談したいことあったらいつでも言え」

とLINEを送り傍らの経済雑誌を手に取ってぱらぱらとページをめくるが、古都には珍しく、目が滑ってなかなか内容が入ってこなかった。



午前0時。

いつもなら二人とも寝室に行く時間だ。

古都は先にベッドに入って遍を待っていたが、遍は自室から出てこようとしない。

余程困りごとがあるのかと、古都はベッドを出て遍の部屋のドアをノックした。

「あまね? 入るぞ?」

鍵はかかっておらず、ドアを静かに開けると、暗い部屋の真ん中、ローテーブルの足元で、あまねは蹲るようにブランケットにくるまっていた。

「……あまね? 寝るんやったらベッドで……」

古都が近寄り遍の肩に触れると、震えていることに気付いた。

肩を震わせて、遍は静かに泣いていた。

驚いて抱き起こそうとすると、遍は身を捩って抵抗し、床に顔を伏せた。

「……いったいどうしたんや、あまね」

フローリングに遍の黒髪が乱れて散らばる。

古都は為す術なく、その髪を撫でた。

「……いやや」

「え?」

絞り出すような声が聞こえた気がして、古都は遍の黒髪に顔を寄せる。


「……古都、女の人とふたりで、ご飯なんか、いかんといて」


嗚咽まじりの細い声が、床でくぐもって古都の耳に届く。

古都は眉をひそめ、今日の午後のことに思い至った。

「……あまね」

「……いくんやったら、俺に出ていけって言うて」

それには答えずにブランケットを剥ごうとする古都を、遍は身を捩って阻もうとするが、易々と結界を解かれて手首を掴まれてしまう。

「いやや、はなして」

「あまね、今日自販機んとこで俺が声かけられてたん、見たんか」

目線を床に落としたまま、遍は無言で小さく頷く。

眉を下げて、古都は小さく息を吐いた。

あれは確か昼過ぎだった。そこから遍は食事も喉を通らないほどひとりで思い悩んでいたのかと思うと。

「……その場で断ったわ」

「え?」

遍が少しだけ、顔を上げた。

その瞬間を逃さず、古都は遍を上に向かせて、その黒髪を指で優しく梳いた。

「俺にはお前がおるのに、女と二人で飯行く理由なんか、ないやろ?」

「……」


「違うか? あまね」


遍の目に見る見るうちに新しい涙が溢れ、目尻を伝って落ちた。

「……古都、」

その涙を指ですくいとり、古都は遍に覆い被さるようにして、強く抱いた。

遍は恐る恐る腕をのばし、古都の襟足をなぞるように、首に手を回す。

古都の体温と匂いが間近にある。

「古都ぉ」

「お前、元気がないから仕事でなんかあったんや思って。心配したんやぞ」

「……ごめんなさい、古都」

遍は古都の体温を感じながら、まるで子どものように泣いた。

身体中の水分がなくなるのではと思うほどに涙を流して、ひとしきり泣いて嗚咽が少し落ち着いた頃に、遍はスン。と鼻をひとつ鳴らした。


「……お腹空いた」


古都は遍が夕食を食べていないと言うことを思い出した。

「蓮根の挟み焼き、あっためよか?」

言いながら時計を見ると、午前一時近くなっていた。

この時間からしっかり食べてしまうと遍の胃と肌に悪い。

「食べたいけど、古都のご飯美味しいからセーブとか無理やもん俺……」

醤油とみりんと生姜で甘辛く味付けして葱を散らした蓮根の挟み焼きは遍の大好物だ。これが茶碗に軽く一杯のご飯で済むわけがない。

「……じゃ、軽く茶漬けでも食う?」

途端に遍の目が輝いたのを見て、古都は笑いながら身を起こした。


ダイニングテーブルに行儀よく座る遍の前に、茶漬けがことりと置かれた。

備前焼の器に盛られたご飯の上に、海苔とこの間遍が値段を聞いてびっくりした鮭フレークが贅沢に載せられている。

黒い陶器の細身の急須で淹れたての緑茶をご飯に注ぎ、古都は遍の向かいに腰を下ろして、自分の手元の陶器にも緑茶を注いだ。

「あっつ」

遍は唇をとがらせて茶漬けを冷ましながら、元気よくかきこむ。

その姿を、古都は茶を片手に目を細めて眺めている。

遍はふうふうと息を吹きかけながら、古都の目線に気付いて少し頬を赤くした。

「……見すぎやで」

「ええやろ、減るもんやなし」

頬杖をつき、古都は緑茶を一口飲む。


「古都……」

「何?」

遍は箸を持ったまま、少し躊躇うように口を開いた。

「その……なんて言うて、断ったん?」

「ん?」

湯呑みを置いて、古都は遍を正面から見た。

「恋人おるんで。って言うた」

「ええっ」

「事実やからな」

「でも……」

遍は箸を置いた。

「でも、そんなん女子の間でめっちゃ噂話回るで? そんなん……」

「あまね」

遍が言おうとした何かを、古都はぴしゃりと止めた。

「噂なんかなんぼでもしたらええわ。俺は何も困らん」

はよ食え、と言い、古都は緑茶を一口飲んだ。


残りの茶漬けをひと息にかきこんだ遍は、器と箸を手にしたまま、向かいの古都を少し、上目で伺うように見た。

「……おかわりしてええ?」

古都は心から安心したように、眉を下げて笑った。

「梅、鮭、昆布どれがええ?」

「……梅!」

遍は目を輝かせて答える。

遍から受け取った器にまたご飯をふわりと盛り、今度は大葉に、紫蘇と塩だけで漬けた梅干しをひとつ載せ、また緑茶を回しかける。

遍は二杯目も一気にかきこみ、器を置いて満足そうに大きな息を着いた。

「お茶漬け美味かった〜」

「ん。ほな寝よか」


古都が待つ寝室に、歯磨きを終えた遍が入ってきた。

遍は自分の定位置である左側に、古都と向き合うように横たわる。

古都が腕を伸ばしたので、応じるようにその腕の中に身を寄せると、強く抱きすくめられた。

満腹と眠気で、普段から高めの遍体温がさらに高く感じる。

「……なあ、古都」

「ん?」

「……ごめんな」

遍は古都の胸元に、猫のように額を擦り付ける。

「……ええよ。不安にさせたな」

古都がぽかぽかの遍の身体をぎゅう、と抱き寄せると、遍もぎゅう、と抱き返す。

しばらくすると、遍は古都の腕の中で寝息を立て始めた。

「寝んの早」

古都は静かに笑い、眠りに落ちた遍の黒髪を整えてから、その可愛い額に唇をひとつ落とした。

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