第3話 難題
予想以上に軽い彼女の身体を抱き上げ、俺は走った。お姫様抱っこだと、車の車輪に押しつぶされたお腹のあたりで折れてしまいそうで、縦に抱いた。こうなると彼女の顔が近くて、こんな場合でなかったら、うれしさのあまり成層圏まで舞い上がっていただろう。
俺の両親は共働きだ。家には誰もいない。短時間であれば、彼女を匿うこと自体は可能だ。
自分の部屋に駆け込み、彼女をベッドに横たえた。
やはりその腹は、タイヤの跡どおりにぺっちゃんこだ。もしかしたら見間違いだったかもという一縷の希望は、ひと目で粉砕された。
それを見ると自分のしていることが、「やっぱり間違いだったよな」って気がする。
「バッグから私の携帯を取ってちょうだい。仲間を呼んで、すぐに失礼するから」
「……携帯って言うけどさ」
そこで俺が口ごもったのは、その携帯が俺にはもう最初っから見えていたからだ。
バッグからはみ出て、彼女の腹に食い込んでいたのが、だ。
でもって、今どきまだこのタイプがあったのかっていう折りたたみ携帯で、それは真ん中から逆に折れていた。
「仲間に連絡は無理だと思うよ。ほら、壊れている」
そう言いながら俺は、携帯の残骸を震える指先でバッグから取り出す。折りたたみ携帯の蝶番が壊れて、ぶらんぶらんしている。電源は入っているかもしれないけど、液晶が反応する気配はない。
それを見た彼女の表情が凍りついた。そして、あきらかに焦りだした。
「仲間が呼べないと、私、12時間しか保たない」
えっ?
「……どういうこと?
12時間保つのは確定してるの?
誰かの番号を覚えていたりはしないの?」
彼女の言葉を理解はできていた。言語としては、だ。
でも、その言っている中身についてはさっぱりわからなかった。わからないから俺、立て続けに彼女を問い詰めたんだ。
そこで俺、彼女の顔色がこれほどの大怪我を負いながらも、まったく変わっていないことに気がついた。唇は赤く、顔色は白い。もちろんその白さは、美しい「陶器のような」と形容されるようなもので、重傷を負った者の「紙のような」では決してない。
俺の疑問に満ちた視線を受けてか、彼女は自力で動こうとあがきだした。両手でなんとかしようとしても、まったくうまく行っていない。下半身、腹から下がまったく動かないからだ。足だけならまだしも腰から全部動かなければ、そりゃ動きようがない。
数分とはいえ、彼女は努力した。そして、事態を受け入れた。最後に諦念が浮かんだ顔を見て、俺は彼女が予想外に表情豊かなことに気がついた。
「お願いがあります」
「……なに?」
それしか言いようがない。
どれほどの無理難題が降り掛かってくるのか、それは想像できないけど、その無理具合と難易度の高さ具合は想像がつく。
こんな場合でなければ、俺は嬉々としてその願いを叶えようと努力しただろう。でも、今はさすがに用心深くならざるをえなかった。だって、「末期の水を飲ませろ」なんて願いだったら、勘弁して欲しいからだ。だが、彼女の願いは俺の予想を超えた。
「私が死んだら、その死体はどこかに隠して。決して見つからないように」
「……そんなこと言うより、医者行く方が先だろ?」
自分で自分の正論に、ちょっと感心した。本当にそのとおりだ。立場を逆にして、自分がそう言われたら、間違いなくぐうの音も出ない。
「私の身体を調べられては困るの」
「だれが困るの?
この状態で、きみ自身が困るだなんて無理がある。きちんと検査して、すぐに手術をしないと死んじゃうかもしれない」
ついに、俺から「死」を口に出した。彼女が「死ぬ」と思っているのであれば、医療を拒む理由がわからない。助からないかもしれないけど、それでも診てもらわなければ「死」がより確実なものになるだけじゃないか。だから、ここでは「死」を口に出しても許されると思ったんだ。
だけど、彼女は「死」という単語にまったく動じていないように見えた。




