第32話 未来
彼女は言う。
「たぶん、このままだと私、正気を保てなくなるかもしれない」
俺は恋という感情1つのために、首繋がり族から飛首族になった。そして、不安だらけの中で日々を過ごしている。それでも俺は、日常自体を失ってはいない。
でも、彼女は違うのだ。
絶対的に俺を尻に敷いている彼女が追い詰められているなんて考えもしなかったけど、よくよく考えてみればこれは当然の不安だ。そして、その不安は嵩じることはあっても現状では減じることはない。
「たとえば、理沙さんをこの部屋から持ち出して、海を見に行くとかしても……」
「持ち出すって失礼ね」
「すみません」
……ツッコミ入れられるだけの余裕がまだあるんだろうかって思ったけど、これは逆に考えるべきことだ。ツッコミが入らなかった時は、もう正気を失っているときだってこと。だって、歯に衣着せぬのが理沙さんだからね。取り繕うって範囲は極めて狭いってこと。
マジでヤバい状況なんだよな。
「海は見たいとは思うよ。
だけど、それは……」
「わかってます。根本的解決にはならないってことでしょ」
「うん。
未来が見られれば、耐えることができる。別に今の生活が拷問されているようなものとも思ってはいないし。でもね、未来が見えないと辛くてね……」
……どうしたらいいのだろう。俺には見当もつかない。こういうとき、人生経験の浅さが露呈しちゃうって自覚するな。
「こういうとき、彼氏を自認するなら理沙さんに未来を見せられないといけないんだろうけど……」
「ありがと。でも、期待はしてない」
ぐさっ。自分が頼りないのは自覚しているけど、ここまで明快に言われると辛いな。
未来が見えないと辛いってのは、恋どころか人生の問題だ。でも、かなりの確率で恋は人生の未来を示してもくれるものだと思う。でも、それすらも俺たちには許されていない。
「お願いがあるんだけど……」
「なんだろ?」
「過去を1つでも取り戻せれば、未来も見えるかもしれない。私の部屋から、1つでいいから私のものを取ってくるって……」
「無理」
言下の否定は、俺の仕返しじゃない。理由はあるんだ。今まで言えなかっただけで……。
「どういうこと?
わたしだって、せめての生きる縁が欲しい。轢かれてすぐはアパートも監視されていたとは思うけど、もう3か月経つし、ほとぼりも冷めただろうから……」
……言わなきゃいけないときが、ついに来てしまった。
「2週間も前、トラックが来て、理沙さんの部屋からすべての荷物を運び出してた。で、もう『入居者募集』の看板が上がってる」
「……なんてこと」
呆然とした、紙のような血の気の引いた顔に、俺はこうなるのを知っていたとしか言えない。だから、言うに言えなかったんだ。
「俺なりに調べたけど、理沙さん、連帯保証の会社をつけて部屋を借りていたんだろ?
失踪したことになって、一定期間後に部屋が片付けられちゃったんだと思う」
「いきなり荷物を捨てたりしないわよね。どこかのコンテナとかで、1年間とか保存されていれば……」
「理沙さん、契約書は読んで憶えてないの?
そういうのも書いてあったんじゃない?
契約時に口頭での説明だって受けたでしょ?」
「もう20年以上前の契約なのよ。更新するときに裏面の細かい字なんか読まないわよ」
……そりゃまぁ、そういうもんなんだろうな。




