第3話:偶然の何か
……幸せ?
箸を持ったまま両手を膝の上に置き、恥ずかしげに俯く千麻さん。
だけど、細めている目と微笑みは確かに幸せそうというか、どこか夢心地にも見える。
よっぽど鮭が美味しかったの? それとも別の理由があるのかな?
「えっと、幸せって?」
理由が気になっちゃって、口からぽろっとこんな質問がこぼれる。
すると、それを聞いた千麻さんははっとして慌てて眼鏡を直すと、両手を振ってわたわたしだした。
「あ、え、えっと。その、ですね。こ、こういう事って、早々練習なんてできないじゃないですか」
「う、うん。多分?」
別に僕に頼まなくっても、TOP4である彼女なら相手を募集すれば引く手あまただと思うんだけど。
そんな気持ちがあったせいで、僕はちょっと半信半疑な返事をしてしまう。
そのせいで気分を悪くさせてないか不安だったけど、そんな心配をよそに千麻さんは話を続ける。
「しょ、正直、断られても仕方ないお願いだと思います。でも、そんな願いすら聞き届けてくださる友達がいることが、そ、その……幸せだなと思ったんです。……本当ですよ?」
上目遣いにこっちの顔色を窺っていた千麻さんは、赤らめた頬をちょっとだけ膨らませ、少し不満げな顔をしながら最後にそう念を押してくる。
別に彼女を疑ってたわけじゃないんだけど。本人的にはそう感じたのかもしれない。
「そっか。それなら協力した甲斐があったかも」
「は、はい。それはもう十二分に」
こくこくと小さく頷く千麻さんの顔からにじみ出る真剣さから、それが冗談じゃないんだなって伝わってきて、僕は自然に笑みを浮かべた。
やっぱり、友達に喜んでもらえるのは嬉しいし。
「じゃあ、後はご飯食べようか」
「はい」
僕達は互いに一度箸を進め、それぞれに鮭やご飯、味噌汁なんかを口にしていく。
その途中、彼女はふと、こんな事を口にした。
「でも、早起きは三文の徳とはよく言ったものですね」
「え?」
こう言ったってことは、いいことがあったってことだよね。
「僕とこうしている時間が、いいことだったってこと?」
「は、はい。お、お陰様でその、二人っきりで過ごさせていただけてますし。な、なんならその、色々な初めての経験もさせていただけてますし」
初めての経験かぁ。
それを聞いて、改めて僕はこんな事を思った。
人文にとっては、正直初めての経験ってそこまで重要じゃなかったりする。
いつかは通る道、くらいなところもあるし。
でも、みんながそうとは限らないんじゃないかって。
千麻さんって真面目だから、こういうことも経験しておいて将来に備えようとしてるんだと思う。
だけど、それで初めてを経験しちゃうのはどうなんだろう?
「ちなみに、今回の件なんかもそうだけど。千麻さんって、僕が初めての相手で本当によかったの?」
「え? ええ。勿論ですよ」
試しにそんな質問をしてみると、彼女はそう返事しながらもちょっと目を泳がせる。
……あ。もしかして、やっぱり練習のために無理したのかな?
そもそも本人のたっての希望だったし、本人が納得してるなら……とは思うんだけど……。
「それならいいんだけど。なんか、クラスの女子の会話でも、やっぱり初めては好きな人がいいって話してる子も多いでしょ?」
「え? あ、えっと……そういう方も、多いですね」
「だよね。だから、千麻さんはよかったのかなって、ちょっと気になっちゃって。まあ、だったらする前に聞いてって話かもしれないし、今更余計なおせっかいかなって思ったりもするけど」
自分の間の悪さに苦笑いしながら、再びご飯に手を付けていると、彼女は手を止めると一度箸をテーブルに置く。
「ゆ、優汰君」
僕の名前を呼んだ千麻さんは、まるでベッドで横にいた時みたいに、じっと僕を見つめてくる。顔を真っ赤にしながら。
ちょっと空気が変わった気がして、僕も箸を味噌汁のお椀の上に置き、ちゃんと彼女に向き直る。
「あ、あのですね。わ、私は、その……私の初めてがあなたでも構わない。ほ、本気でそう、思ってますよ」
千麻さんはそこまで言うと、ゴクリと唾を飲み込み、右手を胸に添え息を整えると、目を逸らさずに言葉を続ける。
「そ、その、男子と手を繋いだのも。ベ、ベッドで添い寝して、いただけたのも。こうやって、まるでこ、こ……恋人、みたいな、経験をしているのも。特別な優汰君だからこそ、初めてがあなたでもいい。そう、思ったんですから」
突然飛び出した、恋人って言葉。
緊張のせいで流石に顔を逸らし、横目で僕を見た彼女を見て、僕も少しドキッとする。
言われてみれば、こうやってご飯を食べさせ合うのって、喫茶店やファミレスなんかだとカップルがしている印象が強いよね……。
改めて僕は千麻さんと凄いことをしていたんだって再認識しちゃって、急に顔が真っ赤になる。
き、きっと特別な友達だからこそ、気を許してくれたんだと思う。
とはいえ、初めてが僕でもいいって言ってもらえたのは、嬉しくもあれば申し訳なくもありちょっと複雑。
でも、そこは千麻さんがこう言ってくれている以上、これ以上言及するのは変な話かな。
……でも、初めてが、僕でもいいのか。
初めてって言葉のパワーを改めて感じ、僕も流石に胸のドキドキが強くなる。
そんな気持ちをより煽るように、千麻さんは急に両手で顔を覆い俯くと。
「な、なんなら、その……ぐ、偶然ではありますが。わ、私はその……は、初めて……か、かんせ……スも、してますし……」
ぼそぼそっと、こう口にした。
ただ、恥ずかしさが限界に達してたのか。千麻さんの声が凄く小さくって、最後のあたりはよく聞き取れない。
「え、えっと──」
そう聞き返そうとした瞬間。ぎぃっというゆっくりドアが開く音が耳に届き、僕と彼女は心臓が飛び出るくらいの勢いで、座ったまま体をびくっとさせた。
「ふわぁー」
開いたのは僕の寝室のドア。
その影から姿を現したのは、少し髪に寝癖のついた、大きな欠伸をした喜世さんだった。
「お。なんだよお前ら。もう起きてたのかよ」
僕達と目が合った喜世さんは、ドアを閉めながらこっちに声を掛けてくる。
それにサラリと返事をしたのは千麻さん。
「はい。朝ご飯でも準備しようかと思いまして。ね? 優汰君」
「う、うん」
僕は相槌を打ちながら、彼女のあまりの変化に戸惑っていた。
だって、さっきまでの恥ずかしさなんてなかったかのように、眼鏡を直しながら普段の物静かな顔で返事しているんだから。まだ顔は赤いけど。
「それより喜世。髪の毛の寝癖が酷いですよ」
「は? マジか!? ……げっ!」
千麻さんの指摘に、髪の毛を触った喜世さんはげんなりした顔をする。
「優汰。悪いんだけど、洗面所のドライヤー借りてもいいか?」
「う、うん。自由に使っていいよ」
「さんきゅー!」
喜世さんは返事もそこそこに、足早に洗面所に入っていく。
それを見届けた僕達は、その場で胸を撫で下ろした。
「え、えっと、先程の練習は内密でお願いできますか?」
「あ、うん。わかった」
口に手を当て小声でそう伝えてくる千麻さんに僕も頷き返した。
ま、まあ、流石にご飯を食べさせあってたなんて話をしたら、色々面倒になる気はするし。こういうのってプライベートな部分だもんね。
僕は、彼女が深呼吸し落ちつこうとするのに合わせ、気持ちを落ち着かせるべく大きく深呼吸をしたんだ。




