10
視界が反転したような感覚は一瞬だったはずなのに、流星の足元はぐらりと揺れ、気づけば神社の景色がまるで違って見えた。
石畳は苔に覆われ、御神木の切り株はまるで成長を戻したかのように幹を延ばし、見上げるほどの巨木となっていた。葉は深い夜のように濃く、ざわめきの音は言葉のようにも聞こえる。
神社は、時間を遡ったのか。それとも、これは“記憶の中”か――。
「これは……?」
「記憶の結界です」
隣から聞こえたタケルの声はいつもと違っていた。高く無邪気な仔猫の声ではなく、年経た何者かの静かな語り口に変わっていた。
振り向くと、そこにいたのは仔猫ではなかった。
白銀の毛並みを持ち、赤い糸をその尾に絡めた、神獣のような姿のタケルがいた。
「……お前、何者なんだよ」
「いまは、その問いに答えるときではありません」
タケルは流星の背後を顎で示した。振り返ると、そこにあの少女がいた。
彼女は、今度こそ鳥居の内側に立っていた。
――もう、結界は意味をなさない。
「あなたが思い出さなければ、この場所は……消えてしまうわ」
少女の声ははっきりと響き、空気を震わせた。
流星は問いかけた。
「俺は……何を思い出せばいいんだ」
少女は静かに歩み寄る。その手には、赤い糸が巻かれていた。
その糸の先――切れた糸の端が、流星の指先に吸い寄せられていく。
見えないはずの糸が、今、確かに見えていた。
「“真名”を思い出して。そうすれば、約束を果たせる」
少女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは地に落ちることなく、空へと吸い込まれていく。
その瞬間、流星の脳裏に強烈な光景が走った。
……まだ幼かったころ、夜の神社で、誰かと指切りをした。
赤い糸が、指から指へと渡されていく。
「ぜったいに、わすれないで」
「わすれないよ。約束する」
その声。その目。その匂い。
あの少女だった――いや。
「……ユエ」
言葉が、自然と口をついて出た。
その瞬間、世界が震えた。
風が吹き抜け、御神木がざわめき、神社の結界に音が走る。
タケルが言った。
「思い出した……! その名が、この結界の鍵だ。
“ユエ”は、この神社に封じられた“半神”です。君との“誓い”を、守り続けていた」
「でも、どうして……?」
「君が忘れてしまったから。赤双眼の妖魔、“饕餮”の影がその隙をついて、彼女の存在を飲み込もうとした。だが彼女は最後まで“君との契り”を信じていた」
少女――ユエが、流星に微笑んだ。
「ありがとう。思い出してくれて。あなたが“真名”を呼んでくれたことで、私は……」
その言葉の途中で、空が突然裂けた。
まるで天空そのものが裂けるように、黒い亀裂が生まれ、その中から赤い眼――無数の赤双眼が覗いた。
「……饕餮が来た!」
タケルが叫んだ。
神社の空気が一気に変わり、冷気とともに“何か巨大なもの”の気配が迫ってくる。
「流星、今の君なら――“呼べる”。契約を、もう一度!」
タケルがそう言った瞬間、流星の胸に刻まれていた“紋”が青白く輝いた。
その光に呼応するように、ユエの体も淡く光を放ち始める。
「契りを……結ぶのね」
「……ああ」
流星はその手を伸ばした。
ユエの指先と、流星の指先が触れた瞬間――再び赤い糸が結ばれた。
次の瞬間、地響きとともに、結界の外から“それ”が姿を現した。
真紅の眼を幾重にも持つ、獣とも人ともつかぬ異形。
それが、喉奥から名を吐くように低く呟いた。
「かえせ――かえせ、“記憶”を……“契り”を……」
だがもう、流星は迷わなかった。
右手を握りしめ、心の奥底から言葉を放つ。
「――契約は、ここに更新される。俺の名は流星。契りの巫となりて、ユエと共に、影を払う!」
天が閃光に包まれ、封印されていた御神木が眩い光と共に目覚めを告げる。
そして物語は、最初の戦いへと動き出す。




