9
少女は真夏の日差しの中でも不思議と汗ひとつかいておらず、鳥居の影と一体になってそこに立っていた。
その姿は現実の風景の一部でありながら、どこか異界のもののように浮いて見える。
白いワンピースの裾が風に揺れ、黒髪が無風の中でふわりと舞った。
――前にも、どこかで。
流星は立ち上がりながら少女をじっと見つめた。
その目元が、以前見た時と違っていたことに気づく。
彼女の瞳は、あの妖魔と同じく、血のように赤かった。
「おい、あれ……もしかして……」
腕の中のタケルが小さくうなり、流星の手のひらから滑り落ちて地面に着地した。
タケルの毛が逆立ち、喉の奥から威嚇するような低い唸り声が漏れる。
「……あれは、妖の気配があります。だけど……明らかに、さっきの“声の主”とは別のものです」
少女は鳥居をくぐろうとして、立ち止まった。
まるで目の前に目に見えない壁があるかのように、無言でこちらを見据えたまま立ち尽くしている。
「入ってこられない……のか?」
その瞬間、少女の唇がゆっくりと動いた。
声は聞こえなかった。だが、たしかに“言葉”は伝わってきた。
――『返して』
流星の背筋に、電気が走ったような悪寒が走る。
赤双眼の妖魔と同じ言葉。それでも、この少女からはあの妖のような暴力的な圧力は感じなかった。
……いや、違う。
この少女は、もっと根深いもの――怨念にも似た、冷たい悲しみを湛えていた。
「なぁ、タケル。あの娘……何者なんだ?」
「ボクにもよくわからないです。でも……この神社の結界に反応しているってことは、元々ここに“属していた”存在かもしれません」
「属してた……?」
「つまり、“元はここにいたもの”ってことです。祀られていた神か、あるいは……封じられていた、何か」
その言葉を聞いたとたん、流星の頭の奥で、鋭い痛みが走った。
思い出せないはずの映像が、フラッシュのように視界の隅をかすめる。
古い社殿。
誰もいないのに揺れる鈴。
子供のような声で繰り返される「かえして」の声。
そして――あの少女の顔。その目。その手。その、指に巻かれていた赤い糸……。
「……糸?」
無意識のうちに、流星は自分の小指を見つめた。
そこには何も巻かれていない。けれど、確かに“なにか”が巻かれていた感覚が残っている。
風が強く吹き抜け、鈴の音が境内に響いた。
その音とともに、鳥居の前の少女が、スッと姿を消した。
「消えた……?」
「いや、まだ近くにいます。気配が……こっちに向かってる……!」
タケルの目が、流星の背後を見た。
振り返る。
そこには誰も――いや、“なにか”がいた。
空気の歪みのような影。だが、確かにそこに存在している。
「流星、逃げてください!」
だが、体が動かない。
脚が地に縫い付けられたように、一歩も動かない。息も詰まる。
影はゆっくりと近づいてくる。
それは、あの声の主とは別のものだ。
もっと静かで、もっと冷たくて、もっと――“人間に近い”。
そして、影の中から女の声がした。
「あなたは……知ってしまったのね。私たちが……“分かたれた”理由を」
その声は、少女の声ではなかった。
もっと大人びた、深く、どこか母性を帯びた響き。
神社の空気が、一気に重く変わった。
空が曇ったわけでもないのに、日差しが届かなくなった。
風が止み、空気が沈黙する。
「……分かたれた?」
その言葉に、流星の胸がざわついた。
かつて誰かと“契り”を結んだ。
それが、破られた。
そして、“何か”が奪われ、封じられた――。
それは、自分の記憶なのか。
あるいは、“誰か”の記憶をなぞっているだけなのか。
神社の奥、御神木の切り株の方から、また香木の香りが漂ってきた。
その香りは、さっきよりも強く、そして――生々しかった。
まるで、誰かがここで祈り、涙を流していたような、そんな記憶の残り香。
「流星、急ぎましょう。思い出すべきことが、まだ残っているみたいです」
タケルの声が真剣だった。
流星は切り株に手を置き、そっと目を閉じた。
その瞬間、意識の奥底に響く、かすかな声が耳元で囁いた。
――“真名を思い出して”
その声は……少女のものだった。
そして、世界の色が、一瞬だけ――裏返った。




