第八話 毒見のいない食卓
残り二十三日。静かな離宮の食卓に、初めての実害が及びます。
その日の夕食は、いつもより早く運ばれてきた。
配膳をしたのは、離宮付きの侍女だった。マルクスの着任以来、食事の管理はより厳格になり、調理から配膳まで、記録が細かく取られるようになっていた。
フィリアがスプーンを手に取ろうとした、その時だった。
「――待て」
カインが、鋭い声で制止した。
「どうかしましたか」
「スープの匂いが、おかしい」
カインは、皿に顔を近づけた。フィリアも、慎重に匂いを嗅いでみる。確かに、普段の香りに、微かに不自然な甘さが混じっていた。花のような、けれど花にしては重すぎる匂い。喉の奥がわずかにひりつくような、嫌な予感がした。
「これは……」
「触るな」
カインは、すぐさま部屋を出て、マルクスを呼びに行った。
◇
マルクスが駆けつけ、鑑定用の道具でスープを調べるまで、それほど時間はかからなかった。彼の表情が、みるみる険しくなっていく。
「――微量の眠り月草だ」
部屋の空気が、凍りついた。
「致死量には、遠く及ばない。だが、意識を朦朧とさせるには、十分な量が入っている」
フィリアは、拳を握りしめた。
「離宮の中で、食事に毒を混入させることが――可能だったのですか。あなたが着任してから」
「――遺憾ながら、可能だったようです」
マルクスの声には、初めて、明確な苛立ちが滲んでいた。
「私の管理下で、こういうことが起きたのは、私の落ち度でもある」
彼は、すぐさま配膳に関わった人間を全員、召集するよう命じた。
◇
召集された使用人の中に、一人、顔色を失っている若い侍女がいた。
マルクスの鋭い視線を受けて、その侍女は、やがて震える声で語り始めた。
「――申し訳、ありません」
「話しなさい」
「三日前、街で見知らぬ男に声をかけられました。少しの金と引き換えに、決められた時間に、決められた小瓶の中身をスープに加えてほしい、と」
「その男の顔は」
「フードを被っていて、よく見えませんでした。ただ……」
侍女は、言いよどんだ。
「金の入った袋に、見覚えのある紋章がありました。三日月の――紋章です」
フィリアとカインの目が、同時に見開かれた。
「三日月商会」
カインが、低く呟いた。
「潰れたはずの商会が、まだ動いている」
「――もしくは」
フィリアは、静かに言った。
「商会そのものは潰れても、それを使っていた人間は、まだ動き続けている、ということです」
マルクスは、侍女に向き直った。
「その金袋は、まだ持っているか」
侍女は、震える手で懐から小さな革袋を取り出した。マルクスは、それを受け取ると、光にかざすようにして紋章の刻印を検分した。
「――型が古い。三日月商会が最初に使っていた印章と、意匠が一致する。廃業後に新しく作られたものではなさそうだ」
「つまり」
フィリアは、身を乗り出した。
「以前から、大量に用意されていた金袋、ということですか」
「そう考えるのが自然です」
マルクスは、侍女に向き直った。
「今回のことは、脅されて従っただけと判断する。処罰は最小限に留める。だが、今後同じことがあれば、必ず私に報告しなさい」
「――ありがとうございます」
侍女は、涙を流しながら頭を下げた。
◇
夜、事件の後始末が一段落した頃、フィリアの部屋には、フィリア、カイン、マルクスの三人だけが残っていた。
「今回、俺が気づかなければ」
カインの声は、珍しく硬かった。
「もっと深刻な事態になっていた」
「――ありがとうございます」
フィリアは、静かに頭を下げた。だが、その顔には、恐怖よりも強い、確かな怒りがあった。
「相手は、監査官が着任してもなお、手を止めていません」
「ああ」
カインは、頷いた。
「それどころか、監査官の目を掻い潜れる方法を、既に見つけている」
「――外部の人間を使わず、内部の人間の弱みにつけ込む、か」
マルクスが、腕を組んで呟いた。
「これは、単なる思いつきの犯行ではない。組織立って、金と情報を動かせる人間の仕業だ」
フィリアは、彼を見た。
「マルクス様は、これでもまだ、判断を保留されますか」
「――いいえ」
マルクスは、初めて、はっきりとした口調で答えた。
「今回の一件で、私はあなたを陥れようとしている何者かが、実在すると確信しました。これは、あなたが有罪か無罪かとは別の話です。何者かが、あなたを消そうとしている、という事実がある」
フィリアは、その言葉に、静かに息を吐いた。
「――少しだけ、味方が増えた気がします」
「味方とは言っていません」
マルクスは、僅かに口の端を動かした。
「ただ、公正であるために、事実を追う必要が出てきた、というだけです」
窓の外で、月が雲間から顔を出した。
「残り、二十三日」
カインが、静かに言った。
「向こうが、監査官の目を掻い潜れるほど大胆になっているなら――こっちも、もっと踏み込むしかない」
フィリアは、頷いた。
「三日月の紋章の入った金袋。それが、また新しい手がかりになります」
マルクスは、革袋をハンカチに包み、証拠として懐にしまった。
「この型の印章を使える人間を、明日、商業組合の記録から洗い出します。作られた枚数も、発注者も、記録が残っているはずだ」
「――お願いします」
フィリアは、テーブルに残った冷えたスープの皿を、静かに見つめた。毒見役もいない食卓で、命を狙われる。それが、今の自分の日常なのだと、改めて思い知らされる。
「一つだけ、確かなことがあります」
フィリアは、顔を上げた。
「相手は、私が大人しく幽閉されているだけでは、満足しない。生きて三十日を迎えられても、その前に――消すつもりでいる」
部屋に、沈黙が落ちた。
「だったら、なおさら、急がなくては」
カインが、短く答えた。
フィリアは、革袋があった場所を、じっと見つめたまま呟いた。
「――誰が、この紋章を今も自由に使えるの」
その問いに、答える者は、まだ誰もいなかった。
第八話「毒見のいない食卓」をお読みいただき、ありがとうございます。
物語で初めて、実際にフィリアの命が危険に晒される回にしました。監査官の着任後も犯人側が手を止めていないことで、緊張感を上げつつ、マルクスがフィリア側に一歩近づくきっかけにもなりました。三日月の紋章という新たな手がかりも出てきて、調査は次の段階へ進みます。
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