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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第四章:黒船の年、亡霊の山(1853)

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第五話「第四の石」

翌朝。


源次はまだ夜が明けきらぬうちに家を出た。


腰には石工用の槌。


背には水筒と食料。


そして懐には、咲の帳面と宗景から渡された地図。



---


空は曇っていた。


六月だというのに冷たい風が吹いている。


鳥の声も少ない。


山そのものが息を潜めているようだった。



---


村外れで宗景が待っていた。



---


「本当に行くのか」



---


源次が聞くと、宗景は苦笑した。



---


「行かねばならん」



---


その顔には覚悟と諦めが混じっていた。



---


長年守ってきた秘密。


その中心へ向かう。



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二人は山へ入った。



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道はない。


獣道すらない。



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地図に記された場所は、誰も近づかない谷の奥だった。



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歩くほどに空気が重くなる。



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昼を過ぎても薄暗い。



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木々が陽光を遮っているわけではない。



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光そのものが弱い。



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源次は何度も目を擦った。



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しかし変わらない。



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「気付いたか」



---


宗景が言う。



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「何がだ」



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「ここでは光が沈む」



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源次は返事ができなかった。



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言葉の意味が分からない。



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だが体は理解していた。



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この場所は普通ではない。



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夕方近く。


ようやく目的地に辿り着く。



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そこは谷だった。



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大きな崩落地。



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二十年ほど前の地滑りの跡らしい。



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岩肌が剥き出しになっている。



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しかし異常なのはそこではない。



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崖の中央。



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石でできた壁が露出していた。



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人工物だった。



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明らかに人の手で造られている。



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だが古い。



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異常なほど古い。



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源次は近づく。



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石壁には文字が刻まれていた。



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読めない。



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平安文字でもない。



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漢字でもない。



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何かを模した記号。



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まるで目のような模様が並んでいる。



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その時。



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咲の帳面が震えた。



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源次は驚いて取り出す。



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ページが勝手に開く。



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風はない。



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だが紙はめくられていく。



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一枚。



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二枚。



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三枚。



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そしてあるページで止まった。



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そこには短い一文。



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「石は見る」



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源次の背筋に冷たい汗が流れた。



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その瞬間だった。



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ゴゴゴ……



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低い音。



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崖が揺れる。



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岩が崩れ落ちる。



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宗景が叫ぶ。



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「下がれ!」



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大きな岩塊が落下する。



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二人は飛び退く。



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轟音。



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土煙。



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しばらく何も見えない。



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やがて煙が晴れる。



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源次は目を見開いた。



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崖の奥に空洞が現れていた。



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石室。



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完全に埋もれていた地下構造。



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入口が開いている。



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宗景の顔から血の気が引いた。



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「まさか……」



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源次は息を呑む。



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中は真っ暗だった。



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だが暗闇の奥に何かがある。



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感じる。



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視線だ。



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誰かが見ている。



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いや。



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誰かではない。



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もっと大きなもの。



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石室そのものが見ている。



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宗景が震える声で言う。



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「第四の石かもしれん」



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沈黙。



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風もない。



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虫も鳴かない。



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世界が止まっている。



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源次は足を踏み出した。



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一歩。



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また一歩。



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石室へ近づく。



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すると暗闇の奥で。



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何かが光った。



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白い光。



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いや。



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目だった。



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ひとつ。



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ふたつ。



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みっつ。



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違う。



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数えられない。



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無数。



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石室の奥に。



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大量の目が浮かんでいた。



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源次は思わず後退する。



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だが次の瞬間。



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それらは消えた。



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幻だったのか。



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分からない。



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しかし確かなことが一つある。



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この場所は。



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人間が作ったものではない。



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あるいは。



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人間だけでは作れない。



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宗景が地面に膝をついた。



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「長い間……隠れていたのか」



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彼は石室を見つめる。



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その目には恐怖があった。



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そして後悔も。



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藤富家が守ってきたもの。



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その正体に。



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彼自身も今、初めて近づいている。



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夕陽が沈み始める。



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石室の入口は黒い口のように開いていた。



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まるで二人を待っているように。



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源次は咲の帳面を握り締める。



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帳面の最後のページに、新しい文字が浮かび上がっていた。



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それは昨日まで存在しなかった言葉。



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「入るな」



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そしてその下に。



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別の文字。



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まるで後から誰かが書き足したように。



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「だが入らねば分からぬ」



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源次はゆっくり顔を上げた。



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石室の奥から。



---


鐘の音が聞こえた。



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ゴーン……



---


今までで最も近く。



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最も深く。



---


まるで地下そのものが鳴っているようだった。



---


第四の石は。



---


すぐそこにあった。



---


(第五話・続く)

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