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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第十二章 記録者

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第八話 記録者の喪失

昭和十一年。



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亀の瀬。



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第三記録庫の内部。



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空は黒く、形を持たない。



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山はある。



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だが“山という概念”だけが残っているようだった。



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朝倉誠司は立っていた。



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しかし違和感がある。



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「……俺は、何をしている?」



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一瞬、思考が途切れる。



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その途切れが怖い。



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背後から声。



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影。



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定まらない輪郭。



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「ここでは記録が消える」



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朝倉は振り返る。



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「……主か?」



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影は否定する。



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「主はまだ奥だ」



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「ここは入口の“喪失層”」



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朝倉は眉をひそめる。



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「喪失?」



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影はゆっくり言う。



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「名前が消える」



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「記憶が削られる」



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「存在が“曖昧になる”」



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朝倉はポケットを探る。



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真之介の手記。



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あるはずの紙。



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しかし。



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そこには何もない。



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「……消えた?」



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影が頷く。



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「ここでは“持ち込み”ができない」



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「記録はここでほどける」



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その瞬間だった。



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朝倉の頭に痛み。



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ズキッ。



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視界が揺れる。



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「俺は……誰だ?」



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一瞬。



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本気でそう思った。



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影が近づく。



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「始まったな」



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朝倉は後退する。



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「ふざけるな……!」



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しかし声に力がない。



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言葉が“記録されない”。



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消えていく。



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地面に文字が浮かぶ。



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しかしそれも途中で崩れる。



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『朝倉誠…』



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そこで途切れる。



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少女の声が遠くから響く。



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「戻って!」



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白い着物の少女。



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しかしその姿も曖昧。



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輪郭が揺れている。



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朝倉は手を伸ばす。



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「お前……誰だ……?」



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少女は泣きそうに笑う。



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「まだ覚えてるの?」



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その言葉で朝倉は理解する。



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記憶が削られている。



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影が言う。



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「ここは記録者を最初に壊す場所だ」



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「書く者は、まず“書く意味”を失う」



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朝倉は膝をつく。



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「なら……」



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「俺は何のために来た?」



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答えは出ない。



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その時。



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空間が揺れる。



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遠くで“音”がする。



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カタ……



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カタ……



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タイプライターの音。



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朝倉は顔を上げる。



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「これは……」



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影が言う。



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「記録の残響だ」



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空中に文字が浮かぶ。



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『記録者は存在しない』



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その下にもう一行。



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『記録者は必要とされていない』



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朝倉の呼吸が乱れる。



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「……俺は、何だ」



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少女が叫ぶ。



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「思い出して!」



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しかし声が遠い。



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消えかけている。



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影が近づく。



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「お前はもう半分ここにいる」



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「記録される前に、削除される存在だ」



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その瞬間。



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朝倉の中で何かが弾ける。



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真之介の断片ではない。



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黒帳でもない。



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もっと古い“感覚”。



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朝倉は呟く。



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「そうか……」



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「俺はまだ……書かれてないのか」



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影が止まる。



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わずかに揺れる。



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その反応は“驚き”に近い。



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朝倉は立ち上がる。



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「ならいい」



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「書かれる前なら、まだ変えられる」



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その瞬間。



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空間が裂ける。



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少女が叫ぶ。



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「やめて、それは——」



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朝倉は見えない何かに手を伸ばす。



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そして“言葉にならないもの”を掴む。



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一行が生まれる。



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空間そのものに刻まれる。



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『記録者はここにいる』



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世界が揺れる。



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喪失が止まる。



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影が後退する。



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だが同時に。



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遠くで何かが目を開く。



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“主”ではない。



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もっと深い層。



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影が呟く。



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「……呼んだな」



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朝倉は息を吐く。



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「俺はここにいる」



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少女がかすかに笑う。



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「戻ってきた」



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だが安心はない。



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影は言う。



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「今のは“宣言”だ」



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「記録庫は応答する」



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空間が再び揺れる。



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遠くから声。



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> 「観測更新」





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朝倉は空を見上げる。



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「……まだ終わってないな」



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黒い雪が一粒。



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今度は消えなかった。



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地面に落ちる。



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そして。



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微かに残る。



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第九話「主の観測」へ続く。

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