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亀の瀬異聞録  作者: こうた
第一章:仏生堂の影 ― 生贄の地 ―

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第一話:山が呼ぶ夜

江戸の末、文政年間。


奈良と河内の境に位置する亀の瀬は、古くから「近づくと戻れぬ谷」と恐れられていた。


昼は穏やかで、ただの山間の村落に過ぎない。


しかし夜になると、そこは別の顔を見せる。



---


西村庄吉がその地に足を踏み入れたのは、まだ空が薄く青みを残している刻だった。


庄吉は奈良藩に仕える上級武士であり、剣の腕も確かだったが、それ以上に「理」を重んじる男だった。


怪異や迷信を完全に否定するわけではないが、それを人の恐怖が生んだ誤解と捉える傾向が強い。


今回の命は、藩からの正式な調査任務である。


「亀の瀬の山中にて、不可解な失踪が相次いでいる」


それだけが書かれた短い文だった。


しかし庄吉は、その短さに逆に不自然さを感じていた。


報告は常に誇張されるか、あるいは隠されるかのどちらかだ。


だが今回はどちらでもない。


まるで「書くこと自体を拒まれている」ようだった。



---


山道に入ってすぐ、違和感は始まった。


足元の土が妙に柔らかい。


踏みしめるたびに、わずかに沈み込む感覚がある。


湿地でもないのに、水気を含んでいる。


庄吉は馬を止め、周囲を見渡した。


木々は静かだった。


風もない。


しかし、静けさが“自然の静けさ”ではない。


何かが音を奪っている。


そんな気配があった。



---


「……妙だな」


小さく呟いたその瞬間だった。


遠くの谷から、かすかな音が聞こえた。


最初は風かと思った。


しかし違う。


断続的で、一定のリズムがある。


まるで誰かが、息を合わせて声を重ねているような音。


庄吉は耳を澄ませる。


その音は確かに「人の声」に似ていた。


だが、意味を持たない。


言葉ではない。


ただ“声そのもの”が重なり合っている。



---


「山に人がいるのか……?」


だがすぐにその考えを否定する。


このような山中に、複数の人間が隠れる理由がない。


しかも声は、あまりにも不自然に揃っていた。


まるで一つの喉から発せられているかのように。



---


庄吉は馬から降りた。


ここから先は徒歩で進むしかないと判断したのだ。


刀の柄に軽く手を添え、慎重に山道を進む。


木々は次第に密度を増していく。


光が遮られ、昼だというのに薄暗い。


その暗さは自然ではなかった。


まるで夜が地面から滲み出ているようだった。



---


しばらく進んだところで、庄吉は足を止めた。


羅針盤が狂っていた。


針が激しく回転している。


一定の方向を示すことがない。


山の中で磁場が乱れることはある。


しかしここまで極端なのは異常だった。


庄吉は顔をしかめる。


「方角が……死んでいる」


そう感じた。



---


さらに歩く。


今度は時間感覚に違和感が生じ始めた。


空の色が変わらない。


太陽の位置が動いていないように見える。


だが体感ではかなり時間が経っている。


汗が冷えていく。


体の感覚と外界の時間が噛み合っていない。



---


その時だった。


背後から声がした。


「おいで」


庄吉は即座に振り返る。


しかし誰もいない。


木々しかない。


それでも声は続いた。


「おいで」


今度は少し近い。


庄吉は刀に手をかける。


「誰だ」


返事はない。


代わりに、風でもない圧力が背中を撫でた。



---


庄吉は気づく。


この山では「音」が独立している。


人がいなくても声だけが存在できる。


そういう理屈ではない現象が起きている。



---


しばらく進むと、崖の下に奇妙な空間が見えた。


そこだけ木が生えていない。


円形に空いた空白地帯。


まるで誰かが意図的に切り取ったようだった。


その中心に、石段が見えた。



---


「……これは寺か?」


近づくにつれ、それが寺ではないことが分かる。


石段は整っているが、建築の形式が異様だった。


仏教でも神道でもない。


ただ“祀るためだけに作られた構造”。



---


石段を下りると、苔に覆われた祠が現れた。


崩れかけているが、明らかに人工物。


そして異常なのは、その表面だ。


石に無数の「手形」が刻まれている。


子供のもの、大人のもの、老人のもの。


あらゆる大きさの手形が重なっている。



---


庄吉は無意識に呟いた。


「……誰が、これを」


その瞬間だった。


地面の下から音がした。



---


ゴ……ゴ……



---


最初は地鳴りかと思った。


しかし違う。


もっと近い。


もっと“内部”から響いている。



---


次の瞬間。


庄吉の足元の土がわずかに沈んだ。


その瞬間、空気が変わる。


山の“静けさ”が消えた。


代わりに、何かが一斉に息を吸ったような感覚。



---


そして――


地面の下から“ため息”が上がった。


それは一人ではない。


何百でもない。


数えられないほどの「人のため息」が同時に漏れ出した。



---


庄吉は後退した。


しかし遅かった。


視界が一瞬だけ歪む。



---


その瞬間、見えた。


地面の下。


土の中に埋められた無数の人影。


こちらを見上げる顔。


泣いている子供。


口を開けたまま動かない大人。


縄のようなものに縛られた腕。



---


次の瞬間、すべてが元に戻る。


ただの土と石に戻っている。



---


庄吉は息を荒げた。


「今のは……幻か?」


だが、刀の柄を握る手が震えていた。


身体だけは確かに“見た”と理解している。



---


その夜、庄吉は山中で野営を決めた。


火を焚く。


炎は安定している。


だがその光の中で、影が増えていく。



---


庄吉の影が一つではない。


二つ、三つ、四つ。


光の向きが変わるたびに影の数が増える。



---


「……馬鹿な」


庄吉は火を見つめる。


しかし影は消えない。



---


その時、声がした。


今度ははっきりと。


「返して」


「返して」


「返して」



---


火の向こうに誰もいない。


だが声だけが増えていく。



---


庄吉は刀を抜いた。


「誰だ!」


叫んでも返事はない。


ただ、声だけが周囲を埋めていく。



---


そして夜が最も深くなった頃。


祠の方向から音がした。



---


ゴン……ゴン……



---


石を叩くような音。


一定のリズム。


まるで何かが内側から外へ出ようとしているような音だった。



---


庄吉は立ち上がる。


火を残したまま祠へ向かう。



---


祠の前に立った瞬間、異変が起きた。


石に刻まれた手形の一つが、わずかに新しくなっている。



---


そして、その下に文字が浮かんでいた。



---


> 「次は、お前だ」





---


その瞬間。


庄吉の背中に冷たい手が触れた。



---


振り返る。


誰もいない。



---


ただ、山だけがそこにあった。


しかしその山はもう、“以前の山”ではなかった。



---


庄吉は理解する。


この土地はただの山ではない。


何かが、ここに“いる”。


そしてそれは――


人を見ている。



---


第一話・終



---

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