薄暮 4
数学のテストは、四時間目まで寝たせいか、思ったよりも点数が良かった。
本当はまだ少し眠かったのだが、昼休みに、いつまで経っても戻らない夕を心配して、加奈が様子を見にきてくれたのだ。昼御飯の前だったので、死神は適当に夕を追い払った。
夕が眠るまで、あやすようにずっと頭をなでているようなことをするくせに、用が済んだら見向きもしない。よくわからない男だ。
結局、夕もおざなりに礼を言って、保健室を後にした。加奈が興味津々で夕に質問を投げてくるのだ。
「先生は優しくしてくれた?」
「具合はどう?」
「体はおかしくない?」
「どこまでいったの?」
途中から意味不明な質問になってきたので、数学のテストの話題に切り替えた。彼女もそれが気がかりだったと見えて、すぐに乗ってくれた。加奈の質問に答えるのも嫌だったのだが、保健室を一刻も早く出たかったこともある。
不気味な腕に足をつかまれて、恐かった。
解放されたら、ほっとして泣き出してしまった。
死神の、まぶたに触れた冷たい手をまた拒めなかった。
真っ直ぐ死神を睨むことしかできなかった。
死神と、これ以上一緒にいたくない。
悪夢のような出来事も、ただの夢と片付けておいた方が良い。
悪夢がこれ以上増えるのかと思うと気が重いが死神と関わらずに済むならその方がいい。
だが、加奈は六時間目を終わった頃にこんなことを言い出した。
「先生と親戚なんだって?」
耳がおかしくなったのかと思った。だから夕は間髪入れずに聞き返す。
「誰と、私が親戚なの?」
いぶかる夕を話の手前で置き去りにして、加奈は「またまたぁ」とカラカラと笑った。
「だから、唯先生と、夕が遠い親戚だって」
初耳だ。
突然降って湧いたとしか思えない関係だ。
出所はわかっている。
手に持っていた掃除当番のホウキを加奈に押し付けた。
彼女の抗議は当然無視して、夕は自分の鞄をつかんだ。
下校時間の人ごみは、掃除のざわめきに変わって少し経つ。
まだ保健室にいるはずだ。
三階から一階に駆け下りて、職員室の南側。校庭に向かって窓を開いて、
「この疫病神っ!」
椅子を回転させてこちらを向くと、長い足を高らかに組む。
「よう」
戸が壊れるほどの大音量で開いたというのに、お伽話の中から抜け出てきたような男は白衣を着たまま、おおらかに挨拶を返してくる。
夕は大股で保健室を横断し、椅子に座ったままの白衣の襟をつかむ。
「どういう理由か説明してもらいましょうか」
「何を」
涼しい顔で聞き返してくるので、夕は疫病神に頭突きをするように顔を近づけた。この話題は声を大きくできない。
「私と、アナタが親戚だって話です!」
あーアレね、と疫病神は呟いて欠伸をする。
「もうお前に喋ったのか。お友達は。律儀だなぁ」
「どうして、私とアナタが親戚なんですか! 会ったこともなければ、名前すら聞いたことありませんよ!」
「それはそうだ。俺もお前と縁戚関係になった覚えは無い」
「当然です! 何でこんな話、加奈にするんですか! 加奈が噂話を広めたら、一日と経たずに学校中に知れ渡りますよ!」
「歩く速報だからな」
加奈の広い交友関係と、お喋りな性格は今に始まったことではない。何を隠そう、この疫病神の報道を担当したのは加奈だ。彼女があちこちで彼のことをあることないこと喋ったため、今の人気がある。
「それがわかってて……」
「じゃぁ何か」
不意に疫病神が夕の言葉を切った。何を改まって言うことがあるのだろう。夕も同じように口をつぐんでしまう。
「恋人の方が良かったか?」
夕はそのまま疫病神の額に頭突きを見舞った。
ゴンッ!
なかなかの快音だった。
夕の頭も赤くなったが、疫病神は思わぬ攻撃に額をさすっている。
「何すんだ!」
「こっちの台詞です! 取り消してください! 今日中なら間に合います!」
「相変わらずイー度胸じゃねぇか。それだけ肝が据わってりゃ、俺と暮らすなんざ楽勝だな」
疫病神は額をさすりながら悪魔のような笑みを作った。
「……はぁ?」
天地がひっくり返っても、加奈が無口になってもこれほど呆れはしない。
「頭がおかしくなったんですか?」
さきほどの頭突きの打ち所が悪かったのかもしれない。
「事情が変わった」
疫病神は苦笑するように口の端をあげた。
「俺にも色々事情ってもんが変わってきてるんでな。悠長にお前が自殺すんのを待ってやってる時間がなくなった」
「なんですかそれ?」
二週間前は、あとは自分次第だと言っていたのに。
「亡者どもにお前が狙われ出したからな。さっきのアレだ」
足首のアザが痛くなった。顔色を変えたのだろう。疫病神も笑みを収めた。
「あれはな、簡単に言うと、体を無くして行き場をなくした死者どもだ。いつも俺や、お前の中にいるヤツの体を引きずりこもうと狙っているのさ」
私の中に、誰かいる。
「じゃ……じゃぁ、私は、私の中にいる人のせいで、狙われたの?」
「そういうことになる」
疫病神が真顔で頷くが、信じられるはずがない。
「ちょっと待ってよ! じゃぁ、あの胸の痛みは? 悪夢は?」
「説明しだすとキリがないな……」
少し呆れたように、疫病神は溜息をついて、
「お前、魂は信じるか?」
よくある宗教勧誘の台詞を口にした。
「何? 今度はお説教でも始めるの?」
「まぁ、聞け。俺だって坊主じゃねぇよ」
そう前置きしてから、疫病神は夕を見据えた。
「俺達の考え方じゃ、魂ってのはそいつの本質だ。本能は体が持ってる。そうじゃないもの、考えたり笑ったり怒ったりする人格そのものを、魂と考えている」
「……俺達?」
「とらえ方はいくらでもあるからな。……で、名前ってのをつけられると、魂に刻まれるわけだ。お前が皐月夕であるように、俺も如月という一人の人間になる」
「つまり、魂は同じでも、別の名前が刻まれて、別の人間になるってこと?」
「そうだ。エラいぞ」
小学生を褒める先生のように笑って、疫病神は続けた。
「だから、お前も持ってるんだよ。皐月夕っていう魂を」
疫病神の理屈の上では、そうだ。
「魂自体は皆、一人一つずつ持ってる。死んだ時、まっさらになった魂をな」
「だから、同じ魂でも違う人なの?」
「そう。名前を書き込まれて初めて人になるんだ。――…とまぁ、これが俺達の理屈だ」
「どうして、それが絶対とは言わないのよ」
「言っただろ。とらえ方一つで、物事は違って見えてくる。俺の理屈は、転生とは少し違うからな。まぁ、ここまでが前置き」
「前置き?」
「ここからが本題だ。魂の考え方はとりあえず頭に叩き込んだろ?」
とりあえずは、だ。夕が肯くと、疫病神は満足したように進める。
「そこで、だ。魂が人の本質だとすると、本能となる体に幾つ入るもんだと思う?」
自我が分裂することを、わざわざ分裂症と呼ぶのだ。本質となる魂と本能は一対、
「体に一つしか魂は入れないんじゃないの?」
「そうだな。だから、体に二つも魂が入ると何らかの害が出てくることになる」
もしかして、
「……胸が痛んだり、悪夢を見たり?」
「勘がいいな」
夕は押し黙って、制服の胸をつかんだ。
「今、お前の中にいるのは、この前お前を抱えて住宅街疾走した野郎だよ」
二週間前、この疫病神に殺された、あの人が、
「……この中にいるの……?」
「自分の死ぬ夢を見るだろ?」
そう。
いつも死ぬ夢だ。
苦しみながら、地獄に落とされる夢。
「それは、アイツの記憶だ。アイツの魂が、お前の魂に干渉しているんだ。胸の痛みは、俺がこの前刺したものだろう」
ためらいもせず、黒髪の悪魔は真っ直ぐに夕を見つめた。
「―――……アンタを殺せば、魂は出て行くの?」
漆黒の双眸を睨み返して、夕は小さく言った。
「わからない」
無責任な死神は、自分の命さえどうでもいいと言うように、手を振る。
「俺を殺しても、そいつが満足するとは思えないんでな。手っ取り早く魂を剥がすには、お前を殺してみるのが一番いい方法なんだが」
喉にゾッと、公園の前で突きつけられた槍の感触が蘇る。
夕は首を押さえて、体を引いた。
死神が、夕の腕を取る。
何度目だろう。
この死神にとらえられるのは。
「安心しろ。俺にはお前を殺せない」
信じられない。
あの半月の晩、確かに死神は夕を殺そうとした。
「だから、魂を剥がす方法を試してやる。お前の家に泊まりこんでな」
「………は?」
何を言い出すのだ。
おびえていた自分が馬鹿のように、夕は顔をしかめる。
「お前ン家、普段は家族全員出張で、誰もいないんだろ?」
何処から調べたのかわからない情報を口に、死神は甘く笑む。
「俺の家はリフォームにあと一ヶ月はかかるからな。ダチの家暮らしも楽じゃねぇんだ」
「そんな、勝手に……」
「親戚だろ? 俺達」
やはりおかしくなったのだ。
夕は右の拳を固めた。
もう一度殴ってみれば直るかもしれない。
そう、信じていたかった。