第44話 夜明け前の異変
すっと目が覚め、ベッドから体を起こす。
枕の下へ左手を伸ばして、いつもの感触を掴んだ。
窓に近寄り、重厚なカーテンの隙間から外を覗く。
夜明け間近の空は、まだ闇が濃く、枝葉の隙間から星の瞬きが見える。
いつも通りの時間だ。
顔を洗い、服を素早く着替え、靴ひもをきつく結ぶ。
ホルスターに銃を納めると、いつもの重さに安堵した。
その時、ほんのわずかな音を耳が拾う。
足音、衣擦れの音さえも極限まで抑えられている。
意識して殺している。
この感覚には覚えがあった。
静かにドアノブが回る。
小さな金属音がやけに大きく聞こえる。
念のため、少し腰を落とし、左手を銃へと伸ばした。
ゆっくりと広がっていくドアの隙間。
その奥を睨んだ。
「ちっ」
「は?」
コウの間抜けな声が部屋に落ちた。
予想通り、知った顔がのぞいたので、構えを解いた。
昨日飲みに出かけたというコウとツルギが音を殺して、部屋に入って来る。
不思議なことに、酒の匂いはしなかった。
コウが身につけていたじゃらじゃらとした装飾類もないし、髪も結っている。
本当に酒場に行ったのか?
ツルギは最初こそ驚いた顔をしていたが、今は何事もなかったかのように無表情に戻っている。
コウは怪訝な顔をして、こちらを睨み返してくる。近寄ってきて、声を落とした。
「坊、なんで起きてんねん」
その呼び方にイラつくが、シャイナたちはまだ寝ている。
あえて反論せず答えた。
「いつも通りだ」
「こんな早う起きてどないすんねん」
シャイナが寝返りを打った。シオンの耳もぴくりと動く。
教えてやる義理もないが、言わなければしつこく聞かれそうだ。
「騒ぐな。日課の鍛錬だ。体が鈍る」
「はあ? こんな朝早うに?」
「いつもだ」
「なんで、そない——」
コウの質問は続かなかった。
ドゴォォォン!!
「「「っ!?」」」
腹まで響く轟音。
そして、足元から唸るような振動。
即座に身構えた。
シオンがベッドから一跳ねしたと同時に、シャイナが飛び起きる。
「何っ!?」
エチルスも身を起こした。
「なんやねんっ!」
コウは出窓へ駆け寄った。
カーテンを乱暴に横へ押しやり、窓を勢いよく開け放ち、身を乗り出す。
ツルギは廊下へと躍り出た。
窓からは見えなかったのか、コウはすぐさま突き出した窓枠上部を掴んで、振り子の要領で出窓の上へと登っていった。
断続的に振動を感じ、轟音が耳に届く。
しかし、近くではない。
ツルギがいる廊下側が騒がしくなってくる。
おそらく、気がついた他の宿泊客たちや冒険者たちが様子を見に、部屋から出てきているのだろう。
駆け出す足音に、怯えたような声や何かしらの指示も飛び交う。
舌打ちして、コウを追って窓へ走る。
シオンに声だけ飛ばす。
「シオンはマーといろ!」
「びーちゃま!」
「頼んだぞ」
「心得ました」
マーの返事を耳だけで受け取る。
コウと同様に、窓枠をつかみ、走り込んだ勢いで体を捻って窓の上へと登る。
「?」
何度か瞬きする。
視界が白い。一瞬目が霞んでいるのかと思った。
「……霧?」
辺り一帯は薄い霧で覆われていた。
遠くまで見通せない。
肌寒い空気が頬を撫でると、鳥肌が立った。
起きがけに外を見た時はなかった。
この短時間で急速に広がったのか。
唾を飲み込む音が体の内側に響いた。
「うわ、霧じゃん!」
いつの間にか身支度を終えたシャイナが、窓の外へ顔を出す。
その声に、体の強張りが解ける。
呆けている場合ではない。
宿屋の中ほどの階から、出窓の屋根を蹴る。
コウを追って、斜め上の階にあるベランダへと渡る。
いくつかの部屋では窓を開けて外の様子を窺っている。
宿から飛び出していく者も見える。
「霧だ! 想い出人が出るぞ!」
「今動くな。何が起こっているかわからんぞ」
歓喜と怒号が入り混じる。
さらに上階へ行こうと足先へ力を入れた。
背中に声が刺さる。
「待って、ビー! オレも行く」
「わかってる!」
跳び上がりながら、肩越しにシャイナを振り返って頷き返す。すでにシャイナは、軽い動作で出窓の上に飛び乗っていた。
風に乗って甲高い叫び声が届く。
一人二人ではない。
時折、悲鳴がつぶされるように途切れる。
奥歯をぎりりと噛み締めた。
いくつかのベランダと出窓を経由し、屋上につく。ここでも霧が立ち込めていて、奥の方は見通せない。
少し先に、コウの赤い髪が揺れているのが目に入った。シャイナも同様に屋上へと到達する。
コウが見据える先で、何かを打ち砕く轟音が空気を震わせる。
歩み寄ると、コウが掠れた声でつぶやく。
普段の軽さは消えていた。
「これは行くしかあらへん」
「昨日、何かわかったのか?」
「わかったことはある。でも、今の騒ぎと関係しとるんかはわからん」
「そうか」
やはり、ただ酒を飲みに行っていたわけではないのかもしれない。
でも、その確認はあとでいい。
音をたどれば行きつける。
これ以上ここで、悲鳴を聞くだけなのは耐えられない。
「じゃあ、行く」
「おっけー」
隣のシャイナの返事を聞いて、走り出した。
シャイナも、ほぼ同時に駆ける。
「は? 待たんかい! 早いわっ」
コウの声が後ろに去っていく。
屋上の端に来ると、階下にある手近なベランダや出窓に飛び移り、地面に降りる。
シャイナもすぐさま降り立った。
上から急に降りてきた自分たちに、庭や窓辺に出ていた人の視線が集まる。
今気にしている場合ではない。
二人で視線だけ交わして、この騒動の中心へ向かおうとした時、コウも降ってくる。
「ちょお待て!」
コウを軽く睨んだ。
「なんで止める?」
「早く行かないと!」
シャイナも急かす。
「止めへんわ!」
「「?」」
コウは後ろを振り向き、息を吸い込んだ。
大きな声で自分たちが泊まっていた部屋に向けて叫ぶ。
「ツルギっ! 先行くわ、先生たち頼むで」
かなりの声量だったので、思わず耳を覆った。
コウは再びこちらを向くと、ニヤリと笑った。
「ほな行くで。道知らんやろ」
ムッとしたが、それは確かだった。
走り出したコウの背中を追う。
並走しながら、シャイナが尋ねる。
「コウさんは、わかんの?」
「大人を舐めんことやな。ちゃんとついて来られる速度で案内したるわ」
少しだけコウを追い越す。
「舐めんな」
コウの口元がわずかに引き上がる。
「ほな、スピード上げるで!」
三人は霧が深まる方へと入り込んでいった。
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