第10話 見知らぬ場所へ
早朝というには早すぎた。
うっすら空の端は明るいが、頭上にはまだ濃い藍色が広がり、星の煌めきもはっきり目に映った。
冷たい風が吹き抜けて、銀髪と外套の裾がふわりと舞う。腰には、体に馴染んだ黄金銃の重さがある。
玄関前で空を見上げていると、後ろからあくびが聞こえる。
祖父が寝ぼけ眼で、目を擦っていた。隣に立つ祖母は笑顔でちゃんと起きてはいるが、まだ寝間着だ。
自然と祖父を睨んでしまう。
リタホーム行きが決まってからの準備期間は二日だけ。祖父に詰め寄って得られた情報なんてほぼない。自分の読みが甘かった。
◇◇◇◇◇
「ジジイ、あっちでなんの手続きがいるんだ? 更新できんのか?」
「行けばなんとかなるじゃろ」
「本人確認に必要な書類とか、同意書はいるのか?」
「さあ?」
「さあって、前はどうしたんだ?」
「忘れたわ」
殴りかかろうとしたのをシャイナに止められた。
気を取り直し、机に地図を広げ道順を問う。
「どこからどこへ、どういう道順で行くんだ」
「えーと、こっちいってから、いやこっちじゃったかのう」
「おいっ!」
マーが苦笑しながら、「僕が調べておきますよ」と言って場を納めてくれた。
◇◇◇◇◇
ジジイに許可証を出したやつを見てみたい。なんでこんな適当なのに渡したんだか、理解に苦しむ。
わざとらしくため息をついていると、いつもの道からシャイナが足取り軽くやってくる。薄暗い道の中、焦茶色の外套に少し伸びた太陽色の髪がよく映えた。
「お、早。待たせた?」
「いや、さっき出てきた」
前回が軽装だっただけに、シャイナには一応必要になりそうなもののリストを渡しておいた。
今回は前とは違う。
早く戻れたとして十日。準備を甘く見るには長すぎる。
「ちゃんと準備できたか?」
「もらったリストのやつは持ってきたよ」
そういって、少し振り返って背中のリュックをこちらに見せる。リュックは不自然なほど膨らんではいない。だが、空でもない。渡したリストを無視したわけではなさそうだった。
「ならよし」
「ビーは……ちょっと荷物多くね?」
シャイナが体を傾けて、後ろにある荷物の詰まったリュックを覗き込む。
「ジジイが信用できないからな。必然的に多くなった」
「そっか。ほら、手に持ってるやつ貸して。そればあちゃんの弁当だろ」
「ん、助かる」
手提げバッグをシャイナに渡す。持っていた掌に軽く跡がついていた。
「ほい。……結構ずっしりだな。手、赤くなってんじゃん」
シャイナがこちらの手を取り、赤くなった箇所を親指でそっと撫でる。
意外と大きい手だった。離れたあとも、その感触だけが掌に残っていた。
「問題ない」
「まぁ、そうだろうけどさ」
シャイナは苦笑した。
昼に食べれば荷は軽くなる。とはいえ、移動は徒歩なので重い荷物はのちのち体力を削るだろう。
「やっぱ半分持つか?」
「それは大丈夫。これくらいは持てるよ」
「じゃあ、任せる」
「おう」
あとはマーを待つだけになった。
シャイナが軽く伸びをしたり、空いている手を動かしたり、腰の短剣を確認したりして、落ち着きがない。
気になって尋ねた。
「どうした?」
「んー、やっぱ村の外に行くのって、ちょっとワクワクするなと思って」
こちらを見る顔がほころんでいる。
一瞬散歩を喜ぶ犬のように思えて、少しだけ口元が緩んだ。
それを見逃さなかったシャイナが、にっと笑う。
「ビーも楽しみなんじゃん」
「いや、今はお前が犬みたいに見えた」
「犬?」
「散歩前に尻尾振って喜ぶ犬」
「ははっ、あながち間違ってないかも。飼い主さんは、ちゃんと一緒に連れてってくださいよ」
片手を丸めて犬の仕草を真似る。
「俺が飼い主か? しつけがいるな」
「番犬としてはそこそこ優秀じゃね?」
「勝手に飛び出すけどな」
「それはビーだろ」
そうやって話しているうちに、遠くからザクザクと土を踏む音が小さく聞こえ始める。
シャイナが手を目の上にかざして、道の向こうに視線を飛ばした。
「エチルスかな」
「たぶんな」
一本道の奥に人影が見えてくる。
足並みに合わせて、灰金の髪とアイボリーの外套が緩やかにたなびく。
シャイナがマーに見えるように大きく手を振る。
それに気がついたマーは小走りになり、数秒も経たないうちにこけた。
「またか」
「まただね」
相変わらず、不運がついてまわっている。
シャイナがポツリと呟く。
「手、振らなきゃよかったかな」
「予測は無理だ。弁当があるから、お前はそこで待て」
「わん」
「良し」
ほんの小さく笑いが漏れた。
マーに駆け寄り、手を差し出す。
「大丈夫か?」
「ええ。来てくださってありがとうございます」
細く長い指が自分の手を掴んだ。少し冷たい。引き上げると、マーは服を叩いて泥を落とし、乱れたネックレスを指先で整えた。そして安心したかのように、笑みをこぼした。
「ふふ、いつも通りなので、むしろ大丈夫ですね」
「なんだ、その不運判定」
「運が良すぎると怖くなりません?」
同意を求めるように尋ねられた。
「……まあな」
「だからきっと、何事もなく行けますよ」
鉱山での出来事が頭をよぎる。
こちらの不安を見透かされたようだった。
「そうだといい……」
合流し、祖父母に見送られながら、眠る村を背に歩き出す。
向かう先はリタホーム。
薄暗い道を進んでいくと、勝手知ったる森に入る。木々の合間から見える湖はまだ暗く、波間が揺れる音だけが耳に届く。
分かれ道を北へ進んだ。
隣を歩くシャイナが、記憶を辿るように聞いてくる。
「こっちって森がなくなってく方だっけ?」
「そうだ。この先をしばらく行けば、草原に出るはずだ」
後方で道を確認していたマーは、地図を丁寧にたたみながら尋ねてくる。
「お二人は、そちらにもよく行かれるんですか?」
「いや、あまり行く方角じゃない」
前を見据えたまま、返事をする。
シャイナがマーを少し振り返りながら続ける。
「親父が言うには、なんか天気がコロコロ変わるらしいよ。一年中気温差が激しくて、昨日と今日でも全然違うって愚痴ってた。湖と離れてるから干魃もあるんだって」
「親父さん、詳しいな」
「ほら、オレの親父って農業大好きだから、近隣の天気も気にしてるんだよね」
「おじさんもおばさんも、基本外で作業してるしな」
「そ、家にはほぼいない。だから昔からビーの家にお世話になってんじゃん」
「その代わりいろいろもらってるけどな」
「お互い様ってこと」
シャイナがこちらに視線だけ寄越したので、小さく頷いた。
歩き続け、気がつけば森の中には木漏れ日が降り注いでいた。
前に目を向けると、道の先に見える光が強くなっている。森の終わりが近づいていた。
無意識に、左手が銃に触れた。
強い風がひとつ、傍らを抜けていく。
嗅いだことのない匂いが鼻をかすめる。
ここから先は見知らぬ場所だ。




