第22話 手
魔獣を狩りつくし、あたりには身を切るような静けさがあった。
何者の存在も許されない、ひどく冷酷な空気。
その只中にビーは立っていた。
「う……」
そばで小さくうめく声がした。
暗闇に落とされた小さな光のように、それが何なのかすぐにわかる。
反射的に視線が移動する。
背中や手足に残る傷からは、いまだ血が流れ出ていた。
しかし、わずかにその指先が何かを求めて動く。
「……シャ、イナ」
――まだ生きている。
――助かるかもしれない。
暗く淀んだ世界が、穏やかな色に染まる。
心に温かみが戻った瞬間、ずしゃりと急に体が重くなった。
まるで全身に重たい鉛の枷をつけられたかのように、動きが鈍る。
《もう大丈夫》
《休んでいいよ》
頭の中に優しい声が響いた。
ビーの背筋に冷たいものが走る。
声を聞いてはいけない――本能が警告を告げる。
しかし耳を塞いでも頭を振っても、粘着するように耳元で勝手に囁いてくる。
四肢の重みがさらに増した。
――シャイナを先に助けなければ。
周囲を見渡すと、こちらを見て棒立ちになっているマーを視界にとらえる。
ビーは渾身の思いで、声を上げた。
「マー、シャイナを頼む! このままだとまずい!!」
マーは途中転びそうになりながらも、弾かれたように走ってくる。
――これで、たぶん……。
ビーは重い足を上げる。
秒を刻むごとに身体の自由が効かなくなってきていた。
そして、先ほどまで制御できていた黒がその縛りを外れようともがいていた。
――まだだ。まだもう少し……!
歯を食いしばり、暴れ狂いそうになるのをなんとか押し留める。
しかし、時間の問題だと思われた。
マーは何かを言いたそうに口を開きかけたが、シャイナの状態を知るとすぐに治療を始めてくれた。
――急げ、離れろ。
指が、足が、体が、急速に冷えていく。
動かすことさえ億劫になる。
《もう頑張らなくていい》
《疲れただろう》
《全部終わった》
《手放しても大丈夫だ》
――何を?
つい尋ねてしまった。
《その苦しみから》
《すべての痛みから》
何かの蓋が壊れた。
ヘドロのような暗い闇が外へ溢れ出てくる。
止められない。
一歩歩くごとに、思考するごとに、流れ出る。
沼地の中を進むかのような感覚。
地面に膝をつかされた。
それでも、這ってでも前に進む。
少しでも離れた方がいい。
黒は勝手に動き始めていた。
ビーの意思はもう介在していなかった。
ドクリと心臓が脈打つ。
周囲の景色がどんよりと歪む。
《もう解放されよう》
《いいんだよ、眠ろう》
息が上がる。
――動け、動け、動け!
《君さえこっちに来れば、誰も傷つかないで済む》
その声に体の動きが止まる。
自分の内面を見透かされているようだった。
——そう、なのか?
《怖かったね。もう何も失わなくていいんだよ》
その言葉が妙にするりと、初めから居たかのように心の中に棲みついた。
頬を何かが伝う。
――そうか。もう、いいのか……。
黒い水辺に座り込んだ。
指先から力が抜ける。
淡く光を放つ黄金銃が手から離れた。
裾野を広げ続ける闇がビーの全身を捉え、次から次へと這い上がる。
深く暗い内側へ誘い込むように、ビーの体を優しく、逃がさないよう包んでいく。
瞼が重くなる。
痛みが離れていく。
身をゆだねても許される気がした。
その時かすかに、しかし確実に耳に入り込む声があった。
闇の甘言を押しのけ、突き刺さってくる。
「……ビー」
「!」
ビーはゆっくりと振り返った。
視界を覆う暗い檻越しに、ゆらりと立ち上がる人影が見えた。
――シャイナ。
ポタリポタリと地面に血が落ちる。
それでも、太陽色の強い瞳が揺らぐことなく、まっすぐにこちらを見つめていた。
「シャイナくん、まだ動いちゃダメです!」
マーがシャイナの腕を掴み、必死で引き留めている。
ビーは反射的に首を横に振った。
譫言のようにつぶやく。
「……ダメだ……来ちゃダメだ」
漆黒の闇が震えた。
まるで獲物を見つけた喜びを表すように。
ビーは咄嗟に叫ぶ。
「来るなっ!!」
シャイナがビーに向かって地を蹴った。
「ビー!!」
シャイナの手が伸びる。
獰猛な顎がシャイナを歯牙にかけようと飛び出す。
ビーは反射的に左手を伸ばした。
淀んで尖った脅威がシャイナの喉元に迫る。
一瞬だけ黒い牙が掻き消える。
それと同時にシャイナがビーの手を掴んだ。
きつく掴まれた手が熱い。
凍えた体温が溶けていく。
その瞬間――キィンという高音とともに空間が歪んだ。
眩い光が視界を覆いつくす。
音が消える。
圧縮された空気が迫る。
黒が削り取られていく。
握られた左手の感覚と体温だけがやけにはっきりしている。
何かが割れるような音がして、光が急速に静まった。
ビーの周囲に蔓延っていた黒が、音もなく崩れ去っていく。
ビーとシャイナは地面に倒れ込んだ。
倒れ込んだ二人の手は、しっかりと繋がれていた。




