第六章 saide白銀の髪の少年―銀の徽章―①
セイラン皇王国とナジュール諸部族王国の国境地帯は、地図の上では一本の細い線で分けられている。だが実際の大地に、その線が引かれているわけではない。
北東から吹き下ろす乾いた風が草原を撫で、なだらかな丘陵を越え、季節ごとに色を変える牧草地をどこまでも走っていく。
セイラン側には低い石垣で囲われた集落が点在し、薬草畑や小さな灌漑水路が整然と続く。
一方、ナジュール側では移動式の天幕が風に揺れ、羊や山羊の群れが広い草原をゆっくりと移動していた。
国境はある。だがそれはあくまで人間が定めた境界である。羊はそれを知らないし、雨も草も自然は関係なく存在する当たり前のことである。
その年は春から雨が少なかった。
ナジュール側の牧草地が例年より早く枯れ始めたことで、いくつかの遊牧部族が家畜を東へ移した。彼らにとっては昔から使ってきた季節放牧の土地だったが、セイラン側ではここ数十年の間に定住地が広がり、その一帯を皇王国領内の農牧地として管理するようになっていた。
争いの始まりは、ナジュール側の羊が畑へ入り込んだ程度の出来事だった。
セイラン側の農民が追い払い、牧人が怒鳴った。最初はそれだけだった。
数日後には、水場の使用をめぐってナジュールの民とセイランの民の間で殴り合いが起きた。
さらにその翌日、双方の若者が剣を抜いた。
死者こそ出なかったものの、一人が肩を深く斬られ、もう一人が馬に蹴られて重傷を負った。
そこへ双方の有力者が兵を出したことで、単なる放牧争いは、国境紛争の入口にまで膨らんでしまった。
そして三日後、〈アルカ・パクシス〉の使者が呼ばれた。
「羊の喧嘩で戦争になるのか。」
馬の背で、ジンが呆れたように言った。
前方には、春の終わりの光を受けて揺れる草原が広がっていた。
その先、遠くに二つの陣が見える。
一方にはセイラン皇王国の旗、もう一方にはナジュール諸部族王国の部族旗。
距離にすれば、まだ数百歩は離れているはずだが、空気は既に張り詰めていた。
「羊の喧嘩じゃない。」
隣を進むラウルが言う。
柔らかな茶髪が風に揺れ、いつも穏やかな顔には少し疲れが見えていた。
「放牧権、水場、土地の境界、それに兵を出した土地の有力者双方の体面の問題だ。ここまでくれば積もったものが多い。互いに簡単には引けない。」
「体面なんてもんに拘った所で、腹は膨れねえだろ。くだらねえ。」
「そういう理屈で済まないから俺たちが呼ばれてるんだ。」
後ろを進んでいたユーナが、二人の会話を黙って聞いていた。
小柄な身体は馬上でも目立たない。白に近い銀髪を一つに結び、いつもの旅装に身を包んでいる。
「怪我人はまだいるんでしょうか。」
ユーナが尋ねるのに、ラウルが振り返った。
「いるらしい。だが既に医者による治療が終わっている。治癒術は使わなくていい。」
「まだ何も言ってませんが。」
「僕が治療しましょうかって、顔に書いてあるぞ。」
するとジンも振り返る。
「そういうことだ。普通の怪我なら医者に任せろ。」
「分かっています。」
「本当に?」
「分かっています。」
ユーナは少しだけ不服そうな返事を返したが、ジンはそれ以上言わなかった。
ただ、ユーナの顔色を一度確認してから前へ向き直る。
ラウルはその様子を横目で見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
普段は酒と賭け事ばかりで、生活のこととなると十二歳の弟子に世話を焼かれている男が、ユーナの体調や癖だけは異様なほどよく見ている。
レグナリア王国へ赴いてから、何かとギクシャクした二人だったが、どうやらもとの雰囲気に戻ったようだった。
ラウルは二人に、今回の任務について簡単に整理して話した。
「セイラン側は、この一帯を皇王国領内の牧草地として正式に登録している。ナジュール側は、皇王国が今の国境線を定めるより前から季節放牧地として使ってきたと主張してる。」
ジンはため息とともに「両方正しいんだろ、面倒だな。」と吐き出す。
だから俺たちの仕事なんだよ、とラウルが苦笑する。
「お前、今日それ何回言うんだ。」
「お前が何回も同じこと言うからだ。」
ユーナが小さく笑い、ジンが振り返る。
「何笑ってんだ。」
「いつも通りだなと思って。」
「誰が?」
「二人ともです。」
ラウルとジンが同時に黙った。
数秒後、ジンが鼻を鳴らす。
「ラウルと一緒にされるのは心外だな。」
「それは俺の台詞だ。」
草原の風の中、少しだけ緊張が和らいだ。
セイラン側の陣営は、仮設とは思えないほど整っていた。
布張りの天幕が規則正しく並び、兵士たちは統一された装備を身につけている。セイラン地方特有の片刃の直剣と弓矢が整然と並べられている間を通り抜け、陣営の中央に辿り着く。
中央には一際大きな天幕があり、その前には皇王国の紋章が掲げられていた。
三人を迎えたのは、この地域を預かる領主、ルーシェンだった。
年は五十前後で、セイランの民に多い黒味黒髪の人物だった。その黒髪と顎髭は丁寧に整えられていた。
衣服も旅陣とは思えないほど上質で、指にはいくつもの指輪が光っている。
第一印象からして、ジンが苦手そうな相手だとユーナは思った。
「ようこそ、アルカの使者殿。」
領主はラウルには礼儀正しく微笑んだ。
ジンには一瞥、ユーナには、さらに短い視線だけをよこす。
「思ったより少人数なのだな。」
「今回は軍事介入ではなく仲裁ですから。」
ラウルが穏やかに答えた。
「まず双方の話を聞かせていただきます。」
「話など単純だ。」
ラウルの言葉にルーシェンは鼻を鳴らしながら答える。手元では細身の杖を弄んでいる。
「ナジュールの遊牧民が我が領土へ無断で入り込み、家畜を放った。その結果、畑は荒らされ、水を奪われた。我々はそれを止めようとしただけだ。」
「相手側は、この土地は昔から季節放牧地だったと主張しています。」
「昔から?」
ルーシェンが冷笑する。
「法も地図もなかった時代の話を持ち出されても困るというものだ。」
ラウルの表情は変わらない。あくまでも、冷静に穏やかに交渉を続ける。
「だからこそ、双方の合意点を探す必要があります」
「合意点だと?」
ルーシェンは顔をしかめて、「こちらが譲る必要がどこにある?」と、少し身を乗り出した。
その時、ラウルの少し後方で、ジンが欠伸を噛み殺した。
ルーシェンの鋭い視線がそちらへ向く。
「何か?」
領主に睨まれても、ジンは気だるげな態度を変えることなく言った。
「いや。話、長えなと思って。」
ユーナが小さく息を呑み、ラウルは目を閉じた。
ルーシェンの眉がぴくりと動く。
「そちらの男は、随分と礼儀を知らないようだ。」
「すみません。」
ラウルが即座に言った。
「後でよく言って聞かせます。」
「お前、俺の保護者みたいに言うなって。」
ラウルが振り返り、ジンを睨みつけた。
「今は黙れ。」
「へいへい。」
ジンは素直ではない返事をして、天幕の柱へ背を預けた。
ルーシェンは露骨に不快そうな顔をした。
「これがアルカの使者か。」
ラウルの目がわずかに細くなる。
「ジン個人の態度については、こちらからも注意します。」
「個人?」
ルーシェンが笑った。何かを馬鹿にするような嫌な笑い方だった。
「その男はアルカの徽章をつけているのだろう。」
ジンの腰には、銀色の徽章が下げられている。
普段はあまり目立たないその徽章に、ルーシェンは視線を向けた。
「ならば、これがアルカという組織の程度だと言われても仕方あるまい。」
ジンの表情が消えたことに、ユーナは気づいた。
怒った時の師匠は、必ずしも声を荒げるわけではない。
むしろ本当に腹を立てた時ほど静かになる。
領主殿、とラウルが先に口を開こうとしたが、それをジンが片手を挙げて遮った。
「俺のことなら好きに言えよ。」
ルーシェンがジンを見る。
ジンは天幕の柱から背を離した。
「酒癖が悪い、口も悪い、態度も悪い、大体合ってる。」
師匠、とユーナが思わず呼ぶ。
ジンがユーナを見て、事実だろ、と笑う。
そしてジンは腰に下げられている徽章を指で撫でた。
「でも、こいつまで一緒に馬鹿にすんな。この徽章をつけたまま死んだ奴を、俺は何人も知ってる。」
声は低かった。
「国境で剣の間に入って死んだ奴もいる。疫病の村に残って帰ってこなかった奴もいる。自分と関係ねえ国の揉め事のために、何日も寝ずに走り回る馬鹿もいる。」
ラウルが静かにジンを見る。
「だから俺個人が気に入らねえなら、それでいい。でもアルカまで一緒に腐して、気持ちよくなるのはやめとけ。」
天幕の中が静まった。
ルーシェンは数秒、ジンを見つめ、やがて鼻で笑う。
「大層な誇りだな。」
「まあな。」
ジンは平然と答えた。その軽い調子が、かえって領主の癇に障ったらしい。
「だが、結局のところお前たちはどこの国にも属さぬ者たちだ。王にも仕えず、領地も持たず、それで七国の争いに口を挟む。古のエルフの契約だか知らんが、随分と都合のいい立場ではないか。」
さすがにラウルが剣呑さを乗せた目でルーシェンを見据える。ユーナも険しい顔で領主を見た。
ジンはしばらく何も言わなかったが、「……そうさ」と呟くように切り出した。
ルーシェンが怪訝そうに眉を上げる。
「俺たちは、どこの王にも仕えてねえ。」
先ほどまでより、静かな声だった。
「セイランの王冠にも、ナジュールの旗にも、レグナリアにも、アルヴェインにもな。」
そしてジンは、銀の徽章にそっと触れた。
「王冠に仕えず、旗に仕えず、ただ平和に仕えるのみ。」
ジンが口にしたのは、ユーナももちろん知っている、長老の授業で最初に教わった、〈アルカ・パクシス〉の古い理念だ。
けれど、いつも口が悪く、組織の規則に文句ばかり言っている師匠の口から聞くと、不思議なくらい違って響いた。
ジンはルーシェンを真正面から見た。
「俺たちは、どっちかの味方になるためにきたんじゃねえ。あんたの顔を立てるためでも、向こうの部族長に気に入られるためでもない。」
声を荒げてはいない。それでも、その場にいる誰もが続きを黙って聞いていた。
「セイランが正しいならセイランの話を通す。ナジュールが正しいならナジュールの話を通す。両方間違ってりゃ、両方に引けと言うだけだ。」
「随分と傲慢な話だな。」
「そうかもな。」
ジンはあっさりと認めた。
「だから、この徽章をつける奴にはそれなりの責任がある。」
一瞬だけ、その表情が真剣なものになる。
「王に命令されたから剣の間に立つんじゃねえ。金をもらったからでもない。どこの旗が勝つかなんて、本来俺たちには関係ねえんだよ。」
そこで言葉を切った。
「ただ、そのせいで死ななくていい奴が死ぬなら、止める。それが俺たちだ。そのために死んだ使者たちは、王冠のために死んだんじゃねえ。旗のためでもない。」
ほんの少しだけ間を置いた。
「平和に仕えたんだよ。」
ルーシェンは何も言わなかった。
少し離れた場所で、ラウルが静かにジンを見ている。
長く一緒に任務へ出てきたラウルにとって、その言葉自体は珍しいものではない。だが、ジンがそれを自分の口で語ることは珍しかった。
ユーナも同じだった。
師匠はアルカの決まりに文句を言うし、ゼインに反抗もする。報告書は嫌がって書かないし、酒場では「こんな面倒な仕事」と愚痴をこぼす。それなのに今、腰に下げられた銀の徽章へ触れる指だけは、とても丁寧だった。
陣幕の内は沈黙に包まれた。




