幕間Ⅳ saide王国の少年―円環へ至る―③
そしてある夜、ジンは長老に呼び出された。
呼び出した長老も無傷ではなかった。
杖をつく手は以前より細く、腕には包帯、顔には深い疲労が刻まれている。
それでも、その眼差しだけは昔と変わらなかった。
「ジンよ。お前を過去へ送る。」
突然告げられた内容に、ジンは眉を寄せた。
「……は?」
「聞こえなかったか。」
「聞こえたから意味が分からねえんだよ。」
長老は静かに彼を見た。
「我らエルフの血を引くものには、素養のある一部の者だけが使える秘術がある。」
ジンの表情から、わずかに苛立ちが消えた。
「治癒術、精神や記憶を操る術に、時間を遡る術だ。」
しばらく、何の音もしなかった。
「……そんなものがあるなら」
ジンの声が低くなる。
「どうしてもっと早く使わなかった。」
長老が目を伏せる。
「おい、爺さん。」
「術者の命を使うのじゃ。」
ジンの言葉が止まった。
長老はジンを見て、淡々と続けた。
「治癒術と同じじゃ。代償が伴う。一人を過去へ送るために、一人が死ぬ。」
「……なら却下だ。」
「お前に決定権はない。」
「命と引き換えなんて馬鹿げてる。」
「それでも、もうこの方法でしか争いは止められん。」
「やめろっつってんだろ、クソ爺。」
昔と変わらない呼び方に、長老がわずかに笑った。
「何十年経っても口の悪さだけは直らんな。」
「誰の弟子だと思ってんだ」
「わしはそんな口の利き方を教えた覚えはない。」
いつものやり取りだった。
だからこそ、ジンには耐えられなかった。
「……やめろよ。」
声が震えた。
長老はいっそ穏やかな顔でジンを見つめている。
「そんな顔すんな。そんな……死ぬつもりの奴の顔で、俺を見るな。」
長老は静かな声で呼ぶ。
「ジン。」
「他の方法を探すぞ。」
「ない。」
「探してねえだけだ。」
「ないのだ。」
静かで強い声だった。
それだけで、ジンには分かってしまった。
長老はもう決めているのだと。
「お前が過去へ戻るのだ。」
「なんで、俺が……」
「過去へ戻り、そしてレグナリアの王位を継げ。」
ジンは息を呑んだ。
「お前が王になれば、少なくとも今の歴史とは違う道を辿る可能性がある。」
「そんな保証はねえだろ。」
「ないな。」
「だったら――」
「だが、このままなら世界は滅びる。」
ジンは黙った。
遠くで、負傷者の呻き声が聞こえていた。
長老は続ける。
「お前が王位を継ぐはずだった。それが崩れたところから、今のレグナリアの歴史は始まった。」
「俺が王なら戦争を起こさなかったって?」
「少なくとも、お前は古代兵器を使って他国を焼くような王にはならん。」
「……買いかぶりだ。」
「そんなことはない。何十年お前を見てきたと思っておる。」
返す言葉がなかった。
長い沈黙、その中で。
ふと、ひとつの考えがジンの頭に浮かんだ。
あまりにも唐突で、あまりにも眩しいその考えに、ジン自身が息を止めた。
「ちょっと、待てくれ……」
長老が彼を見る。
「過去に……戻れるんだな?」
「ああ。」
浮かんだ名前を口にしようとすると、ひどく喉が渇いた。
「だったら、ユーナを――」
今、ジンの瞼の裏には、何十年という時間を遡り、十七歳の自分とユーナがいた。
血まみれの床に蹲る自分。
そんな自分を逃がした青年。
最後まで自分を気遣った声。
自分の命を削って、自分を生かした人。
「ユーナを……助けられる。」
長老は答えなかった。
「そうだろ?」
ジンは一歩、長老へ近づいた。
「俺が過去へ行けば、あいつを助けられる。」
「ジン。」
「どこまで戻れる?」
長老は苦し気な顔で目を伏せた。
嫌な沈黙だった。
「……時は選べん。」
「何?」
「秘術が繋げられる時点は一つだけだ。」
長老は告げる。
「およそ七十年前。」
ジンは固まった。
「七十……ユーナは……」
「生まれているかどうか、という頃だろうな」
胸の中に灯った希望が、一瞬揺らいだ。
だが、その希望が消えることはない。
「だったら探す。」
長老が顔を上げる。
「何十年かかってもいい。」
ジンは言った。
「俺はどうせ、ろくに歳を取らねえんだ。」
自嘲するように笑った。
けれど、その目だけは真剣だった。
「必ず、見つける。」
七十年前、それはユーナがまだ生まれていないかもしれない世界。
それでも。
「あいつが生まれるまで待つ、そして見つける。」
何年、何十年かかっても、必ず見つけ出す。
奴隷として生きる前に。
傷つけられる前に。
自分なんかのために命を使う前に。
「そして、未来を変える。」
それは誓いだった。
長老は長いあいだ弟子を見つめていたが、やがて、小さく息を吐いた。
「ならば、一つ約束せよ。」
「なんだ。」
「過去へ渡ったら、まずその時代のアルカを訪ねよ。」
「……アルカを?」
「そうだ。」
長老は頷いた。
「そして、知っている限りの未来を話せ。これから起きる戦争も、レグナリアのことも、古代兵器のことも。」
「信じてもらえるか?」
「信じさせろ。」
「無茶言うな。」
「得意だろう。」
ジンは鼻で笑った。
「……まあな。」
長老も笑った。
それが二人の最後の冗談になった。
秘術は、アルカの地下深くで行われた。
地下には旧時代から残された石室が隠されていた。
床一面に、ジンには読めない文字と紋様が刻まれている。
長老はその中央に立った。
ジンは剣を腰に差し、最低限の荷物だけを背負っていた。
「準備は?」
「できてる。」
「怖いか?」
「馬鹿言え。」
「そうか」
長老が笑う。そのいつも通りの笑顔にジンは思わず呼びかけた。
「……爺さん。」
「どうした。」
だが、言葉が続かなかった。
礼を言うべきなのだろう。
世話になった、剣を教えてくれた、居場所をくれた、王子でも逃亡者でもない「ジン」という人間を育ててくれた。
だが、そんなものを口にしたら、本当に別れになる気がした。
だから、「……勝手に死ぬなよ、師匠。」とだけ言った。
長老は笑う。弟子の気持ちなど、全て分かっているとでも言うように。
「無茶を言う弟子じゃ。」
長老が言い終わると同時に、石室の床の文様に光が灯った。
紋様が、少しずつ輝きを増していく。
ジンは歯を食いしばった。
「ジン」
光の向こうから、長老の声が聞こえた。
「過去は、お前のものではない。」
「……分かってる。」
「人の人生を、お前の後悔だけで決めるな。」
ジンは目を見開いた。
「ユーナを救いたいなら。」
長老の身体もまた、光に包まれていく。
「まず、その時代のユーナを見よ。」
ジンは何も言えなかった。
「お前が知る青年ではない。お前のために死んだ者でもない。その時代を生きる、一人の人間として。」
光が強くなる。
「……ああ。」
ようやく答えた。
「分かってる。」
「ならば行け。」
長老が笑った。
普段通りの、小柄で、穏やかな老人の笑顔だった。
「わしの弟子よ。」
世界が白く染まった。
痛い。
最初に感じたのは、それだった。
「……っ、ぐ……」
身体中が軋んでいる。
骨を一本ずつ外され、無理矢理組み直されたようだった。
ジンは草の上に倒れていた。
頬に冷たい土の感触がある。
風が吹き、草の匂いがした。
ゆっくりと目を開ける。
青い空に白い雲。
視界いっぱいに広がる草原。
「……ここ……は。」
声が掠れた。
腕をついて起き上がろうとすると全身に激痛が走った。
「いってぇ……!」
もう一度その場に倒れた。
しばらく、そのまま空を見ていた。
静かだった。
あまりにも静かで穏やかだった。
砲撃の音がない。
古代兵器の光もない。
煙もなければ、焼けた人間の匂いもしない。
ただ風が草原を渡っている。
「……本当にきちまったのか。」
笑いが漏れた。
ここは、七十年前の世界だ。
長老はもういない。
仲間たちもいない。
自分の知る世界は、まだ存在していない。
孤独が胸へ押し寄せる。
それでも、ジンは拳を握って草を掴むと、痛む身体を無理矢理起こした。
痛みに一度、膝をつく。それでも立った。
腰の剣を確かめ、荷物を確かめる。
そして、遥か彼方を見た。
地平線まで続く草原と青空。
どちらへ行けばいいのかさえ分からない。
この時代の国境がどうなっているのかも分からない。
今の自分には分からないことばかりだが、しなければならない事だけは分かっている。
アルカを訪ね、未来を伝える。
レグナリアを変えるために。
そして。
「……ユーナ。」
名前を呼んだ。
この時代には、まだ存在していないかもしれない名前を。
「待ってろ。」
自分でも馬鹿な言葉だと思った。
待っているはずがない。
そもそも生まれてすらいないかもしれない。
それだとしても。
「今度は俺が見つける、絶対に。」
かつて自分を救った青年ではない。
自分の罪悪感を慰めるための存在でもない。
これからこの時代で生きる、一人の人間を。
未来で失ったものを、そのまま取り戻すことなどできない。
長老の言葉が胸に残っている。
『過去は、お前のものではない。』
そうなのだろう。だが、未来は変えられる。
変えてみせるのだ、今度こそ。誰かの命を犠牲にして生き残る未来を。
ジンは歩き出した。
一歩、また一歩。
身体は痛むし、足元も覚束なかった。
それでも止まらなかった。
広大な草原の中を、たった一人で進んでいく。
七十年前の世界。
まだ戦争を知らない国々。
まだ古代兵器に焼かれていない大地。
そしてどこかで、奴隷として生き、やがて一人の王子の命を救うことになる少年が生まれる。
そのすべてが、まだ未来だった。
ジンはただ、歩く。
自分が知る最悪の未来を、二度と訪れさせないために。
そして、今度こそ、ユーナを生かすために。




