幕間Ⅲ saide王国の少年―運命の日―③
レグナリアを出るまでの記憶は、ほとんど残らなかった。
ただ胸元の銀のペンダントだけは、片時も手放さなかった。
そして思い出す。
傷口に触れたユーナの手、その手から溢れる淡い光を。
同時に青ざめていく顔と、荒くなっていく呼吸を。
それでも治癒を止めなかった姿を。
――あなたを死なせはしません。
あの力を使わせてはいけなかった。
自分のために、あそこまで治癒術を使っていなければ、ユーナには逃げる力が残っていたかもしれない。
兵士たちと戦えたかもしれない。
捕まらなかったかもしれない。
……処刑されなかったかもしれない。
全て仮定の話だ。
それでも、その考えは以後、ジルディーンの心に棘となって残った。
治癒術は奇跡などではない。
誰かの傷が消える裏側で、その代償を引き受ける者がいる。
だから、もう二度と、あんなふうに誰かが自分の目の前で命を削ることだけは――。
長い旅の末、ユーナの仲間の使者に導かれ、〈アルカ・パクシス〉の拠点へ辿り着いた。
アルカの長と長老が、ジルディーンを迎えた。
長老である小柄な老エルフは、何も言わず彼を見つめていた。
アルカの長が尋ねる。
「これから、どうするつもりだ」
ジルディーンは俯いた。
帰る国はない。
父は自分を殺そうとしたのだ。
しかも、王宮では自分は死んだことになっている。
そして何より、ジルディーン・レグナリアという名前を聞くたびに、あの夜を思い出す。
ジルディーン・レグナリア。
それは、愚かな王子、ユーナを疑った少年、そして、最後まで守られることしかできなかった人間の名前だった。
「……ここに置いてください」
ジルディーンの言葉に、長が眉を動かした。
「それは客人として、か?」
「違います」
ジルディーンは顔を上げた。
「アルカの使者になりたい。」
部屋が静まり返った。
長がジルディーンの真意を測るように問う。
「レグナリア王国の王子という身分はどうする。」
「いりません。」
即答だった。
長老が静かに目を細める。
「簡単に捨てられるものではないぞ。」
分かっている。それでも。
胸元のペンダントを握った。
「それでも、全部、捨てたいんです。」
王子という身分も、第一王位継承者という立場も、父に認めてもらいたいと願っていた自分も、ユーナを疑った自分も。
全部、消してしまいたかった。
「逃げたいだけかもしれません。」
声が震えた。
「自分がしたことから。」
長も長老も何も言わなかった。
「でも……」
ジルディーンはペンダントをさらに強く握った。
「この命は、もう私だけのものじゃない。」
脇腹に手を添えた。
そこには、傷跡すら残っていない。
「あの人は、自分の命を削って私を生かしてくれた。」
涙が頬を伝って落ちた。
声が詰まった。
「最後に、生きろと言った。」
しばらく言葉が出なかった。
それでも続けた。
「だから……生きます。」
処刑場から連れ出されて以来、自分の意思でそう言ったのは初めてだった。
「生きて、あの人がいた場所で……あの人がしていたことをしたい。」
誰かを守り、争いを止め、命を繋ぐ。
自分には治癒術など使えない。
ユーナのようにはなれない。
それでも。
「あの人に貰った命を、この組織でやり直したい。」
長が判断を仰ぐように長老を見る。
長老は長い間、ジルディーンを見つめていたが、やがて静かに尋ねた。
「ならば、王位も、国も、レグナリアの名も捨てたお主を――」
一度、言葉を切る。
「これから何と呼べばよい?」
ジルディーンは目を閉じた。
ジルディーン。
父から与えられた名。
王子の名。
ユーナが最後に呼んだ名。
今、それを捨てようとしている。
ジルディーンは目を開けた。
「――ジン」
長老が静かに見返す。
「ジン、と呼んでください。」
「それがお主の新しい名か。」
「はい。」
短い名だった。
過去を捨てるには、あまりにも簡素な名前。
けれど、それでよかった。
長老はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「分かった。」
そして初めて、その名を呼んだ。
「では、ジン。」
少年は顔を上げた。
「ここから始めるとしよう。」
十七歳の誕生日。
本来なら、ジルディーン・レグナリアが王太子になるはずだった日。
その日、第一王子ジルディーン・レグナリアは、世界から消えた。
代わりに、〈アルカ・パクシス〉の拠点の村で、一人の少年が新しい名を得た。
ジン。
後に剣を覚え、酒を好み、誰よりも面倒くさがりで、だらしなく、それでも一度守ると決めたものだけは、決して手放そうとしない男になる少年。
彼はまだ知らなかった。
いつか自分が、もう一度あの白銀の髪を見つけることを。
まだ幼く、何も持たず、自分の命にすら価値を見出していない少年を見出した時。
その時、今度こそ自分が守る側になろうとすることを。
そして、その小さな命が誰かを救うために削られるたびに。
十七歳のあの夜に、自分の傷が消えていく代わりに青ざめていったユーナの顔を、何度でも思い出すことになるのを。
この時のジンは、まだ知らなかった。
ただ胸元に残された銀のペンダントを握りしめながら。
もう二度と、自分のために誰かを死なせない。と、そう誓っていた。




