幕間Ⅲ saide王国の少年―運命の日―②
次に薄く意識が戻った時、風を感じた。
どうやらユーナは、自分を抱えて窓から飛び出したのだと、理解するまでに時間がかかった。
バルコニーに出て、欄干を伝い、下の階へ。
ユーナはジルディーンを抱えたまま、王宮の外壁を伝うように逃げていた。
追手の声が響く。
「いたぞ!」
「第一王子だ!」
「逃がすな!」
第一王子。
その呼び名が、もう自分のものではないように聞こえた。
やがて二人は城壁近くの深い茂みへ滑り込んだ。
ユーナがジルディーンを地面に横たえる。
「殿下。聞こえますか。」
聞こえる。だが、答えられない。ただ、寒い。
身体からどんどん血が抜けていく。
ユーナが傷口を押さえる、その手が血で濡れていった。
「……まずい。」
初めて聞く声だった。焦りと恐怖の滲む声。
ユーナが、自分が死ぬことを恐れている。
ジルディーンは薄れていく意識の中で、ひどく場違いなことを思った。
この人はまだ、自分を心配してくれるのだ、と。
あれほど疑った自分を。
「大丈夫です。」
ユーナが言った。
誰に言っているのか分からなかった。
ジルディーンにか。
それとも、自分自身にか。
「あなたを死なせはしません。」
傷口に手が置かれた。
淡い光が生まれた。
ジルディーンはそれが何なのか知っていた。幼い頃に何度も聞いていた。だから、止めようとした。
「……だめ……だ。」
声になるかならないか、そんな微かな声しか出ない。それでも止めたかった。
治癒術。
ユーナの持つ、特別な力。
傷を癒す代わりに、術者自身を激しく消耗させる奇跡の術。
傷を包む光が強くなり、身体の奥まで熱が染み込んでくる。
裂けた肉が閉じていく。
失われかけた命が引き戻される。
だが、その代わりに、目の前の人から、何かが失われていく。
ユーナの呼吸が荒くなる。
額に汗が浮かび、顔から血の気が引いていくのが分かった。
それでも彼は癒す手を離さない。
「……もう……いい……。」
ジルディーンは必死に言った。ひとまずの応急処置は終わったはずだった。だが、ユーナは治癒を続ける。
「まだです。中途半端な治癒では、あなたは逃げられない。」
だから、完全に治す。
その意味を理解した。
「やめろ……。」
初めて敬称が消えた。自分の傷は深かった。放っておけば確実に死ぬほどの傷だったはずだ。
その傷を完全に癒す。それがどれだけ術者に負担をかけるのか、ジルディーンは知っている。
「ユーナ……やめろ……!」
半年ぶりに名前を呼んだ。
ユーナは一瞬だけ目を見開いた。
そして、微笑んだ。
その顔は昔と同じだった。
幼いジルディーンが転んだ時、剣の稽古で泣きそうになった時、眠れない夜に話を聞いてもらった時、いつも見ていた笑顔だった。
「大丈夫です。そう簡単に私は死にませんから。」
光がさらに強くなった。
ジルディーンの意識はそこで途切れた。
目を覚ました時、痛みがなかった。
ジルディーンは呆然と自分の脇腹を触った。
傷がない。跡すら消えていた。
「……ユーナ?」
慌てて銀髪の彼の姿を探す。
ユーナは、少し離れた場所で木にもたれて座り込んでいた。
その呼吸は浅く、顔色は紙のように白かった。
「ユーナ!」
這うように近づく。
「何を……何をしたんだ。」
「治しただけですよ」
ユーナは苦しげに笑った。
「だけって……。」
自分の声は震えていた。
自分は一体、何をしていたんだろう。
半年間、この人を疑い、遠ざけた。
それなのに、この人は自分の命を削ってまでジルディーンを助けてくれた。
「なぜだ。」
ジルディーンの目から涙が落ちた。
「なぜ私を助ける。」
ユーナは不思議そうに彼を見た。
「助けるに決まっているでしょう。」
あまりにも当然のように言われたことが、何より苦しかった。
「私はあなたを疑った!」
堪えられなかった。
「王位を狙っていると思った! あなたを遠ざけた! 名前すら呼ばなくなった! それなのに、どうして!」
ユーナはしばらく黙っていた。
やがて、弱々しく手を伸ばし、ジルディーンの胸元へ何かをかける。
鎖が小さくチリと鳴った。
それは銀のペンダントだった。レグナリア王家の古い紋章の刻まれた、ユーナがいつも身につけていたもの。
「言ったでしょう。あなたが王になる日まで、なってからも、私は変わらずあなたの剣となる、と。」
それからユーナは、城壁の一角を指した。
古くなって崩れた場所に、人ひとりが辛うじて抜けられる穴がある。
「そこから外へ逃げられます。」
「何を言っている。」
「王都の南区へ向かってください。青い屋根の古い染物屋があります。」
ユーナの声は弱っていた。
それでも、言葉だけは明瞭だった。
「そこにアルカに協力してくれている者がいます。実は王宮の様子を不審に思い、数日前から仲間を王都へ入れていました。そこへ行けば、あなたを匿ってくれる。仲間の使者も、じきにレグナリアに到着する手筈です。」
ジルディーンは愕然とした。
ユーナは王宮の異変に気づいていたのだ。
自分が父の態度から目を逸らしていた間に、彼は自分を助ける手段を講じていた。
「一緒に行こう。」
ジルディーンはユーナの腕を掴んだ。
「一緒に逃げればいい。」
ユーナは弱弱しく首を振って「殿下。」と幼子に言い聞かせるようにジルディーンを呼ぶ。
「その呼び方はやめろ!」
声が裏返った。
「もう……そんなもの、どうでもいい。王子でも何でもいい。一緒に来い、ユーナ。」
ユーナは悲しそうに笑った。
その時、「いたぞ!」という兵士の声がした。
見つかったのだ。ユーナの表情が厳しいものに変わった。
剣を片手に、兵士に立ち向かおうとするが、立ち上がった足元が大きく揺れた。
それでも彼は剣を抜いて、ジルディーンを庇うように立つ。
「行ってください。」
「嫌だ。」
「殿下。」
「嫌だ!」
ジルディーンは子供のように叫んだ。
「今度は私があなたを――」
「ジルディーン!」
ユーナの怒鳴り声に、身体が硬直した。
あの穏やかな人が自分に向かって、こんな声を出すのは初めてだった。
「逃げろ!」
胸を強く押され、失血でふらつく身体は簡単に後ろに倒れ込んだ。
倒れた先は崩れた城壁の穴だった。そこから外へ転がり落ちる。
「ユーナ!」
必死で叫んだ。
だが、ユーナはもうこちらを見ていなかった。
迫ってくる兵士たちへ剣を向けていた。
「生きなさい!」
それがジルディーンが聞いた、ユーナの最後の言葉だった。
ジルディーンは走った。
泣きながら、何度も転びながらも、それでも走った。
頭の中では半年間の記憶が何度も繰り返されていた。
「ユーナ殿」と呼ぶ自分と、「王子殿下」と頭を下げた彼。
あの距離を自分が作ったのだ、自分から。
もし、あの時疑わなかったら。
もし、もっとユーナの言葉を聞いていたら。
もし。
もし。
もし。
青い屋根の染物屋に辿り着いた時、ジルディーンはほとんど倒れ込むように扉を叩いた。
中から中年の男が現れ、ジルディーンの胸元にある銀のペンダントを見る。
男は顔色を変えて尋ねた。
「……ユーナ殿は。」
答えられなかった。だが、ジルディーンのその様子から、男はすべてを察したようだった。
目を閉じて天を仰ぎ、「中へ。」と、屋内にジルディーンを導いた。
男はほとんど喋らなかった。ただ、自分はハーフエルフでアルカの協力者である、と語った。
そして、明日にはジルディーンを保護するために、ユーナが手配していた仲間の使者と合流することになっていることを告げた。
その夜は、男の用意した寝床で休むことになったが、ジルディーンは一睡もできなかった。
翌日、王都にはすでに話が広まっていた。
――第一王子ジルディーンが昨夜、王宮内で殺害された。犯人は先代国王の血筋を騙り、王家に取り入り、王位簒奪を企てた逆賊。
その男は既に捕らえられており、本日、処刑される。
それが、ユーナの動向を探るために、街の様子を偵察しに行ったアルカの協力者が仕入れた情報だった。
その話を聞いたジルディーンは信じられない、といった顔で、震える声で呟いた。
「誰が、処刑されると?」
匿ってくれた男が何も答えない。ジルディーンは男に掴みかかった。
「誰が処刑される!」
「殿下」
男は口を引き結び、されるがままにしている。
「誰だ!」
ジルディーンは叫んだ。だが、分かっている。
聞く必要などなかった。
そのまま家を飛び出した。
「お待ちください!」
男の制止を振り切り、走った。
処刑が行われる、中央広場へ。
広場へ近づくにつれて、人が増えた。
処刑を見るために集まった群衆を横目で見る。
昨日まで自分を第一王子と呼んでいた民たちを掻き分けるようにして走る。
広場を取り囲む人垣に肩をぶつける。
「どいてくれ!」
迷惑そうにこちらを見る者たちの誰も、彼がジルディーンだとは思わない。
今や自分は、死んだはずの王子なのだから。
人垣の向こう。広場の中央に設けられた処刑台、その上に幾人かの人影が見えた。その中に、跪く白銀の髪の――
「ユーナ!」
声は届かない。
執行人の振り上げた白刃か光った。
「やめろ!!」
刃は無情に振り下ろされた。
群衆がどよめいた。
あまりにも、あっけなかった。
十七年間の人生で、ジルディーンは人の死を何度も見た。
だが、その瞬間ほど世界が静かになったことはなかった。
声が出なかった。
次に何をすればいいのか分からなかった。
人垣を抜け処刑台のもとまでたどり着いた時には。
もう、ユーナは動かなかった。
「あ……」
膝から崩れた。
「……ユーナ」
昨日まで、生きていた。
自分を守って、傷を治して、そして最期に、生きろと言った。
「私が……」
自分の身体には傷一つない。
それが何より残酷だった。
ユーナが命を削って治した身体。
逃げられるように、生きられるように、そんな願いを込めて。
「私が殺したんだ。」
涙が溢れた。
「私のせいだ……」
疑って遠ざけた。きっとたくさん傷つけた。それなのに、最後には守られた。
命まで貰った。
そして自分だけが生きている。
「ユーナ……!」
叫んで、処刑台の上で動かない、彼の傍に駆け寄ろうとした。
だが、誰かに腕を掴まれ、制止される。
「離せ!」
「静かにしろ!」
ジルディーンを引き止めたのは、茶色い短髪に緑の瞳をした、壮年のエルフだった。
腰にはアルカの徽章。
ユーナがジルディーンのために王都に呼び寄せたアルカの使者だった。
「離せ!そこにユーナがいる!」
「もう助けられない!」
「離せえっ!」
殴りかかろうとした。
それでも男は手を離さなかった。
その男自身も泣いていた。
「俺だって助けたかった!」
声が震えていた。
「間に合わなかったんだ!」
ジルディーンは抵抗を止めた。
男が歯を食いしばる。
「だからせめて、お前は生きろ」
昨日、ユーナが最後に言ったのと同じ言葉だった。
ジルディーンは泣き崩れた。




