幕間Ⅲ saide王国の少年―運命の日―①
ユーナとまともに言葉を交わさなくなってから、半年が過ぎていた。
半年という時間は、長いようでいて短い。
人と人との関係を壊すには十分すぎるほど長く、それまで積み重ねてきたものを忘れるには、あまりにも短かった。
「ユーナ殿」
いつからそう呼ぶようになったのだったか、ジルディーン自身にも、もうはっきりとは思い出せなかった。
かつては当たり前のように「ユーナ」と呼んでいた。
それが今では、「ユーナ殿」だった。
そしてユーナも、「ジルディーン」とは呼ばなくなった。
「王子殿下」と、そう呼ぶ。
礼儀正しく、穏やかに、どこまでも他人行儀に。
それはジルディーン自身が望んだ距離だった。
少なくとも、そうであるはずだった。
王位を狙っているのではないか。
〈アルカ・パクシス〉の使者を名乗って王宮に入り込み、実のところはレグナリアを内側から乗っ取ろうとしているのではないか。
周囲の大人たちから繰り返し聞かされた言葉は、いつしかジルディーンの中に根を張っていた。
初めは笑い飛ばしていた。
ユーナがそんなことをするはずがない、と。
けれど成長するにつれ、王宮という場所が、誰かをただ信じていられるほど単純ではないことを知った。
そして、疑った。
ユーナを、自分が幼い頃から慕っていた人を。
だから距離を置いた。
ユーナも、それを受け入れた。
弁明することも、怒ることもなく、ただ少しだけ寂しそうに笑って、それ以降は王子と臣下に近い距離を保つようになった。
それでいいのだと、ジルディーンは思っていた。
――あの日が来るまでは。
その日の王宮は、朝から妙に浮き足立っていた。
侍女たちは大きな花籠を抱えて廊下を行き交い、使用人たちは磨き上げられた燭台や銀器を大広間へ運んでいる。中庭では王家の紋章を染め抜いた旗が次々と掲げられ、楽師たちが明日の祝宴に備えて音合わせをしていた。
明日は、第一王子ジルディーン・レグナリアの十七歳の生誕日だった。
レグナリアでは十七歳をもって成人とされる。
そして第一王子であるジルディーンにとって、それは単なる成人の日ではない。
正式に王太子として認められる日だった。
「少し右だ。……いや、やはり左か。」
自室の姿見の前で、ジルディーンは何度目か分からないほど礼装の襟を直していた。
明日のために仕立てられたものだ。
王家の色を基調とした上質な布地。胸元にはレグナリア王家の紋章が銀糸で縫い込まれている。
鏡の中には、もう少年とは呼び難い、十七歳の自分がいた。
明日からは成人、そして王太子となるのだ。
ああ、ようやくだ。
そう思うと、口元が緩んだ。
これで、正式な後継者として父に認めてもらえる。
最近、父王との距離が開いていることに、ジルディーンは気づいていた。
以前なら夕食は父と共に取ることが多かった。
けれど新しい后が入り、弟が生まれてから、それは少しずつ減っていった。
最近では父王はほとんど毎晩、后と第二王子と食卓を囲んでいる。
ジルディーンの食事は自室へ運ばれ、そこで一人で食事をとる。
その毎日が、寂しくないと言えば嘘になる。
だが、気にするほどのことではない。父が后と幼い弟に時間を割くのは当然だ。
それに、自分はもう子供ではない。明日には王太子になるのだから。
そう自分に言い聞かせているところへ、扉が叩かれた。
「殿下」と、恭しく頭を下げて入ってきたのは、長年ジルディーンを支持してきた重臣だった。
王宮内では第一王子派の中心人物と言っていい。
その顔を見て、ジルディーンは明るく振り返った。
「ちょうどいい。明日の式次第について聞きたいことが――」
「陛下がお呼びです。」
言葉を遮られ告げられた内容に、ジルディーンは瞬いた。
「父上が?」
「はい。」
重臣の顔は、妙に硬かった。
けれど、ジルディーンはそのことについて深く考えなかった。
むしろ父が呼んでいるという事に、胸が高鳴っていたのだ。
きっと明日のことについて、正式な話があるのだろう。
もしかしたら、王太子としての、父の後継者としての心構えを直々に説かれるのかもしれない。
「分かった。すぐに行こう。」
立ち上がったジルディーンは、鏡の中の自分を最後に一度見た。
胸元の王家の紋章を整える。
明日から自分は、この国を背負う人間になる。
そのつもりだった。
部屋に入った瞬間、何かがおかしいと感じた。
父王は奥に座っていた。
その左右には数名の重臣と……近衛兵長。
祝い事の前夜にしては、あまりにも空気が重い。
不審に思いながらも、ジルディーンは父王に一礼した。
「父上、呼びと伺い参りました。」
父王は!「ああ。」と、短く答るのみだった。
ジルディーンは顔を上げて父を見つめた。その顔は、明日成人する息子を見る父親の顔には見えなかった。
「ジルディーン。」
父が重々しく口を開いた。
「はい。」
「明日の式典は中止する。」
「……は?」
「お前を王太子に立てることもない。」
一瞬、意味が理解できなかった。
ジルディーンは父の顔を見つめた。
冗談を言っているようには見えない。
驚く程、いつも通りの表情だった。ジルディーンの胸が冷えていく。
「どういう……意味でしょうか。」
「王位は、第二王子に継がせることにした。」
その言葉を飲み込むまでに、ひどく長い時間がかかった。
「弟に……?」
「ああ。」
「しかし、私は第一王子です。」
ジルディーンの声が震える。
「分かっている。」
「明日には成人します。これまで、そのように教育を受けてきました。私は――」
「だからこそだ。」
父の言葉が、冷たく遮った。
ジルディーンは黙った。
「お前が生きている限り、第二王子の王位には必ず異論が出る。」
そこまで聞いて、ようやく、部屋に近衛兵長がいる意味が分かった。
重臣たちが誰一人、自分と目を合わせない理由も。
それでも、理解したくなかった。
「……父上?」
情けないほど震える声をもはや隠しようもなかった。縋るように見上げた父は、ジルディーンから目を逸らさなかった。興味のないものを見るような目で、しっかりとジルディーンを見据えて、言った。
「お前には、ここで死んでもらう。」
世界が止まった。
ジルディーンは何かを言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
父が何を言っているのか分からない。
いや。
分かっている。
分かってしまったからこそ、頭がそれを拒んでいる。
「私は……」
喉がひどく乾いていた。
「あなたの、息子です。」
口から出たのは、王子としての抗議でも、政治的な反論でもなかった。
ただの子供の言葉だった。
我が子のその言葉を聞いても、父王の表情は変わらなかった。
「知っている。」
それだけだった。
近衛兵長が剣を抜き、ジルディーンに近づく。
逃げなければ。
剣を抜かなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
父上が、自分を殺そうとしている。
その事実だけで、十七年間自分を支えていたものがすべて崩れていた。
明日、王太子になるはずだった。
父に認めてもらえるはずだった。
父の跡を継ぎ、この国を守るつもりだった。
全て、自分だけが信じていた夢物語だったのか。
近衛兵長が踏み込んだ。
剣が振り上げられる。
それでもジルディーンは動けなかった。
光を纏った銀の刃がジルディーンに振り下ろされた、その瞬間。
甲高い金属音が部屋に響いた。
近衛兵長の剣が止まっていた。
別の剣によって。
白銀の長い髪が、ジルディーンの目の前で揺れた。
「……ユーナ殿?」
ジルディーンの掠れた声が名を呼んだが、ユーナは振り返らなかった。
近衛兵長の剣を受け止めたまま、静かに立っていた。
「貴様、王命に歯向かうつもりか。」
父王の声には怒気が混じっていた。
ユーナが剣を押し返し、近衛兵長が数歩退く。
それから初めて、ユーナは王を見た。
「私は〈アルカ・パクシス〉の使者です。レグナリア王家に仕える臣下ではありません。」
怒りを露わにした父王を前にしてにも、一切怯むことのない、凛とした声音だった。
「ならば、これは我が王家の問題だ。口を出すな。」
「いいえ。」
「私は、この方を守ります。」
ジルディーンは息を呑んだ。
語気こそ穏やかだったが、今までジルディーンが聞いたどんな言葉よりも強い意志が宿っていた。
――どうして。
その言葉しか浮かばなかった。
どうして、助けるのだ。自分はあなたを疑ったのに。
王位を狙っているのではないかと思った。
周囲の言葉を信じた。
距離を置いた。
名前で呼ばなくなった。
あなたが何を考えているのか知ろうともしなかった。
なのに。
「兵を呼べ!」
王の号令が部屋に響き、扉が開いて兵士たちが雪崩れ込んできた。
「殿下、私の後ろへ!」
ユーナが叫んで、ジルディーンの前に立ちはだかった。
戦いが始まった。
ジルディーンは呆然と、それを見ていた。
ユーナは強かった。
アルカの使者として各地の紛争地帯を渡り歩いてきた男だ。多少の兵士では相手にならない。
だが、今回は、流石に敵の数が多すぎた。
次々と兵が入ってくる。
「殿下!」
呼ばれたが、動けなかった。
「剣を!」
腰に剣があるのは分かっている。
けれど指が震えて、柄を握れない。
父がいる。こちらを見ている。
自分を殺せと命じた父が。
昨日まで味方だと思っていた重臣が、忌々しいのもをみる目で自分を見ている。
自分を守るはずの近衛兵が、自分に剣を向けている。
何が味方で、何が敵なのか。もう、分からない。
何も考えられない。
「殿下!」
ユーナの声。
次の瞬間、脇腹に熱いものが走った。
痛みは少し遅れてきた。
「あ……」
自分の腹を見る。
そこに刺さった剣が抜けていくのが見えた。
血が噴き出し、膝から力が抜ける。
「ジルディーン!」
半年ぶりに、ユーナが自分を名前で呼んだ。
倒れかけた身体を抱き止められる。
「しっかりしてください!」
ユーナの顔が近い。
あんなに遠ざけていた人の顔が、ひどく青ざめていた。
いつでも穏やかな笑顔を浮かべる彼が、自分のためにその顔色を変えている、そのことだけは分かった。
そこまで考えて、ジルディーンの意識は暗くなった。




