第五章 saide白銀の髪の少年―誰かの面影―③
ある朝、自分の仕事場へやってきたジンを見て、ラウルは目を丸くした。
「珍しいな」
ゼインの補佐としての書類仕事をこなすこの部屋に、ジンが自分からやってくることは本当に珍しいことだった。
どうした、と尋ねるラウルに、ジンは「相談」と短く答える。
「もっと珍しいな。」
「……帰るぞ。」
「待て。悪かった」
ジンは椅子へ腰を下ろしたものの、どう切り出したものか迷うように、しばらく黙っていた。
「……ユーナが変だ。」
「どう変なんだ?」
「たぶん、俺を避けてる。」
ラウルの表情が真剣に案じるものに変わった。
「飯も一緒に食わないし、酒場にも迎えに来ない。稽古が終わるとすぐ帰るし、最近、自分の荷物を妙に整理してる。」
「荷物?」
「ああ。いつでも持って出られるみたいに。」
そこでジンは窓の外へ目を向けた。
「……俺といるの、嫌になったのかな。」
あまりに静かな声だった。
「事情を本人に尋ねたのか?」
「聞いたけど、何でもないとしか答えねえ。」
「……そうか。」
「何でもないわけあるか。三年一緒にいるんだぞ。」
ジンは苛立ったように髪を掻いた。
「飯を食ってない時も、眠れてない時も、無理して笑ってる時もわかる。なのに何を考えてるのかだけ、わからない」
ラウルは胸の奥に重いものが沈むのを感じた。
ジンがユーナを失うことを誰より恐れていることを知っている。
その理由も。
けれど、それをユーナ本人だけが知らないのだ。
その日の夕方、今度はユーナがラウルのもとへやってきた。
「ラウルさん。少し、お話があります。」
顔を見ただけで嫌な予感がした。
ラウルに相談を持ち掛けながらも、ユーナはしばらく黙っていた。
やがて、「師匠には、昔、とても大切な人がいたんでしょうか。」と、ぽつりと聞いた。
ラウルは慎重に聞いた。
「どうしてそう思う?」
ユーナは話した。
占い師のことも、ジンが何度もペンダントを見ながら自分の名を呼んだことも。
「だから、僕の前にもユーナっていう人がいたんじゃないでしょうか。」
ラウルは言葉を失った。
答えを知っている。
けれど、言えない。
「僕は、その人の代わりなんでしょうか。」
「違う。」
ラウルは考えるより先に答えていた。
「それは違う。」
「どうして、そんなふうに言い切れるんですか?」
ラウルは答えない。しかし、ユーナは沈黙の意味を悟ったようだった。
「……知ってるんですね。」
静かな声にラウルの胸が詰まる。
「教えてください。」
「すまないが、それはできない。」
ユーナの顔が曇った。
「師匠との約束ですか?」
ラウルは答えなかったが、ユーナにはそれだけで十分だった。
「……そうですか。」
「でも一つだけ言える。お前は誰かの代わりじゃない。それだけは信じてくれ。」
ユーナの目にわずかに希望が浮かんだ。
「だったら、どうして師匠は僕じゃないユーナを見てるんですか。」
答えれられずに困った顔をするラウルに、ユーナは俯いた。
「……すみません。」
「謝るな。」
ラウルは深く息を吐いた。
「それとな。お前、ジンから離れる準備をしてるだろ、なぜだ。」
ユーナの肩が強張った。
「もし、師匠が僕をいらないと言った時、ちゃんと一人でいられるように、です。」
ラウルは息を呑んだ。
「少しずつ慣れておけば、大丈夫だと思ったんです。」
「馬鹿野郎。」
思わず口から出た。
ユーナが目を丸くする。
「半分くらいジンに言いたい言葉だ。だが、残り半分はお前だ。」
「僕もですか?」
「そうだ。お前が今やっているのは、捨てられた時の準備じゃない。自分からジンのそばを離れてるだけだ」
ユーナは黙った。
「あいつ、今朝俺のところに来たぞ。」
「師匠が?」
「お前が自分を嫌いになったんじゃないかって心配していた。」
ユーナの目が大きく開いた。
「飯を一緒に食わない、酒場にも来ない、稽古の後すぐ帰る、荷物をまとめてる。全部気づいてるぞ。」
ユーナは苦しそうな顔でジンの言葉を聞いている。
「三年一緒にいるんだぞ、って。結構傷ついてたな。」
ユーナの目に涙が浮かんだ。
「僕は、師匠が嫌いだから離れたんじゃありません。」
「知ってるさ。」
「むしろ、大事だから……」
声が震えた。
「いなくなった時、耐えられないと思ったから……」
ラウルは十二歳の少年の頭へ、そっと手を置いた。
「だったら、いなくなる前から、いなくなったみたいに生きるな。」
ユーナの頬を、一滴の涙が伝った。
その夜、ラウルはユーナと一緒に酒場へ向かった。
ジンは、いつもの場所で完全に酔っていた。
「師匠。帰りますよ」
「……ん」
ジンが顔を上げる。
そして、襟元から覗いた銀色のペンダントへ視線を落とした。
ラウルは、不穏な予感に胸がざわめくのを感じだ。
「ジン。」
友人を制そうと声を上げたが、遅かった。
「……ユーナ」
ジンが呟く。
その目は、目の前の少年を見ていない。
「俺なんかを……助けて」
「ジン、やめろ。」
「命まで…」
「ジン!」
ユーナの指が、胸元のペンダントを強く握った。
「……師匠?」
「すまなかった。……許してくれ。」
ジンの懺悔に似た呟きを聞いたユーナは、泣かなかった。
その顔はひどく静かだった。
「……やっぱり、そうなんですね。」
「ユーナ、待て。」
ラウルが何とか、その場を取り繕おうとする。
「やっぱり、僕じゃないユーナが、師匠の命を助けたんですね。」
ラウルは否定できなかった。
その沈黙だけで、ユーナの目から何かがすっと消えていった。
瞬間、ラウルの中で何かが切れた。
そばに置かれていた水差しを掴み、躊躇なくジンの頭から浴びせる。
「うわっ!?何すんだ!」
「いい加減にしろ、この大馬鹿野郎が!」
ラウルの怒声に酒場中が静まり返が、構わずジンの胸倉を掴んだ。
「お前が何を抱えてるかは知ってる! だがな、今のお前の言葉を、この子がどう聞くかを考えろ!」
ジンがようやくユーナを見る。
「……ユーナ?」
少年は胸元のペンダントを握り、泣くことさえ忘れたような顔で立っていた。
「師匠」
「……何だ」
「僕は、その人の代わりなんですか?」
その瞬間、ジンの顔から完全に酔いが消えた。
ラウルは酒場の二階の一室を借り受けると、二人をそこへ押し込んだ。
「話せ。」
「ラウル」
「朝まででも何でもいい、とにかく話せ!」
扉を閉め、廊下に残る。壁にもたれて、目をつぶり深い息を吐く。
自分にできることは、もうない。
ジンの秘密も、ペンダントが本当は何なのかも、勝手には話せない。
ここから先は、ジン自身が言葉を選ぶしかなかった。
部屋の中では、しばらくどちらも口を開かなかった。
先に話し始めたのはジンだった。
「……ユーナ。」
少年は顔を上げない。
「こっちを見てくれ」
「……嫌です」
ユーナがジンから顔をそらした。
ジンはわずかに目を見開いたが、それ以上無理強いはしない。
「じゃあ、そのままでいい。ただ、俺の話を聞いてくれ。お前が思ってることを全部聞いたあとで、俺にも話させてくれ。」
長い沈黙の末、ユーナは小さく頷いた。
そこから、ぽつりぽつりと話し始めた。
占い師のこと。
レグナリアでペンダントについて聞いたこと。
酒場で何度も、ジンがペンダントを見ながら自分の名を呼んだこと。
「僕じゃない人を見てました。」
ジンは何も言えなかった。苦し気な表情でユーナの話を聞いていた。
「その人も、ユーナっていうんですよね。」
長い沈黙。
「……ああ。」
ユーナの指が震える。
「大事な人だったんですか?」
「ああ。」
「師匠の命を助けた人ですか?」
俯きながらも、続けて聞いた。
「……ああ。」
とうとうユーナの目から涙が落ちた。
「じゃあ、僕は……その人の代わりなんでしょう?」
「違う。」
ジンの答えには迷いはなかった。真面目な顔でユーナを見つめる。
「それだけは違う。」
「でも!」
「俺には、お前に話せないことがある。今はまだ……」
ユーナの顔が曇る。
「すまない。でも、話せないことがあるのと、お前が誰かの代わりであることは別だ。」
「……信じられません。」
ジンは苦しそうに笑った。
「そうだよな。俺が悪い。お前がそう思うようなことを、俺がしてきた。」
そして、ゆっくりユーナの前へしゃがむ。
触れずに、目線だけを合わせた。
「ユーナ」
今度はペンダントではなく、目を見て名前を呼ぶ。
「俺が大事なのは、お前だ。今ここにいる、お前だ」
ユーナの瞳が揺れた。
「三年前、俺が連れて帰った、小さな子供。」
声が柔らかい。ジンの脳裏には三年前のユーナの姿が蘇っている。
「最初は飯を食えって言わないと食わなかった。寝ろって言わないと寝なかった。嫌なことがあっても、嫌だと言えなかった。」
自分の意思を持ち、自分の意思で生きていけるように、と願った日々を思い出す。
「だが、今は違う。俺の酒に文句を言う。飯をちゃんと食えって怒る。稽古で負けたら悔しがる。時々、俺の言うことも聞かない。」
「それは……すみません。」
「謝るな。俺は、それが嬉しかった」
ユーナが顔を上げる。
「……嬉しい?」
「ああ。お前が、自分で考えて生きるようになったからだ。」
ユーナの空色の瞳から、再び涙があふれる。
「だから、誰かになろうとするな。過去の誰かにも、俺が求めていると思い込んだ何かにも、なる必要はない。」
そして、静かに言った。
「ユーナのままでいてくれ。」
少年は唇を噛んだ。
「……それで、いつか僕が師匠の期待したような人じゃないってわかったら……」
「とっくにわかってる。」
「……え?」
「お前はお前だ。それでいい」
少し間を置く。
「いや、それがいい。お前がいいんだ。」
ユーナはとうとう顔を覆い、声を押し殺して泣いた。
ジンはすぐには触れなかった。
ただ、そばにいた。
しばらくして、ユーナのほうからほんの少し近づいた。
それを見て、ようやくジンは頭へ手を置く。
「……捨てられない?」
「あたりまえだ。」
「僕が役に立たなくても?」
「役に立つとか、立たないとか。そんなこと考えたこともない。」
「治癒術が使えなくなっても?」
「むしろ嬉しい」
「……僕は嫌です。」
「何でだよ」
「治癒術があれば人を助けられますから。」
「……そういうところだぞ。」
ジンが苦笑し、ユーナも少しだけ笑った。
やがて、ユーナは胸元のペンダントを握った。
「師匠。」
「何だ。」
「このペンダントのこと。いつか、話してくれますか。」
ジンの表情がほんの少しだけ強張った。
銀色のペンダントを見る。
一瞬だけ、遠い何かを見る目が浮かぶ。
けれど、すぐに今のユーナへ視線を戻した。
「……ああ。いつか必ず。」
ユーナは小さく頷いた。
その夜、二人は久しぶりに、互いの気配を近くに感じながら眠った。
翌朝。
酒場の二階の部屋を訪れたラウルは、向かい合って朝食を食べている二人を見た。
部屋に入って来たラウルを見て、ユーナがラウルに丁寧に頭を下げ、挨拶をする。
「おはようございます、ラウルさん。」
「ああ。おはよう。」
それから眠そうにパンを齧っているジンを、じっと見つめる。
「何だよ。」
「いや。ちゃんと話せたみたいだなと思って。」
ユーナは少し恥ずかしそうに俯いた。
「お前が余計なことするからだ。」
「誰のせいだと思ってる。」
「占い師?」
「お前だ。」
ラウルが即答すると、ユーナが小さく笑った。
その声を聞いて、ラウルもようやく肩の力を抜いた。
ユーナの胸元で揺れる銀色のペンダント。それは、ジンが決して捨てることのできない過去であり、ユーナにはまだ知らされていない秘密が隠されている。
いつか、すべてを知る日が来た時、ユーナが何を思うのか、ジンが何を語るのか、 ラウルにはわからない。
ただ、今は。
「師匠、今日は一緒に稽古してくれますか?」
「毎日してるだろ。」
「昨日はしていません。」
「一日くらい休もうぜ。」
「嫌です。」
「お前、昨日俺の言うこと聞くって――」
「そんな約束はしてません。」
「……生意気になったな。」
「師匠が、それでいいって言ったんですよ。」
ジンが言葉に詰まり、ラウルは吹き出した。
ユーナも笑う。
ジンも、やがて諦めたように笑った。
その顔はもう、過去のどこかを見てはいなかった。
少なくとも今、この瞬間だけは、目の前にいる少年を見ていた。
ユーナは胸元のペンダントへ、そっと触れた。
まだ知らないことはある。
それは、少し怖い。
けれどもう、捨てられる日に備えて今日を捨てる必要はないのだと思った。
「ユーナ。」
ジンが呼ぶ。
「はい。」
少年はすぐに振り返った。
ジンの呼ぶ名が、確かに自分へ向けられたものだとわかっていたから。




