第五章 saide白銀の髪の少年―誰かの面影―②
拠点の村へ戻って数日が過ぎ、ユーナはあの日のことを忘れようとした。
ジンは相変わらずだった。
朝は起きず、酒を飲み、賭け事をし、稽古では容赦がない。
いつもの師匠だった。
だから気にしすぎなのだと思おうとした。
ところが、ある夜、 酒場で酔いつぶれたジンを迎えに行った時、その考えは小さく揺らいだ。
「師匠、起きてください。」
「あと一杯……」
「もう飲めないでしょう。」
ジンの前の杯を遠ざけ、帰るように促す。
「歩けますか?」
「余裕だ。」
だが、立ち上がったジンは二歩でふらつき、ユーナが慌てて腕を支えた。
「大丈夫だ。」
「大丈夫な人は十二歳の弟子に支えられません。」
ジンの腕を自分の肩へ回した拍子に、服の襟元からペンダントが滑り出た。
ランプの光を受け、銀色の紋章が揺れる。
それを目にしたジンの動きが止まった。
「師匠?」
酔いでぼんやりした目が、ペンダントへ向けられている。
「……ユーナ。」
「はい?」
呼ばれたので、ユーナはすぐに答えた。
けれど、ジンは自分を見ていなかった。
「……ユーナ。」
もう一度、名前を呼ぶ。
その声が妙に優しかった。
懐かしさと、聞いているこちらまで胸が痛くなるような悲しみが滲んでいた。
「……師匠?」
もう一度呼ぶと、ジンはようやく視線を上げた。
「ん?」
「今、僕を呼びました?」
「……ああ、呼んだ。」
「……そうですか。」
ユーナはペンダントを服の中へ戻した。
その動きを、ジンの目が一瞬だけ追った。
それを、ユーナは見逃さなかった。
数日後、また同じことが起きた。
今度は任、務で訪れた町の酒場だった。
ユーナが外套を渡した時、鎖が襟に引っかかり、またペンダントが外へ出た。
ジンがそれを見る。
そして。
「……ユーナ。」
またあの声だった。今回のユーナはすぐに返事をしなかった。
ジンは自分の顔ではなく、銀色のペンダントを見ている。
「師匠……。」
「ん?」
「……何でもありません。」
ユーナはペンダントを服の中へ隠した。
宿屋に帰ってから、布団の中でユーナは銀色のペンダントを握りしめた。
頭の中を巡るのは、占い師の言葉。
レグナリアでジンが言った、大事な奴からもらったという言葉。
酒場で、ペンダントを見ながら自分の名を呼ぶ声。
その可能性を考えたくはなかった。
けれど、一度形を持った疑問は、押し戻そうとするほど輪郭を濃くしていった。
――僕の前にも、ユーナという人がいたんじゃないだろうか。
そう考えた瞬間、多くのことが一つにつながった。
自分とは違う、別のユーナ。
ジンにとって、とても大切だった誰か。
もう会えない誰か。
その人がこのペンダントを持っていて、その人の名前がユーナだった。
だから名前のなかった自分に、ジンは同じ名前を与えた。
違う、そんなはずはない。
そう思いたかった。
けれど、そう考えると、あまりにも多くのことが説明できてしまう。
どうしてジンは、名前すらなかった奴隷の子供を助けたのか。
どうして弟子にしたのか。
なぜ普段は他人のことなど気にしないのに、自分が傷つけばあれほど取り乱すのか。
どうして治癒術を使うことを、あれほど嫌がるのか。
――その人も、治癒術を使えたのかな。
そこまで考えたところで、胸が苦しくなった。
「……僕はその人の、代わり?」
声に出してしまった瞬間、その言葉が恐ろしいほど真実らしく響いた。
もし本当にそうなら、自分は最初から、自分として選ばれたわけではなかったのではないか。
それからユーナは、変わり始めた。
最初に考えたのは、自分もその「ユーナ」になればいい、ということだった。
きっと、ジンの「ユーナ」は立派な人だったのだろう。
優しくて、強くて、賢くて、ジンの役に立つ人だったことだろう。
ならば、自分もそうなればいい。
「もう一回お願いします」
夕暮れの訓練場で、ユーナは木剣を握り直した。
すでに息は切れていて、掌にも痛みがある。
ジンは不審そうに眉を寄せた。
「今日は終わりだ」
「まだできます」
「できるかどうかの問題じゃなくて、今日はもう終わりだと言ってるんだ。」
「それでも、もう一回だけお願いします。もっと強くなりたいんです。」
ジンが顔をしかめた。
「……お前、何を焦ってるんだ。」
その問いに、答えられなかった。
ジンは深く息を吐いた。
「最近のお前、どうかしてるぞ。」
「何がですか?」
「無茶しすぎだ」
ユーナは俯いた。答える声が小さくなる。
「……強くなりたいだけです。」
「だからって勝手に自分を追い込むな。」
ジンの返答は心配の裏返しだったが、その時のユーナには別の意味に聞こえた。
――そんなものを求めていない。
――お前は違う。
「……すみません」
ユーナはうなだれたまま、先に訓練場を出た。
やがてユーナは、どれだけ努力しても、ジンの「ユーナ」にはなれないのだと思うようになった。
自分はかつて奴隷だった。
普通の教育も受けていないし、同年代の子供に比べて知らないことも多い。
いつかはジンも気づくのだろう。
どれほど時間をかけて教えられても、自分は「ユーナ」になれない、と。
その時、自分はどうなるのだろう。
もう弟子ではなくなるのだろうか。
役に立たないなら、そばに置く意味はないと言われるのだろうか。
奴隷だった頃には、働けなくなった者が捨てられるのを何度も見た。
だが、ジンは違う。ジンがそんなことをするはずはない。
そんなことは、頭ではわかっていた。
それでも、身体の奥深くに染み込んだ感覚は消えてくれなかった。
ならば、この不安を解消するために、自分は準備をしておこう。
少しずつジンから距離を置こう。
そうやって、少しずつ、ジンがいないことに慣れておく。
そうすれば、本当に捨てられる日が来ても、準備した分、傷つかずに済むかもしれない。
それは、十二歳の少年が考えた、あまりにも不器用な自己防衛だった。
ある日の夕刻、長老のもとから戻ったユーナを見て、居間で書類を読みながら、酒を飲んでいたジンがその名前を呼ぶ。
「お前、飯は?」
「もう食べました。」
ジンが書類から顔を上げた。
「……いつ?」
「長老のとこらから帰ってくる途中です。」
「俺、待ってたんだけど。」
「すみません。僕は部屋に戻ります。」
ユーナは目を合わせることなく立ち去り、ジンは一人で食卓に残された。
次の日。
まだ日が高いうちから「酒場行ってくる。」と、立ち上がり部屋から出ようとするジンに、ユーナはただ「はい」とだけ答えた。
その反応に、ジンは扉の前でしばらく立っていたが、「迎えは?」と半分冗談に聞いた。
以前なら、迎えが必要なほど飲まないでください、と返されるはずだった。そういいながらも、ユーナはジンの帰りが遅いと酒場まで迎えに行く。しかし。
「今日は行きません。」
「……何かあるのか?」
「長老から借りた本を読みたいので。」
「そうか。」
ジンは一人で酒場へ向かった。
その日の酒は妙にまずかった。
さらに数日後の剣の稽古では、ジンが今日の稽古の終わりを告げると、「では失礼します」とあっさりと踵を返した。
「おい、ユーナ。」
「はい?」
思わず呼び止めたジンの声に振り返った顔は、いつもと変わらないように見えた。
それが余計に怖かった。
「……何でもない。」
「そうですか。」
ユーナはそのまま立ち去った。
ジンはその場に突っ立ったまま、弟子の背中を見つめ続けた。
最近、何かを一つずつ奪われているような気がする。
一緒に食べる時間。
酒場からの帰り道。
稽古の後の会話。
どれも、ついこの間まで当たり前だったものだ。
「……何なんだよ。」
どうしてこうなったのか、理由がわからない。
それが何より不安だった。




