第五章 saide白銀の髪の少年―誰かの面影―①
レグナリア王国から戻ってきてから、ジンとユーナにはしばらく遠方への任務が割り振られなかった。
レグナリア行きをしぶっていたジンに対する、ゼインなりの気遣いだったのかもしれない。もっとも、アルカの使者に完全な休暇などほとんどなく、拠点の村に腰を落ち着けている間も、近隣の村で起きた水利権争いや、街道沿いの盗賊についての聞き取り、農村同士の境界争いの仲裁など、細かな任務はいくつも回ってきた。
それでも、ユーナにとっては久しぶりに穏やかな日々だった。
朝になればラウルが二人の家を訪れ、まだ寝台から起きようとしないジンに呆れ、ユーナが朝食を並べる頃になってようやく本人が髪を掻きながら姿を現す。近場への任務ならジンとユーナ、それにラウルの三人で村を出て、日が傾く頃には戻ることができた。
剣を持たせれば誰より強く、交渉の席では相手の言葉に含まれたわずかな揺らぎを拾い上げ、聞き込みでは酒を飲みながら世間話をしているように見せかけて、必要な情報だけを抜き取っていく。
ユーナは、そんなジンの背中を見ながら歩くのが好きだった。
伸ばしかけの髪も、無精髭も、どこか投げやりな歩き方も、普段の生活だけを見れば尊敬される要素などほとんどない。それでも何かあればすぐ剣へ手が届く位置を崩さず、ユーナが少し遅れれば歩幅を緩める。
いつもの師匠だった。
だからユーナも、ようやく安心することができた。
レグナリア王国を訪れた時の、ジンの様子は妙だった。
それでも、あの国を離れてしまえば元に戻ったのだから、きっと自分の知らない過去に何か嫌な思い出でもあるのだろう、と考えることにしていた。
その頃はまだ、それ以上考えようとはしなかった。
その日、ジンとユーナ、そしてラウルの三人はアルヴェイン連邦王国の小さな街へ出向いていた。商人同士の揉め事について事情を聞き、必要であれば仲裁するというだけの簡単な任務だった。
双方とも話の通じる相手だったおかげで、昼を少し過ぎた頃には話はまとまった。
その帰り道、三人は市場を歩いていた。布地、香辛料、焼いた肉、菓子の甘い香りが雑然と混じり合い、あちらこちらから商人の声が飛ぶ。
ユーナが何気なく焼き菓子の露店へ目を向けると、すぐにジンが気づいた。
「食うか?」
「え?」
「見てただろ。」
「そんなにわかりやすかったですか?」
「お前のことならな。」
あまりに何でもない調子で言われたので、ユーナは一瞬返事を忘れた。
胸の奥がわずかに温かくなる。
その様子を後ろから見ていたラウルは苦笑した。
ジンは普段、ユーナを放っているように見える。食事を作るのも旅支度を整えるのも、むしろユーナのほうが世話をしているくらいだ。
それなのに、ユーナのこととなると妙なほど細かなところまで見ている。
疲れている時の歩き方も、食欲が落ちている時の顔色も、無理に笑っている時の癖も。
そのくせ、伝えるべきことに限って何も言わない。
ラウルは時々、それがひどく不器用なことだと思う。
その時だった。
先を歩いていたジンが足を止めた。
市場の端、人通りの少ない路地に、小さな天幕が出ていた。中には深く頭巾を被った人物が一人座っている。
「興味あるんですか?」
ユーナが尋ねる。
「全然ないが、向こうが見てる。」
確かに、占い師らしいその人物は、まっすぐジンを見ていた。
「珍しい客だね」
しゃがれた声がした。
「悪いが、占いに払う金があったら酒を買う。」
「師匠。」
ユーナが呆れたように呼ぶと、占い師は喉の奥で笑った。
「金はいらないさ。」
「なら、なおさら怪しいな。」
ジンが歩き出そうとした、その背中へ占い師は言った。
「ずいぶん遠くから来たものだ。」
ジンの足が止まった。
その隣で、ラウルの表情もわずかに硬くなり、警戒の色がのぞいた。
ユーナだけが、その意味を理解できないまま二人を見比べた。
「……何の話だ。」
ジンの声から、それまでの軽さが消えていた。
占い師はじっと彼を見つめたあと、静かに続ける。
「過去の亡霊を追いかけている。」
ジンの目がわずかに細くなった。
「馬鹿馬鹿しい。行くぞ、ユーナ」
ジンが踵を返すが、その背を声が追う。
「失ったものを取り戻そうとするのは、悪いことじゃない。けれど亡霊ばかり見ていると、今、隣にいる者を見失うよ。」
ジンの歩みが止まり、表情が変わる。
それは、本当に一瞬のことだった。
しかし、ユーナは見てしまった。
悲しみとも後悔ともつかない、遠いものを懐かしむような目を。
「……師匠?」
思わず呼ぶと、ジンは振り返った。
「何だ。」
その顔はもう、いつものジンの顔だった。
「……いえ。」
ユーナは曖昧に笑った。
三人はそのまま歩き出したが、ラウルだけは一度、背後を振り返った。
占い師もこちらを見ていた。
――勘弁してくれ。
何者か知らないが、余計なことを言ってくれたものだ。と内心で毒づいた。
しかし、謎の占い師の言葉以上にラウルが気になったのは、あんな顔をユーナの前で見せてしまったジンのほうだった。
ユーナは聡い子供だ。
何も知らないことと、何も感じ取れないことは違う。
そのことを、ジンは時々忘れている。
その夜、ユーナはなかなか眠れなかった。
宿の窓から差し込む月明かりの中で、布団の中から銀色のペンダントを取り出す。
細い鎖の先に下がった銀板には、刻まれているのは、レグナリア王家の古い紋章だそうだ。
あの国を訪れた時、このペンダントについて尋ねたことがあった。
大事な人からもらったものだ。と、あの時ジンはこのペンダントについて語った。
その時は、それ以上聞かなかった。
ジンの横顔があまりにも寂しそうで、そこへ踏み込んではいけないような気がしたからだ。
だが、今日の占い師の言葉が、その記憶に別の意味を与えてしまった。
過去の亡霊。
失ったもの。
大事な人。
そして、このペンダント。
「……誰なんだろう」
ユーナは小さく呟き、銀色の表面を親指で撫でた。
師匠には昔、とても大切にしていた人がいたのだろうか。
そして、その人は、もう会えない誰かなのではないか。
その時は、まだただそれだけの疑問だった。




