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第一章 saide白銀の髪の少年―逃げ出した若君―③

乗客の無事を確認した後、その日の夕刻に乗合馬車は予定より大幅に遅れて、ベルネシュ自由連合王国北部の宿場町へ入った。


 この町は、国境へ向かう街道沿いにできた典型的な宿場だった。

 低い石壁に囲まれた厩舎、蹄鉄の看板を掲げた鍛冶屋、荷車を修理する職人小屋、旅人向けの雑貨屋、何軒かの宿屋。その間を荷馬車や旅人が絶えず行き交っている。

 夕暮れ時を迎えた町は、一日のうちで最も騒がしい時間を迎えていた。


 馬が嘶き、御者が怒鳴り声を上げる。

 宿の前では給仕の女が客を呼び込み、厩番の少年たちが旅人から馬の手綱を受け取っていた。その喧騒を縫うように、焼いた肉と玉葱の匂いに、馬糞と土埃の臭いが入り混じって漂う。




 ロナンは馬車を降りると、強張った体をゆっくりと伸ばして、深いため息をついた。

「……ひどい目に遭った。」

 誰にも聞かれないよう、小さくこぼす。

 身体の疲れよりも、まだ胸の奥に残る恐怖のほうが辛かった。

 先ほどの襲撃の中で、盗賊の剣が自分へ振り下ろされた瞬間を思い出す。

 稽古ではない、殺意の込められた、本物の刃。

 あと少しジンが遅ければ、自分は死んでいたかもしれない。

 そう考えると、背中へ薄い寒気が走った。


 けれどロナンは、すぐに胸を張り直した。

 怖かったなどと認めるものか。自分は一人で家を出たのだ。

 父の庇護を離れて、自分の判断でローグレン王国へ向かうことを決めたのだ。

 これくらいで怯えていてどうする。

 そう自分へ言い聞かせた。


 しかし、その一方で、頭には別の考えも浮かんでいた。

 ――確実にローグレンへ辿り着くための護衛は、いたほうがいい。それも、できるだけ腕の立つ者が。


 そこで思い浮かぶのは、やはりあの男だった。

 ジン。

 伸ばしかけの髪に無精髭。身に纏ったくたびれた外套。

 水のかわりに酒を飲み、軽口をたたき、弟子に世話を焼かれる、素行の悪い傭兵にしか見えない男。


 その男が、剣を抜いた瞬間、まるで別人のようだった。

 盗賊たちが何人いても焦る様子一つなく、相手の刃をわずかな動きで逸らし、瞬く間に倒してしまった。

 しかも十二歳の弟子へ、戦いの最中に剣の指導までしながら、だ。




 そこまで考えを巡らせて、ロナンは宿場町を見回した。

「あいつ、どこへ行った?」

 乗合馬車の乗客たちは町に到着し、馬車を降りた途端に、三々五々、町の人ごみに紛れるように去って行った。ジンとユーナも気付いた時には姿を消していた。

 盗賊から乗客を守った英雄であるにもかかわらず、彼らはその功績を誇ることなく、ひっそりと姿を消していた。

 普通なら、馬車に偶然乗り合わせた旅人を、見知らぬ街で再び見つけ出すのは至難の業だろう。しかし、ジンのという男に限っては、いったいどこへ向かったのかなど、考えるまでもなかった。




 町で一番大きな酒場は、街道と市場通りが交わる角に建っていた。

 酒場の扉を開けた途端に、むっとするような熱気と騒々しい音が、ロナンへ押し寄せた。

「……うわ。」

 ロナンは思わず立ち止まる。

 彼が目にした光景は、屋敷で行われる宴席とはまるで違うものだった。

 低い天井を横切る太い梁は、長年の油煙で黒く煤けており、そこから獣脂の灯りがいくつも吊られ、薄暗い店内を黄ばんだ光で照らしていた。

 長い木卓が所狭しと並び、その周囲には商人、荷運び人、傭兵らしい男たち、旅人、農夫、職人……。さまざまな生業の者たちが入り乱れて座っている。

 そして、彼らの大声の笑い声や陶器の杯がぶつかる音、賭け事に負けた誰かが悔しがって卓を叩く音など、客の生み出す音が酒場に溢れかえっていた。


「麦酒をもう一杯追加だ!」

「おい、肉の煮込みをこっちにも持って来てくれ!」

「お前、それは俺のパンだぞ!」

「うるせぇ!取ったもん勝ちだ!」

「喧嘩するなら外でやんな!」

 給仕の女が卓を挟んでもめる男たちを怒鳴りつけている。

 その向こうでは、小さな弦楽器を抱えた流しの楽師が陽気な曲を奏でているのだが、酔客たちの声にほとんどかき消されていた。


 その場の騒がしさにロナンは少し顔をしかめた。だが、内心ではこの場の雰囲気に高揚していた。

 ここでは誰も自分を領主の息子として扱わない。すれ違いざまに深く頭を下げる者もいない。

 ――誰も自分を「若君」とは呼ばない。

 それが、妙に新鮮だった。

 やっぱり、外に出て正解だったという気持ちが胸を満たす。




 そうして酒場を見渡した視線の先、酒場の奥の壁際の卓。

「あ。」と思わず声が漏れた。

 ジンがいた。

 当然のように酒を飲んでいた。

 肘をつき、陶器の杯を手にして、先ほどまで盗賊を圧倒していたとは思えないほど気の抜けた顔をしている。

 その向かいの席にはユーナが座っている。白に近い銀髪は薄暗い店内でも目立っていた。

 彼の前に置かれているのは、麦酒の杯ではなく、野菜と豆の入った温かなスープのようである。




 ロナンは、入り口付近に並んだ卓と周囲の客を避け、二人の座る卓へと向かった。

 二人の卓の近くまで来た時、すぐ横の卓を囲む客たちが大きな声で交わす会話が耳に入った。

「おい、聞いたか?アルカが近くに現れたらしいぞ。」


 ロナンの歩みが止まる。

 同時に杯を口へ運ぶジンの手も一瞬止まった。

 ユーナも顔を上げ、声の聞こえた方へ視線を投げた。


「近くって……どこにだよ?」

「ローグレンとアルヴェインの国境付近らしい。」

 話をしているのは三人組の商人だった。


 一人は毛皮商らしく、椅子の背に獣皮の外套を掛けている。もう一人は馬具を扱っているらしく、腰袋から革油の匂いが漂っていた。三人目は酒で真っ赤になった顔をしている。

「どうもここ最近、国境付近の領地間で小競り合いが起きていたんだと。」

 毛皮商らしき男が訳知り顔で、他の二人に語っている。

「アルヴェイン領とローグレン領は昔から多いよなぁ。」

「最初は家畜が国境を越えたとか、水場を勝手に使ったとか、領民同士が互いの不満をぶつけ合ってる程度だったらしいんだが、それが領民同士の喧嘩になり、しまいにはローグレン側の騎士とアルヴェイン側の自警団が武器を抜いて睨み合うまでに発展したらしい。」

 話を聞いていた馬具職人が眉をひそめて言った。

「そりゃ、下手すりゃ戦争になるぞ。」

 毛皮商が頷いて続けた。

「ああ。だが、実際に争いになる前に〈アルカ・パクシス〉が入った」




 その名前を聞いて、酒場の何人かが反応した。

 ぼそぼそと小声で仲間内と囁き合う。

「〈平和の使者〉か。」

「またあいつらが……。」

「だが、あそこが来たなら大事にはならんだろ。」




 ――〈アルカ・パクシス〉


  世間を知らないロナンももちろん知っている。いや、この世界で生きる者の中で、彼らの存在を知らない者の方が珍しいだろう。

 彼らは七国のどこにも属さない。領主にも、王にも、国境にも縛られない。

 何物にも縛られず、ただ平和を維持するために存在する中立組織、それが〈アルカ・パクシス〉、通称アルカだった。


 この世には人間とエルフ、そして人間とエルフの両方を祖先に持つハーフエルフいう種族が存在している。エルフもハーフエルフも人間に比べて寿命が長く、人間には使えない不思議な術を使う者もいる。


 エルフはその数が極端に少なく、ロナンもまだその姿を見たことがない。

 ハーフエルフはエルフよりは数も多く民衆に混じって暮らしているそうだが、人間と外見が変わらないため、彼らを一目で見分けることはできない。

 そしてアルカの者たちは、ほとんどがエルフとハーフエルフなのだそうである。


〈アルカ・パクシス〉という名前は、古い言葉で「平和の方舟」を意味するのだと、幼い頃に家庭教師に聞いたことがある。

 もっとも、その由来を本当の意味で知っている者は、今の時代にはほとんどいない。

 なぜならその古い言葉は、古代文明が滅んだとともに消滅したとされているからだ。




 幼い時に誰もがおそわる、この世界の歴史。

 今より千年以上前の遥かな昔、世界には今より遥かに高度な文明が存在していた。

 巨大な石造建築が街を作り、山を貫く街道が走る。

 今の鍛冶技術では再現できない素材で作られた、光る文字やひとりでに開閉する扉。

 そんなものが普通に存在していた世界だったという。


 その頃、エルフたちは人間の高度な文明を嫌い、人間と距離をとって隠れ住んでいた。

 やがて人間たちは高度な文明を利用して、強力な兵器を生み出した。

 そして生み出したその兵器を使って、人間の同士で戦争を始めた。

 古代の強力な兵器は、多くの人間を殺した。その結果、人間はそのほとんどが死んでしまった。


 生き残った者たちもいたが、古代兵器のために、大地は汚染され、空気は澱み、水は枯れ果てもはや生き残った彼らの生きる土地すらなかった。

 その時、エルフたちが人間に救いの手を差し伸べた。彼らは不思議な力で一つの大陸を浄化し、人間の住める土地を用意した。人間が高度な文明を手放すことと引き換えに。


 そして、再び人間たちが愚かな戦争を繰り返すことのないように、人間たちを監視することにした。それが〈アルカ・パクシス〉の起源だ。

 だからこそ、アルカの者たちがエルフとハーフエルフであるのは至極当然のことだった。


 世界各地には、古代文明の遺跡が今も点在している。それは、今や失われた技術によって作られた古代の名残り。何のための施設だったのか誰にも分からない。

 さらにこの大陸を囲む海の向こうには、人が住めない汚染された大地が広がる大陸が他にもあるのだと信じられている。


 七つの国々は、一度崩壊した世界の上に成立しているのだった。




 ロナンは家庭教師の授業を思い出す。

『アルカは騎士や自警団ではありません。彼らはどの国にも属さず、争いの種を取り除くために存在しているのです。』

 家庭教師の言葉にロナンは首を傾げた。

『でも彼らは剣を持っているんだろう。』

『そうですね。』

『変じゃないか。争いを止めるためと言いながら、剣を掲げて誰かと争うのか?』

 家庭教師はロナンの疑問に困った顔で答えた。

『……平和を守る者ほど、時には剣を持たなければならないこともあるのです。』

『どういうこと?』

『争っている者たちが、言葉だけでは止まらない時です』




 アルカの者たちは平和の使者。

 彼らは、国から国へ。領地から領地へ。

 争いが戦争になる前に、争い合う者たちの間へ立つ。

 話を聞き、調べ、時には嘘を暴き、条件を調整して互いに退く理由を作る。

 それでも、どうしても剣が抜かれたなら。

 民衆を守るために、争っている者たちを止めるために、武力を振るうことも辞さない。


 彼らは平和の使者であり、世界の監視者。だからこそ、一国の王ですら、彼らの要求を無視することはできない。

 だからこそ、アルカを嫌う王侯もいる。

 国の内情へ首を突っ込み余計な正義を振りかざす者たちだ、と罵る者もいる。

 一方で争いで家族を失った民や、国境交易で暮らす者たちは、アルカの介入を歓迎することも多かった。




 酒場の商人たちも同じらしい。

「アルカが介入して、それで結局どうなったんだ?」

 酒で顔の赤らんだ男が尋ねた。

「最初はアルカの使者が説得したらしいんだが、双方とも頭に血が昇っていたらしく、話を聞かなかったんだと。」

「それで?」

 毛皮商が笑った。

「武力介入だ。騎士団も自警団の連中もまとめて叩き伏せたってよ。」

 赤ら顔が手を叩いて笑う。

「そいつは平和的だな!」

「三十人近くいた者たちが二人の使者に倒されちまったんだとよ!」

 聞き役の二人が驚いている。

「化け物かよ。」

「そりゃあ……アルカだからな。」

「でもまあ、あいつらが介入しなかったら、今頃国境は閉鎖されてたかもな。」

「ローグレンとアルヴェインが本気で揉めたら、この辺りの交易は止まっちまうよ。」

「戦なんぞ王や領主たちだけでやってくれりゃいいが、実際困るのは俺らだからな」




 そんな会話を、ロナンは黙って聞いていた。

 国境の小競り合い、アルカ、武力介入……。そのどれもが、今までのロナンにとっては遠くの話だった。


 けれど、今日、自分は盗賊に襲われた。

 剣を向けられ、下手をすれば死ぬ可能性すらあった。この世界は、思っていたよりずっと危険に満ちていた。


 「……やっぱり物騒だ。」

 ロナンは小さく呟いた。

 向かうのはローグレン王国。

 しかもその先の国境で小競り合いまで起きている。

 自分には直接関係ない話だが、備えておくに越したことはない。


 ――護衛は必要だ、絶対に。

 それも、どうせ雇うなら、強い奴がいいに決まっている。

 ロナンの視線は自然にジンの方に向かった。

 この男を雇う。何としても。


 ジンは、まるでアルカの話など自分には関係ないと言わんばかりに、涼しい顔で酒を飲んでいた。






「僕の護衛になれ。」

 ロナンは卓の前へ立つなり、腰に手を当てて言い放った。

 ジンがゆっくりと顔を上げロナンを認めると面倒臭いとでも言いたそうな顔をした。

「嫌だ。」

「おい!まだ何の説明もしていないぞ!」

「聞いたって結論は変わらねえよ。」

「何だと?!」

 ジンの向かいに座るユーナが困ったようにジンを見る。

「師匠、話くらい聞いてあげてください。」

「お前は人が良すぎる」

「師匠が悪すぎるんです」

「俺は普通だろ。いいか、これはな危機管理ってやつだ。」

「……危機管理、ですか?名のための?」

「俺の平穏を守るための。」


 自分を無視するように繰り広げられるやり取りに、ロナンはむっとして強い語調で言った。

「僕はローグレン王国へ行く!」

  ふうん。と気のない返事をして、ジンは酒の入った杯を口へ運ぶ。

「ある領主に招かれているんだ。」

 酒を一口飲んでから、へぇ。とやる気のない相槌をうつ。

 めげずにロナンは言う。

「その屋敷まで護衛してくれ。」

「断る。」


 ジンの返答に、ロナンが眉を吊り上げた。

 今しがた噂話をしていた商人たちが座る卓を指して声を荒げる。

「お前も聞いただろ!アルカが現れたって話を!」

 ジンが少し眉を上げる。

「ローグレンとアルヴェインの国境で小競り合いがあったんだぞ!」

「らしいな。」

 ジンは肩をすくめるとロナンを見上げて、で?と聞いた。

「この辺りは物騒なんだ!」

 そのロナンの言葉にはジンも、ああそうだな、と頷いた。

「昼間に盗賊にも襲われたしな。」

「そうだ!」

「そういやお前、襲われてる最中に自分の身分を名乗ろうとしてたよな。」

 ロナンの顔が赤くなる。

「それは今関係ない!」


 ロナンの反応にジンは少しだけ笑った。

 衛の話を持ち掛けたのに、相手にされていない。それどころか、からかわれているのだと分かった。 ジンの態度に腹を立てたロナンは勢いよく卓へ両手をついた。

「僕には護衛が必要なんだ!」

「なら、町で傭兵を雇えばいいだろう。」

 さも面倒そうに答えるジンの顔を睨みつけて言う。

「お前がいい。」

 ジンが少しだけ表情を改めた。

「何で俺を雇いたいんだよ。」

 そう聞かれてロナンは迷わず答えた。

「強いからだ。」


 あまりに真っ直ぐな答えだった。向かいの席で、師匠とロナンの様子を眺めていたユーナはその真っすぐな返答に微笑みを漏らした。

 それを目ざとくロナンが見とがめる。

「お前今、笑っただろ!」

「笑っていません。」

「絶対笑った!」


 ユーナがジンを見る。

「師匠、いいんじゃないですか?ローグレンへ向かうのは僕たちも同じでしょう。」

 ジンがあからさまに嫌な顔をした。反対にロナンは驚いたようにジンへ視線を向ける。

「お前たちもローグレン王国を目指しているのか?」

 ジンは苦い顔で、まあな、と曖昧に答えた。その返答にロナンは、「なら決まりだ!」とわが意を得たりとばかりに胸を張る。

「勝手に決めんな。」

 それでもしぶるジンに、ロナンは最後のカードを切った。

「報酬は出すぞ。」

 ジンの眉がピクリと動く。

「いくらだ。」

 ユーナが呆れた声を上げる。

「師匠、さっきまで嫌だと言っていたでしょう。」

「仕事なら報酬は重要だ。条件次第で引き受けてやってもいい。」


 ジンがその気になったことで、ロナンは少し得意げになった。

「金ならあるんだ。」

 調子に乗って、高らかに告げる。

「僕はベルネシュ自由連合王国西部の有力領主の嫡男だからな」

 その瞬間、ジンの目に僅かに不機嫌そうな色がともった。ユーナも一瞬だけロナンを見やる。

「……先刻も言ったが。お前、それ、旅先でいうな。狙ってくださいって看板ぶら下げてるのと同じだぞ。」

  襲撃時の自分の行動を、またしてもからかわれているのだと思ったロナンは、苛立ったように叫んだ。

「またそれか!僕は世間知らずじゃない!」

 そう言い切ってから、溜まっていた不満を吐き出すように続ける。

「父上もそうだった!僕が何を言っても、まず否定する。僕のことをよく見もしないで!」


  杯に口をつけようとしていたジンは、その言葉にゆっくりと杯を卓に戻した。

 ユーナは黙ってロナンを見つめている。

 ふたりの様子を気にかけることもなく、ロナンは続ける。

「父上は僕を信用していないんだ。……けれど、ローグレンのあの方は違う。あの方だけが僕を正しく評価してくれた。僕を認めてくれた。」

 ロナンの声が熱を帯びる。反対に、ロナンの言葉を聞いたジンの目には、冷たい光が宿った。

 ジンがため息を吐いて言う。

「……馬鹿馬鹿しい。」

 師匠、と。ユーナがたしなめるように声を掛ける。

「なに?!」

 ロナンが怒気を露わにした。それでもジンは冷たく言い放つ。

「自分を認めてくれる奴だから、信用できる?本気でそう思ってるんなら、お前、騙すの簡単そうだな。」


 「黙れ!」

 ロナンが卓を激しく叩くいた。

 ジンを睨みつけて、「お前に僕の何が分かる!」と詰め寄った。

 今にも掴みかかりそうなロナンを見上げて、ジンは静かに言う。


「わからねぇよ。ただ――」


 ジンの目から冷たい光が消え、代わりに自嘲の色がにじむ。

 ほんの一瞬、ジンは、目の前の少年ではない、遠い昔を見た。

「ただ、自分にすりよってくる奴を味方と信じ込んで。そいつの言葉を信用し、信じるべき奴を疑った馬鹿が、後で死ぬほど後悔したって話を知っているだけだ。」


 ロナンにはジンの言葉の意味が分からなった。

 ただ、自分のことを愚か者だと、馬鹿にしているのだと受け取った。

「僕がその馬鹿者と同じだと言いたいのか?」

「さあ?」

 ジンが薄く笑う。

「馬鹿にしてるだろ!結局お前も、僕を何も知らない子供だと――!」

 言葉に詰まったロナンがこぶしを握り締めた時。


「ロナン」

 ユーナが立ち上がった。小柄な体でジンとロナンの間に割って入る。

「ロナン、落ち着いてください。」

「なんだ!君まで僕を馬鹿に――」

「しません。」

 柔らかい声音でロナンの言葉を遮って、ユーナは真剣な瞳でロナンを見上げた。

 そして少し困った顔をする。

「師匠は言い方が、少し悪いんです。」

 言ってから少し考えて言い直す。

「あ、いえ、かなり悪いんです。」

「おい。」

 ユーナの背後からジンが不満そうな声を上げるが、ユーナは構わず続けた。

「でも、あなたを傷つけたくて言っているわけではないと思います。」

 ジンがそっぽを向いて杯に手を伸ばす。ロナンは黙り込んだ。

「師匠は、本当にどうでもいい人には、たぶん何もいいませんから。」

「……お前、それフォローになってるか?」

「師匠は少し黙っていてください。」

「はいはい。」

 ジンが杯から酒を飲む。




 ロナンの腹の虫はまだ収まっていなかったが、ユーナの声は不思議と怒鳴り返す気持ちを削いだ。

「認めてもらえたら、嬉しいですよね。」

 ロナンは小さく頷く。

「……当然だ。」

「僕もそう思います。」

 その言葉にロナンがユーナを見る。

 ユーナの薄い空色の瞳が静かにロナンを見返す。

「でも、その人が、どうして自分の欲しい言葉をくれたのか、考えてみてもいいかもしれません。」

 ロナンは答えなかった。


 しばらく三人の間に沈黙がおりる。

 酒場は相変わらず騒々しい。

 給仕の女が、大きな皿を両手に乗せて「通るよ!」と怒鳴りながら三人の横を通り抜けていった。

 しばらくしてジンが口火を切った。

「で?」

 ロナンが睨む。

「何だよ。」

「護衛の報酬はいくらだ?」

 ユーナが呆れてため息を吐く。

 ロナンも呆れた声を上げる。

「今その話をするのか!?」

「仕事は仕事だろ。」

「師匠、台無しです。」


 ロナンはしばらくジンを睨んでいたが、やがて、なぜか少し笑ってしまった。

「……わかったよ」

 そばにあった椅子を引き寄せ、ジンの目の前の卓へ着く。

「ローグレンの領主の館に到着したら、言い値で払おう。」

 ジンは満足そうな顔で頷き、「なら話を聞こう」と言った。

「最初から聞け!」

 ジンが笑った。ユーナも小さく笑って自分の席に着いた。




 こうしてロナンは、二人を自分の護衛に雇うことができた。

 あくまで自分が二人を雇ったのだと思っていた。

 だから知らなかった。

 ジンとユーナが既にロナンの父から正式に依頼を受けていたことを。


 若君によって持ち出された領主印。その若君の向かう先はローグレンの領主。

 あまりにも出来すぎたその出奔の裏に、何かがあると判断した二人は、わざとロナンに声を掛けずに尾行していた。

 ローグレン王国の領主が、他国の領主の領主印を世間知らずの少年に持ち出させて何を企んでいるのか。その真意を知るために。


 そして今、ロナン自身が二人を護衛として雇った。

 これで堂々とローグレン領主の屋敷まで同行できる。


 酒場の喧騒の向こうで誰かがまだ〈アルカ・パクシス〉の話をしていた。

 遠い国境で争いへ割って入った、平和の使者の話を。


 ロナンはそれを、完全に他人事として聞いていた。まさか、今、目の前で酒を飲んでいる無精髭の男と、その男から酒を取り上げようとしている白銀の髪の少年が、そのアルカの使者だとは、夢にも思わずに。

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