幕間Ⅰ saide王国の少年―アルカの青年―②
ジルディーンが最初にユーナの部屋を訪ねたのは、彼に部屋に用意されてすぐのことだった。
王宮の一室。王族の暮らす部屋からは離れたところに彼の部屋は用意されていた。
「レグナリア以外の国には、竜がいるの?」
部屋を訪れるなり、唐突に尋ねられたユーナは、荷物をほどいていた手を止めた。
「竜ですか。」
「いる?」
「残念ながら、私は見たことがありません」
「じゃあ魔物は?」
「それも見たことがありませんね。」
「じゃあアルカの使者は何と戦うの?」
ユーナは少し考えた。
「人間、でしょうか。」
ジルディーンは目を丸くした。
子供が期待していた答えではなかったと気づいたらしく、ユーナは困ったように笑った。
「ただし、戦わないで済ませるのが一番良い仕事です。」
「剣を持ってるのに?」
「剣を持っているからこそ、抜かずに済ませたいのです」
その言葉の意味を、幼いジルディーンはまだ理解できなかった。
けれど、なんとなく格好いいと思った。
それからというもの、少年は暇さえあればユーナのところへ行った。
「旅の話をして。」と言う、それが決まり文句になった。
ユーナはいつも断らなかった。
雪深いローグレンの話。
海の向こうまで船を出すアラウナの人々の話。
砂と乾いた風の土地で暮らすなジュールの者たちの話。
国境で兵士同士が睨み合い、一触即発だったところへアルカが入り、三日三晩話し合った末に双方が剣を収めた話。
時には失敗した話もした。
言葉を間違えて相手を怒らせたことや、道に迷ったこと。
食べられると思った木の実がとんでもなく苦かったこと。
酒に酔った仲間を背負って宿まで運んだこと。
「使者なのに道に迷うの?」
「使者でも迷います」
「格好悪い」
「ええ。かなり」
そう言って笑うユーナが、ジルディーンは好きだった。
王宮の大人たちは、少年が何か尋ねれば必ず一度考える。
これは王子に教えてよいことか、この言葉遣いでよいのか、王族に対して失礼ではないか。
けれどユーナには、それがなかった。
知らないことは知らないと言い、間違えたことは間違えたと言った。
ジルディーンがくだらない質問をしても笑わなかった。
だから少年は、いつしか青年の部屋へ駆け込む時だけは王子ではなく、ただの子供になっていた。
「ユーナ!」
部屋へ走り込んでくるジルディーンにユーナは呆れたように注意した。
「殿下。廊下を走ると侍従長に叱られますよ。」
「でも、見つかってない。」
「私が見ました。」
ジルディーンが頬を膨らませる。
「ユーナは侍従長じゃないよ。」
ユーナが穏やかに笑う。
「では黙っておきましょう。」
「うん。」
「ただし帰りは歩いてくださいね。」
ジルディーンがしぶしぶ頷く。
そんなやり取りを何度もした。
それからしばらくして、先王が病に伏した。
老いは、治癒の術でも治せない。
ユーナは幾度か祖父の部屋を訪れていた。
何を話していたのか、ジルディーンは知らない。
ただ、部屋から出てきたユーナの顔がいつもより静かだったことだけは覚えている。
そしてある朝、王宮の鐘が鳴った。
低く、長く。一度、また一度。
その音を聞いた瞬間、大人たちの顔が変わった。
――先王が崩御した。
ジルディーンは最初、その意味をうまく理解できなかった。
祖父の部屋へ行ってはいけないと言われた。
どうして、と尋ねても誰も答えてくれない。
ようやく会うことを許された時、祖父は眠っているようだった。
けれど呼んでも起きなかった。
祖父の冷たい手に触れ、その時になって初めて、ジルディーンは泣いた。
葬儀の日、王宮は黒い喪章の布に覆われた。
ユーナもまた喪服を纏い、誰よりも後ろの列に立っていた。
王族として前へ出ることはなかった。
先王の血を引く者だと名乗ったにもかかわらず、ただ一人の臣下のように頭を垂れ、棺が運ばれていくのを見送っていた。
ジルディーンは涙で滲んだ視界の向こうに、その白銀の髪を見つけた。
そして、少しだけ安心した。
祖父はいなくなってしまった、だが、自分にはユーナがいる。
幼い少年は、そのことを疑いもしなかった。
先王の葬儀から、さほど日が経たないある日のことだった。
ユーナは王に呼び出された。
今度の謁見は、最初の日よりずっと人が少なく、王と、数人の重臣、そしてジルディーンのみがその場にいた。
なぜ自分まで呼ばれたのか、少年には分からなかった。
父王は玉座からユーナを見下ろした。
「先王は、お前を我が血族として認めた。……だが先王はもういない。」
ユーナは黙って頭を下げた。
「改めて問う。」
父王の声が広間に響く。
「お前に、レグナリアの王位を望む意志はないのだな。」
幼いジルディーンにも、その問いが以前とは違うものだと分かった。
祖父という後ろ盾がなくなった今だからこそ、父は確かめている。
ユーナはしばらく父王を見つめ、やがて、穏やかに答えた。
「ございません。」
「お前にも王家の血が流れている。それでもか。」
「それでもです。」
ユーナの声は変わらなかった。
「私は王になるためにここへ来たのではありません。」
そして、ふとジルディーンを見る。
少年と青年の目が合った。
ジルディーンを見て、ユーナは微笑んだ。
いつも旅の話をしてくれる時と同じ笑顔だった。
それから青年は、ゆっくりと歩き出した。
玉座へではなく、ジルディーンの前へ。
「ユーナ?」
少年が呼ぶ声に答えず、その場で片膝をついた。
白銀の長い髪が肩から流れ落ちる。
アルカの使者である青年が、幼い王子の前に跪いていた。
ジルディーンはひどく戸惑った。
いつも自分と同じ高さまでしゃがんで話してくれる人だった。
王子扱いをしないわけではなかったが、こんなふうに臣下の礼を取られたことは今まで一度もなかったからだ。
「ジルディーン殿下。」
いつもとは違う呼び方だった。
「な、なに?」
ユーナは顔を上げた。青年は胸に手を当てた。その手の下、服の内側には、あの銀のペンダントがある。
「先王陛下より受けた恩にかけて。そして、私に流れるレグナリアの血にかけて、殿下が王位を継がれるその日まで、私はレグナリア王家に忠義を尽くします」
父王も、重臣たちも黙っていた。ユーナは続けた。
「そして殿下が王となられた後も、剣が必要なら剣となり、言葉が必要なら言葉となりましょう。」
そこで少しだけ表情を和らげる。
「ただし、間違ったことをなさった時には、お諫めすることをお許しください。」
重臣の一人が眉をひそめた。
父王は黙っている。
ジルディーンだけが、少し笑った。
「怒るの?」
「必要なら。」
「僕が王様になっても?」
「王様だからこそです。」
「父上にも?」
ユーナが一瞬だけ黙った。
重臣たちの間に微妙な緊張が走った。
「……必要であれば。」
父王が鼻を鳴らした。
ジルディーンは笑った。
「じゃあ、いいよ。」
王子は小さな手を差し出した。
少年は、臣下が王族へ忠誠を誓う正式な作法などまだよく知らなかった。
だからただ、いつも遊びに誘う時のように手を差し出した。
ユーナは一瞬、その手を見つめ、それから、とても大切なものに触れるように両手で包んだ。
「ありがとうございます、殿下。」
その時のユーナの顔を、ジルディーンは長く覚えていた。
どこか懐かしいものを見るような、奇妙に優しい顔だった。




