幕間Ⅰ saide王国の少年―アルカの青年―①
レグナリア王国の王宮には、幼いジルディーンがまだ足を踏み入れたことのない場所がいくつもあった。
王族の住まう宮殿でありながら、そのすべてが華美というわけではない。むしろ古い王国であるレグナリアの宮殿には、長い年月そのものを権威として纏ったような重々しさがあった。
磨き上げられた黒い石の床。高い天井を支える太い柱。壁には歴代の王たちの肖像と、今では使われなくなった古い王国紋章を織り込んだ色褪せた旗が並んでいる。
窓は細く、高い。
そこから差し込む午後の日差しは長い廊下の一部だけを明るく照らし、そのほかの場所には薄暗い影を残していた。
ジルディーンは、その影の中を小さな足で歩いていた。
まだ大人の腰ほどまでしかない少年である。
この国の王族としてふさわしい上等な衣服を身に着けている。幼いながらも背筋を伸ばして、ゆっくり歩くよう乳母や侍従から繰り返し教え込まれていたが、誰も見ていないところではすぐにその歩調が速くなる。
今日もそうだった。
「アルカの使者が来たらしい。」
朝から、宮殿のあちこちでその話を耳にしていたからだ。
《アルカ・パクシス》。
国から国へ渡り歩き、争いが起こればその間に立ち、時には王や領主にさえ意見をするという奇妙な者たち。
彼らはどこの国にも属さない。
どこの王にも仕えない。
それなのに七ヶ国のどこへでも現れる。
ジルディーンにとっては、物語の中の騎士や旅人と同じくらい遠い存在だった。
だから、見てみたかった。
どんな人間なのだろう。
大きな大剣背負っているのだろうか。恐ろしい顔をしているのだろうか。それとも、父王と同じくらい立派な衣装を着ているのだろうか。
好奇心に負けた少年は侍従の目を盗み、謁見の間へ続く回廊までやってきた。
扉は閉じている。
しかし、脇にある控えの間へ続く狭い通路の存在を、幼いジルディーンは知っていた。
そっと控えの間に近づいたところで、中から父王の声が聞こえた。
「――アルカの使者が、我が国に何用だ。」
いつもより低い声だった。
ジルディーンは足を止めた。
扉の隙間から、そっと中を覗く。
広い謁見の間の奥、高く設けられた玉座には父王が座っていた。
その下段には側近たちが並び立っている。
そして、玉座から離れた場所に一人の青年が立っていた。
ジルディーンは思わず瞬きをした。
その人物の姿は、想像していたものとはまるで違っていた。
青年は長い白銀の髪を持っていた。
窓から入る光を受けるたび、その髪は雪のようにも、磨かれた銀のようにも見えた。背中まで届くそれを一つに結んでいる。
アルカの使者らしい旅装ではあったが、華美なところは何もない。
腰には剣を帯びていたが、その剣より先に目についたのは青年の穏やかな顔だった。
怖くない。
少なくとも幼いジルディーンにはそう見えた。
青年は父王から疑いの眼差しを向けられているにもかかわらず、困ったようにほんの少し眉を下げただけだった。
「陛下のお疑いはもっともです。」
声も穏やかだった。
「ですが、本日は《アルカ・パクシス》の使者として参ったわけではありません。」
「では何だ。」
青年は少し黙った。
それから胸元へ手を入れる。
側近の一人がわずかに身構えた。
だが青年が取り出したものを見た途端、室内の空気が変わった。
銀色の鎖、その先に、小さなペンダントが下がっている。
「それは……」
誰かが呟いた。
ジルディーンにも見覚えがあった。
同じものを持っているからだ。
現在王家が公に用いている紋章とは異なる。
もっと古い、王国がまだ小さな一地方国家だった頃から伝わるとされる紋章。
王冠と、その下で交差する二本の剣。
それを身につけることが許されるのは、レグナリア王家の血を引く者だけだった。
青年はそのペンダントを両手で持ち、父王へ示した。
「これは母から託されたものです。」
「母?」
「はい」
青年は一度、目を伏せた。
「私の母はエルフでした。そして――父は先代のレグナリア王であると、母から聞いております」
その瞬間、室内がざわめいた。
ジルディーンには、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
先代の王。
それは、つまり――
少年は玉座の近くに座っている老人へ目を向けた。
父王の座る玉座に最も近い豪奢な椅子。そこに座るのは王座を父に譲った祖父だった。
その祖父も、青年を見つめていた。
いつもジルディーンに菓子を与えて父王から叱られている祖父とは思えないほど、真剣な顔だった。
「名は。」
祖父が尋ねた。
青年は老人へ向き直った。
「ユーナと申します。」
祖父の表情がわずかに揺れた。
青年――ユーナは静かに続けた。
「母は、私がまだ幼い頃に亡くなりました」
その声には、不思議なほど悲しみを押しつける響きがなかった。
ずっと昔の出来事を語るような、静かな声音だった。
「身寄りを失った私は、その後、奴隷商に捕らえられました。」
ジルディーンは息を呑んだ。
奴隷というものが存在することは知っていた。
だが、それは少年にとって王宮の外にある遠い世界の話だった。
目の前の穏やかな青年と、その言葉がうまく結びつかない。
「それから、いくつかの土地を転々としました。幸運だったのは、私に少しばかり変わった力があったことです」
「変わった力?」
父王が尋ねる。
「治癒の術です。」
今度こそ、側近たちが大きくざわめいた。
エルフの血を引く者すべてが、人ならざる術を使えるわけではない。
まして傷や病を癒やす力は、エルフの中でさえごく一部の者にしか現れないとされていた。
「偶然、旅の途中だったアルカの使者が私の力に気づきました。その方に奴隷の身から救い出され、私は《アルカ・パクシス》へ連れて行かれました」
ユーナはそこでわずかに笑った。
「ですから、私にとってアルカは故郷のようなものです。文字も、剣も、世の中のことも、そこで教わりました。」
「ならば、なぜ今になってレグナリアへ来た。」
父王の問いは厳しかった。
当然だ、とジルディーンにも分かった。
王家の血を引く者が、突然現れたのだ。
それも、エルフの血と稀有な術を持ち、《アルカ・パクシス》に育てられた青年が。
ユーナは怒らなかった。
「このペンダントの由来を知ったのは、アルカで暮らすようになってからです。」
指先で銀の紋章を撫でる。
「いつか、一度はこの国を見たいと思っていました。母が最後まで捨てなかったものが、どのような国なのか。」
それから、青年は真っ直ぐ父王を見た。
「今更、王族として遇していただこうとは思っておりません。王位にも、領地にも、財にも興味はありません。」
「口では何とでも言える。」
側近の一人が冷たく言った。
ユーナはその男にも頭を下げた。
「おっしゃる通りです」
あまりにも素直に認めたので、逆に男のほうが言葉に詰まった。
「ですから、信用していただけるまでは何も求めません。ただ――」
ユーナの手が腰の剣へ触れた。
敵意のある動作ではない。
長年連れ添った道具を確かめるような、ごく自然な仕草だった。
「剣だけは、それなりに使えます」
「それなり、か」
それまで黙っていた祖父が、そこで初めて笑った。
「アルカの使者が言う『それなり』ほど信用ならぬ言葉もあるまい。」
ユーナも少し笑った。
「では、少しだけ自信があります。」
「ほう。」
「かなり、でも構いません。」
祖父は声を立てて笑った。
父王は難しい顔をしていた。
けれど祖父は、しばらくユーナを見つめたあと、静かに立ち上がった。
「こちらへ来い。」
「先王陛下。」
側近たちが止めようとしたが、老人は手だけでそれを制した。
ユーナが近づく。
そして祖父は、長い間その顔を見つめていた。
失われた昔を、そこに探すように。
やがて老人の手が上がった。
ユーナがほんの少し身を強張らせたことに、幼いジルディーンだけが気づいた。
叩かれると思ったのだろうか。
だが祖父の手は、青年の肩へ置かれた。
「よく来た。」
ユーナが目を見開いた。
「遠かったであろう」
「……はい。」
「そうか。」
それだけだった。
だがユーナはしばらく何も言わなかった。
やがて深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その日から、ユーナは王宮で暮らすことになった。




