第三章 saide白銀の髪の少年―拠点にて―⑥
ジンはユーナに飲ませるために水を用意した。
「ユーナ。水、飲めるか。」
ユーナが薄っすらと目を開け、枕もとのジンを見る。
「……はい。飲めます。」
答える反応が遅い。起き上がろうとしてふらついた。
ジンがすぐに幼い身体を支えた。
「無理するな。俺が飲ませてやるから。」
でも、と戸惑うユーナを片手で支え、器を口元へ運んだ。
ユーナは素直に飲んだ。息をついてもう一口。
ラウルはその様子を黙って見ていた。
ジンの手つきは不器用だったが、とても丁寧だった。
「師匠、すみません。」
熱でぼんやりとしたユーナが呟くように言う。
ジンが眉を寄せる。
「何を謝る。」
「師匠の役に立てていません。」
傍で聞いているラウルの胸が重くなった。
ジンはユーナの髪を撫でる。それからゆっくりと答えた。
「役に立つ必要なんてない。お前は、ただ、ここにいればいい。……とりあえず、今日はよく寝ろ。いいな。」
その声が、熱に苦しむ少年に正しく届いたかどうかは分からない。ただ、少年は「はい。」と答えて目を閉じた。
少しして、寝息が聞こえだした。
「ジン。」
ユーナが眠ったことを確認して、ラウルは声を落としてジンに聞いた。
「お前、あの子のこと大事にしてるんだな。」
ジンは眠るユーナの枕もとに座り、その寝顔を見ながら答えた。
「弟子だからな。」
「……それだけか?」
ジンは答えなかった。部屋の隅で壁にもたれて腕を組んでいるラウルを見た。
一方で、ラウルはユーナを見る。
寝台に寝かされているユーナの胸元から、銀のペンダントが覗いていた。あれは以前、ジンが身に着けていたものだ。彼の大切な人からもらったもので、とても大事にしていた。
そのペンダントを少年に与えたその意味を、確かめなくては、と思った。
ラウルは慎重に言葉を選んで尋ねた。
「彼とこの子を、重ねてるのか。」
ジンはまた、ユーナの寝顔に視線を落とす。
「……重ねてないとは言わない。」
低い声で答えた。
「こいつの、ふとした仕草で、あの人を思い出すこともある。」
ジンの声に懐かしさと哀しみが混じる。
「……最初は、借りを返すつもりでこの子を探した。でも、この子としばらく旅をして……今は、この子が自分で考えて行動して、自分の意志で生き方を選んで、生きててくれたら、それでいい。と思ってる。」
考えながらゆっくりと紡がれたその言葉に、ラウルは安心した。ジンの傍の椅子に座る。
「わかってるならいい。」
そう言ったラウルをジンが見やった。
「実は少し心配していたんだ。お前がこの子に、彼を押し付けるんじゃないかって。」
その言葉にジンは少し目を見開いてから、顔を伏せた。
「……俺も心配している。」
ジンにしては珍しく、自信のない小さな声だった。
ラウルは驚いて「お前が自分を疑うなんてな。」と呟く。
ジンは苦笑して言った。
「この件に関してだけは、な。」
それ以上はラウルもジンも、何も言わなかった。
ラウルはさっきまで慌てていたジンの姿を思い出しながら、もう一度ユーナの額に触れるジンを眺めていた。
明け方、ユーナの熱はほとんど下がった。
ジンは結局、一睡もしなかった。ラウルも途中まで起きていたが、さすがに少し眠った。
やがてユーナが目を覚ました。師匠、と呼ぶ声に枕もとのジンが応えて、声を掛ける。
「身体の具合はどうだ。」
ユーナは考えてから答えた。
「頭が少し重いです。」
おや、とラウルは思った。昨日まで自分の体調が分からないと答えていた子供が、ちゃんと考えて不調を伝えることができている。
ジンは少し嬉しそうに表情を柔らかくする。
他には?とジンに聞かれて、ユーナはまた少し考えてから、「喉が痛いです。……でも昨日よりは楽です。」と答えた。
ジンはそうか、と応えてユーナの頭を少々乱暴に撫でた。だが、その動きはユーナの次の言葉で固まる。
「師匠は、昨夜寝てないんですか?」
「……ああ。」
「どうしてですか?」
気まずそうにそっぽを向いて答える。
「お前の看病以外の何があるんだよ。」
ユーナが驚いてジンを見上げた。その目にはちゃんと感情が浮かんでいた。驚き、戸惑い、そして安心。
ユーナがおずおずと「ありがとうございます。」と言うと、ジンは困った顔をして「礼はいいから、もう少し寝てろ。」と言った。
ユーナはもう一度目を閉じた。
それから寝台に置かれていたジンの手に自分から手を伸ばして、彼の指の先を遠慮がちに握った。
ジンは一瞬固まって、それからそっと握り返した。
ラウルはその一部始終を見て、「……なるほどな。」と小さく呟いた。それから立ち上がって、窓の外を見る。朝日が村の屋根を照らし始めていた。
ユーナについての報告を目にした時から、ラウルはずっと心配していた。ジンに九歳の子を育てられるのか。生活力がなく、酒を飲み、賭け事に興じ、人付き合いも下手。その上、子供の熱一つで大慌てする男。
普通なら、師匠としてかなり不安な人間だ。
だが、ユーナの体調の悪さには誰より早くに気づいた。
ユーナが自信が自分でも認識していない不調に、一瞬で。
そして、それを見つけた途端、必死に看病した。
ユーナもまたジンを完全に「安心できる人」と理解してはいない。
命令だから従う、役に立たなければならない。
そんな奴隷時代の感覚はまだ色濃く残っている。
それでも、昨日より今日、今日より明日、そうやって少しずつ変わっていくのだろう。その証拠に、さっきユーナは自分からジンの手を握った。
命令されたからではなく、自分の意思で。
……まあ、しばらく目は離せないがな。
ラウルは静かに笑った。
この二人は、まだ不器用で、まだ距離の測り方も分からなくて、まだ何度も失敗するだろう。
ジンはユーナを心配しすぎるし、ユーナはジンの役に立とうとしすぎる。嚙み合わないこともあるだろう。傷つけ合うこともあるだろう。
それでも、ジンはユーナの異変を見逃さない。ユーナは少しずつジンのそばで、自分の感情を覚えていく。
なら、ラウルにできることは、そんな二人を必要な時だけ支えることだ。
「—―ラウルさん。どうしました?」
その声でラウルの意識は現在へ戻った。
目の前の十二歳のユーナが、不思議そうにラウルの顔を覗き込んでいた。
ラウルは笑う。
「いや、昔のことを思い出していただけだ。」
昔?と首を傾げるユーナに「三年くらい前。」と告げると、ジンが嫌そうな顔をした。
「余計なことを思い出すな。」
「何を思い出してたかなんて、お前にはわからんだろ。」
「顔でだいたい見当がつく。」
ラウルはにやりと笑う。
「お前が子供の熱でそりゃあ、うろたえて――」
ジンが「ラウル」と焦ったように声を上げて遮る。
ユーナは目を丸くして、師匠が?とラウルに興味深げに聞く。自分の話だと分かっていない顔だ。
しかしジンはユーナにじろりと視線を向けると、「聞かなくていい。」と顔をしかめて言う。
「気になります。」
「気にするな。」
「ラウルさん。」
ユーナはジンを無視してラウルに続きを促す。
「聞くなって!」
ラウルが笑う。ユーナも笑った。
ジンだけが不機嫌そうな顔のまま、杯に手を伸ばす。その手をユーナが止めた。
「師匠。もう駄目です。」
「この一杯で終わりにする。」
「さっきもそう言ってました。」
「人は変わるもんなんだよ、ユーナ。」
「悪い方向に変わらないでください。」
ラウルはまた笑った。三年前、自分の感情すら分からなかった少年が、今は師匠に小言を言っている。
「お前たち二人とも、今日は帰れ。」
ジンがラウルを見て「お前までユーナ側かよ。」と愚痴る。
「任務から帰還した次の日くらい、家でゆっくり休め。」
ユーナが立ち上がり、師匠の腕を引っ張る。
「帰りましょう、師匠。」
ジンはため息をついて弟子に従った。
「ちゃんと歩けますか。」
「酔ってねえって。」
二人が酒場を出る。
夜のはじめ。森の村には柔らかな橙の光が溢れている。
並んで歩く二人の背中をラウルは眺めた。九歳だった頃より、ユーナはいくぶん背が伸びた。それでもまだ小さい。
しっかりしているが、彼はまだ十二歳だ。
そしてジンも、抱えた秘密をまだユーナに話していない。
ジンからユーナに渡された、あの銀のペンダント。あのペンダントについてジンがユーナに話す時が、いつか来るのだろう。
ユーナはそれを聞いてどう受け止めるのだろうか。
心配の種は尽きない。だが、話すべき時が来れば、ジンは話す。今はたぶん、それでいい。
アルカの使者に長い休息はない。
明日、新しい任務が入るかもしれない。どこかで争いが起きるかもしれない。
国境で異変があれば、彼らはそこへ行く。
だからこそ、こういう時間は大切なのだ。
何も起きない時間。くだらない会話。
昼間から酒を飲む男と、それを叱る弟子。昔からの仲間が、その光景を見ながら笑う。
それでいい。
「……ゆっくり休めよ。」
ラウルは小さく呟いた。任務と任務のほんの短い、ささやかな休息。せめて今は、その時間を二人に満喫させてやりたい。
森の奥で時を告げる鐘が鳴る。〈アルカ・パクシス〉の村に、穏やかな夜が訪れようとしていた。




