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第二章 saide白銀の髪の少年―過去の影―⑬

 ジンが駆けつけた時には、ユーナは意識を失っていた。

 倒れて動かないユーナを認識した瞬間、ジンの顔から表情というものが全て抜け落ちた。それまで浮かべていた、焦りも、怒りも、全てが、消えた。


 しゃがんで、ユーナの名前を呼びながらそっと、少年の身体を抱き起す。

 首に指をあてて、脈を確かめた。口元に手をかざし、胸の動きを見て呼吸を確認した。

 額を、瞳を。確認する手つきは素早くしっかりしていた。

 しかし、ユーナの名を呼ぶその声は、あらゆる感情を押し殺したもののように聞こえた。


 呼びかけに返事はない。しかし、確かに生きている。消耗が激しいだけだ。

 それが分かると、ジンは肩からほんの少し力が抜けた。

 ジンがゆっくり顔を上げて傍らのランジールを見据えた。


 あらかたの襲撃者を制圧し終え、ランジールとユーナのもとに駆け付けようとしていたアルバは息をのんだ。

 ユーナを抱えて、ゆっくりと顔を上げた、ジンの表情。

 恐ろしいほどに何の感情も浮かんでいなかったその瞳が、ランジールを見据えた途端に冷たい怒りを宿したのが、遠目からでも分かった。


 ジンが問う。

「お前、こいつに、何をした。」

 ランジールが後ずさった。

「わ、私は治療を命じただけだ!」

 声は無様に上ずっていた。反対にジンの声はどこまでも静かだった。しかしその静かさの裏には確かな怒りが隠されている。

「何て言った。」

「だから治せと――」

「それだけじゃねえだろ。」

 その低い声に、ジンのそばまで追いついたアルバも、近くにいた騎士も思わず身体を硬くした。


 今、ジンは剣を持っていない。

 それなのに、先ほど襲撃者と戦っていた時より遥かに恐ろしく見えた。

 問われたランジールはジンの目から逃れるように視線をそらした。

 アルバの胸に嫌な予感が走った。

「ランジール様、何を仰ったのです。」

 ジンに無言で問い詰められ、アルバに促され、ようやくランジールは答えた。

「お前は奴隷なんだから命令に従え、と……」

 ランジールは途中で言葉を止めた。

 ジンの目を見たからだ。

「誰が奴隷だって?もう一回行ってみろ。」

 ジンはユーナを片腕で抱き上げたまま立ち上がり、ランジールに迫る。

 ひっ、とランジールが短い悲鳴を上げた。ジンの剣幕に完全に血の気が引いている。

 アルバも思わず剣に手が伸びる。


 今まで、ジンが本気で怒ったところを見たことがなかった。

 地下室の奴隷商に対しても、領主館でのランジールの態度に対しても、彼が怒りをあらわにすることは無かった。

「こいつには名前がある。」

 静かな声だった。

「意思もある。お前の命令を聞く義務なんかねえ」

 ジンがユーナを抱えたまままた一歩、ランジールに近づく。

 そして、腕の中のユーナを見る。呼吸はあるが、意識はない。顔色は青白い。

 ジンの表情が一瞬だけ歪んだ。

 それからランジールを見て言う。

「お前、もし、こいつに何かあったら――」

 そこまで言って、ジンは言葉を飲み込んだ。

 何を言うつもりだったのか、アルバには分からない。

 しかし、最後までその言葉を紡がなかったのは、アルカの使者としての理性が止めたからだろう。




 その時だった。

「ランジール!」

 その場に鋭い声が響いた。

 十数人の馬に乗った一団が道の向こうから現れる。

 一団の中心にいるのは、病で伏せっているはずの領主本人だった。

 顔色は悪く、ひどく痩せている。咳き込みながら、それでも気丈に馬から下り、弟へ近づく。


 座り込んだままのランジールが、呆然と兄を見上げる。よろよろと立ち上がり、兄上、と何かを言いかけた瞬間に、「黙れ!」という怒声と共に平手が飛んだ。

 ランジールが頬を押さえてよろめく。周囲の騎士たちが一瞬ざわめいた。

 付き添いの騎士が慌てて駆け寄り、痩せた体を支えようとするのを制して領主は弟を睨みつけた。

「館の者から聞いたぞ!奴隷商の件も、お前がこうして勝手に視察に来たことも!お前に領地を任せたのは、私が動けない間に民衆の声を聴き、政務を代行させるためであって、好き勝手振舞わせるためではない!」

 ランジールは唇を震わせ、しかしと反論を試みるが、兄の剣幕に黙り込んだ。

「我が領内で攫われた子どもが違法に売られていたのだぞ!他国の貧民だからといって放置する理由にはならない!対応を間違えればアルヴェインとの戦争になるのだぞ!」

 怒りにまかせた大声のために、領主は大きく咳き込んだ。しかし続ける。

「そのうえアルカの使者と揉め事を起こすとは!どういうことだ!」


 もはやランジールは何も言えない。

 黙る弟から視線を移した領主は、ジンの腕に抱えられたユーナに目を向けた。

 その子は……とジンに問いかけるような顔を向けた。

 ジンは短く答えた。

「治癒術の使い過ぎで倒れた。……弟気味に命令されてな。」

 もともと悪かった領主の顔色がさらに青ざめた。

 アルバが付け足すように口を開いた。

「ランジール様は、ユーナ君が元奴隷であることを利用して、治療を続けさせました。」

 領主が冷めた目で、ゆっくりと弟を睥睨した。

 ランジールは俯いて何も言えない。


 見切りをつけるように弟から顔を背けた領主は、ジンへ向き直り深く頭を下げた。

「申し訳ありません。弟の行為は、領地を預かる私の責任でもあります。」

 ジンは何も言わない。

 それでも領主は続けた。

「保護されたアルヴェインの子供たちは、我が領地が責任をもって丁重に送り届けます。また、拘束した奴隷商についても捜査し、アルヴェイン側が必要とする者については引き渡す用意があります。」

 ジンがじっと領主を見つめる。

「その旨をアルヴェインの領主殿へ伝えていただきたい。」

 長い沈黙があった。

 ジンの怒りは消えていない。

 だが、今ここにいるジンは、ユーナの師匠という立場だけではなく、〈アルカ・パクシス〉の使者という立場も背負っている。

 ジンは一度目を閉じた。怒りを呑み込むかのように。感情を押し込めるかのように。

「……承知した。」

 そうして答えた声は、先ほどまでのユーナの師としての物ではなく、〈アルカ・パクシス〉の使者としての声だった。

「〈アルカ・パクシス〉の使者として、その申し出を仲介する。」

 声は静かだった。領主がもう一度頭を下げる。

 ジンは、失礼する、とだけ告げるとユーナを抱え直してその場を去った。


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