第一章 saide白銀の髪の少年―逃げ出した若君―①
ベルネシュ自由連合王国の西部から北上する大街道は、王都から離れるほどに、その様相を変えていく。
王都近郊では何台もの馬車が並んで走れるほど広かった石畳も、地方へ向かうほどに細くなり、やがて車輪と馬の蹄に踏み固められた土の道へと変わる。
固い土で出来た道の両側には夏の陽光を浴びた麦畑が広がり、その先には葡萄畑が、さらに北に進んだ先には緑の映える森林と緩やかな丘陵が連なっていた。
その丘の上には小さな城館や監視塔が見える。この丘が領地の境目なのだろう。それぞれ異なる紋章旗を風になびかせていた。
ベルネシュ自由連合王国は「自由連合」の名の通り、古くから土地を治める大小の領主たち、自治権を認められた都市、騎士団、商業組合がそれぞれ大きな権限を持ち、その上でベルネシュ王家を盟主として結びついている国であった。
特に商業組合が大きな力を持ち、大陸でも有数の商業都市を抱えた、七国の中で最も商業が発達した国であった。
しかし、交易と交通の盛んな豊かな国である一方、領主同士の利害が衝突することも珍しくなかった。
ベルネシュを北上し、さらに北の国境を越えれば、ローグレン王国がある。
ローグレン王国は大陸の最北端に存在する、アルヴェイン連邦王国に次ぐ広大な面積を有する大国である。一年の半分が雪に覆われている地方もあり、自由で開放的なベルネシュの気風とは対照的に強い王権と騎士制度を備えている。
ローグレンの地方領主にも大きな力はあるが、その序列は厳格であり、城塞都市や国境砦には王家への忠誠を誓った騎士たちが駐屯していた。
この隣り合った二つの王国は現在こそ和平を結んでいるが、長い歴史を振り返れば、その国境線は何度も血で塗り替えられてきた。
――などということを、乗合馬車の荷台で揺られるたびに、不機嫌に尻をさする少年は、ほとんど考えていなかった。
「……尻が痛い。」
土の塊を車輪が乗り越えたはずみに大きく馬車が揺れ、尻をさすっていた少年、ロナンは呟いた。
今年の春に十七歳を迎えた彼は、明るい茶色の髪と、いかにも育ちのよさそうな顔立ちをしていた。
身に纏うのは旅用には上等すぎる仕立てのいい上着、そして泥のついていない革靴を履いている。
本人に自覚はなかったが、彼の姿は地方の乗合馬車の乗客の中でこれ以上なく浮いていた。そして彼自身も、残念なことに乗合馬車というものにまったく慣れていなかった。
車輪が石を踏み、再び馬車が大きく揺れた。
「いっ……!」
痛む尻を庇ったロナンの身体が大きく跳ねた。
向かいに座る羊毛商人の老人が、ちらりとロナンを見た。しかし、ロナンの上等な装いに、面倒事の匂いを嗅ぎつけたのか何も言わずに目を逸らした。
何となく恥ずかしくなったロナンは何でもない顔を装い、背筋を伸ばした。
今まで彼が利用していた領主家の馬車ならば、こんな尻の痛みに悩まされることなはなかった。
座席には厚い布が何枚も重ねて敷かれていたし、御者は揺れを極力抑えて馬車を走らせたし、休憩のたびに茶まで用意されていた。そもそも道は石畳で舗装され、こんな土くれや石の転がる道を通ることはなかった。
だが、今、ロナンが乗っているのは平民が利用する乗合馬車だ。
荷台には商人や農民、旅の楽士など十数人が肩を寄せ合っていた。
汗の臭いに干し草の臭い、さらには積み荷の魚の臭い。様々な匂いがまじりあって荷台は快適とは言い難い空間だった。
それなのに、ロナンは少しだけ誇らしさを感じながら、馬車に揺られている。
自分は今、父の庇護を離れ、自分自身の力で旅をしている。
これが自由というものなのだ。
と、そう思っていた。
「師匠、少し詰めてください。」
尻の痛みに耐えながら感慨に浸っていたロナンの耳に、不意に少年の声が届いた。
ロナンが顔を上げる。
荷台の反対側、ロナンの向かいに、白に近い銀髪の少年が立っていた。どうやら、隣に座る男に向かって声を掛けたようだ。
少年はまだ十二歳ほどだろうか。小柄な身体を質素な旅装に包み、腰には短剣を帯びている。馬車が揺れた拍子に、少年の上着がずれて首から下げられた銀色のペンダントが一瞬だけ覗いた。
彼は北部国境付近へ向かう馬車を待つ待合所から、ロナンがこの馬車に乗った際に、一緒に乗り込んできた乗客だった。馬車の御者には、確かユーナと名乗っていた。少年の隣に座っている男――ジンと名乗っていた――の連れだったはずだ。
少年に師匠と呼ばれた男、ジンは三十代半ばほどに見えた。
伸ばしかけらしく肩につく長さのざんばらの髪に、無精髭の浮いた顔には旅の疲れよりも、昨夜飲み過ぎた人間特有の気怠さが見える。ロナンはさらに向かいに座るこの男を観察した。
くたびれた外套に腰には剣。荷物の隙間からは酒瓶が覗いている。
どう見ても、まともな人物には見えない。
「何で?」
ジンが面倒そうに隣に立つユーナを見上げて尋ねた。
「こちらのおばあさんが座れません。」
ユーナは荷台の端で薬草籠を抱えた立つ老婆を掌でしめして答えた。
「私ならいいんだよ。坊や。」
「でも、さっきからずっと立っていますよね。」
慣れてるから大丈夫だよ、と笑顔で答える老婆に、それでもユーナは首を振る。
「馬車が揺れたら危ないです。」
そう言って、ユーナは柔らかく笑って立ち上がり、空いたスペースに老婆を座らせようとした。
「僕は立っていられますから。」
「ユーナ。」
そのやり取りを黙って眺めていたジンが呼ぶ。
「はい?」
「お前が立ったら意味ないだろ。」
「でも……」
「俺が詰める。」
そう言って、ジンは足元の荷物を乱暴に持ち上げ、できるだけ荷台の端によって座りなおした。
「ほら、婆さん」
「悪いねえ」
「礼ならそいつに言ってくれ。俺はこいつに言われて動いただけだ。」
老婆が笑顔で頭を下げた。
ユーナも少しだけ笑った。そして隣に座る男を見上げて言う。
「ありがとうございます。」
「何でお前が礼言うんだ」
片眉をひょいと上げて、ジンが不審げに首を傾げてユーナを見下ろした。しかし次の瞬間、ユーナの答えを聞いた途端にその顔は苦いものを飲み込んだような何とも言えない表情へと変わった。
「師匠がちゃんと人に親切にしてくれたので。」
「……お前、俺を何だと思ってんだ?」
しばらくして。
今度は母に抱かれた幼い少女が、荷台の揺れに耐えきれず泣き始めた。
少女を抱えた母親が小声で何事か話しかけながら、必死に娘をあやしたが泣き止まず、困り果てている。
母子の周囲に座る大人たちの中には、少女の甲高い鳴き声に眉をしかめだす者もいた。 決して快適とは言えない馬車の荷台で揺られ続け、皆疲れがたまっているのだ。
その様子を見ていたユーナは、肩に掛けている自分の鞄を探った。
取り出したのは、油紙に包まれた小さな蜂蜜菓子だった。そして、素早く席から立ち上がると、揺れる馬車の中でうまくバランスを取りながら母子のもとへ移動し、二人の前でかがみ込む。そうして、優しく笑いかけながら、少女に向かって菓子を差し出した。
「これ、どうぞ。」
少女が泣き止む。差し出された菓子と、ユーナの顔を交互に見て、
「いいの?」
と、まだ震える声で訊ねた。
「もちろん」
ユーナは笑みを深めて少女に菓子を握らせた。少女は嬉しそうに油紙をはがして菓子を口に入れた。
少女の母親がユーナに深々と頭下げるのに、ユーナも笑顔のまま軽く会釈を返す。そしてするりともとの座席に戻って来た。
「ユーナ」
ユーナが座席に腰掛けたのを見計らったようにジンが彼を呼ぶ。
「はい?」
ユーナがジンを見上げる。
「それ、俺が後で食うって言ってたやつ。」
「……師匠は大人でしょう?」
「大人だって甘いもん食ことぐらいあるだろ。」
「また買えばいいです。」
「俺の金で?」
「師匠のお金で。」
「横暴だ。」
口では文句を言ってはいたが、ジンは特に起こった様子もない。ユーナの方もそれを分かっているのだろう。
ロナンはその様子を眺めていた。
不思議な二人だった。
親子――ではないだろう。顔が似ていない。
年齢だけなら親子でもおかしくないが、ジンには父親らしい威厳というものが欠片もない。
兄弟にしては年が離れすぎている。
主従にも見えない。ユーナはジンに敬語を使うが、主人に対する態度にしては遠慮がなかった。
それに、ユーナはジンを「師匠」と呼んでおり、二人とも腰に剣を帯びている。
ならば考えられるのは、剣士と、その弟子。
そうだ、これならしっくりくる。きっと二人は旅の傭兵か何かなのだろう。と、そう思った。
「師匠、水です。」
また、しばらくして。鞄を探っていたユーナが突然ジンに水袋を差しだした。ジンはたぷんと音のする水袋を一瞥してからごく端的に答えた。
「いらん。」
ユーナは水袋を差したまま、でも、と続けた。
「朝から飲んでいません。」
「酒なら飲んだ。」
「だからです。」
「水より酒のほうが高級だぞ。」
「そういう問題ではありませんし、これ以上酒を飲むと師匠は酒臭くなります。周りの人たちの迷惑になります。」
本当に遠慮のない物言いだった。ジンは遠い目をして言う。
「……ユーナ。」
「はい。」
「弟子は師匠にもう少し優しくするもんだ。」
ユーナは不思議そうに首を傾げた。
「十分優しくしていますが。」
ジンが弟子を胡乱な目で見返す。
「どこが?」
「酒を飲んだ師匠を放置していません。」
「……。」
「昨日も酔いつぶれた師匠を、宿まで連れて帰りました。」
ジンは大真面目に答えるユーナを見つめて。それから、目をそらした。
「もういい。」
どうやら、生活面では少年のほうが師匠のようだった。
まったく。だらしのない男だ。
二人のやり取りを、ロナンは鼻で笑った。
その小さな笑いを、ジンは聞き逃さなかった。
向かいに座ったロナンを見て、皮肉気な笑いを浮かべた。
「何だ、お坊ちゃん。尻はもう大丈夫なのか。」
その言い草にロナンはむっとして反論する。
「誰がお坊ちゃんだ!」
「自覚がないとは恐れ入った。……自分の格好を見てみろ。」
なんだ。どこかおかしなところでもあるのか。
ロナンは自分の格好を見下ろす。上着も革靴も、身に着けているものはどれも、今回の旅のために用意した特別製だ。何もおかしなところなどない。
「なんだ。僕の格好がどうかしたか。」
ジンはひょいと肩をすくめて言った。
「一目で金持ちだってわかる格好だ。」
ロナンはこぶしを握り込んだ。せっかく自由を味わっていたのに、水を差されたように感じた。目の前の男を睨みつける。
「……悪いか。」
精一杯睨みつけたのに、ジンは全く動じていない。
「別に。悪くはない。」
ただ――と続けられたその言葉は、思いのほか真剣な声音で紡がれた。
「ただ、旅先ではその身分は隠したほうがいい。」
「なぜだ。」
「襲ってくださいって看板、ぶら下げて歩くようなもんだからだ。」
なるほど。ジンの忠告は世間を知らないロナンにも納得できるものだった。しかし、いかにもろくでなしな男からの忠言に、ロナンは悔しくなって唇をかんだ。そして、虚勢を張って男の言葉を鼻で笑ってやった。
「余計なお世話だ。」
そんなロナンの態度を一瞬だけ見つめて、ジンは興味を失ったように視線を外した。
「……なら聞き流せ。」
それだけ言って、腕を組んで目を閉じた。
それまで、ロナンとジンのやり取りを静かに見ていたユーナがジンの上着の裾を引っ張った。
「師匠。」
「今度は何。」
「寝るんですか。」
「寝ない。」
「目を閉じています。」
「考え事だ。」
「さっき鼾が聞こえました。」
「あれも考え事だ。」
ユーナは小さくため息をついた。
暫くして、ロナンの向かいでジンは、鼾をかいて眠っていた。
ロナンは呆れて男の顔を眺めた。
本当に何なんだ、この男。
あと一刻ほどで国境近くの宿場町に着くころ、馬車はその低い木立の続く道に差し掛かった。ロナンは荷台から周りの景色を眺めながら胸元に手を当てた。彼の上着の内側には一つの革袋が隠されている。そこに入っているのは銀の印章だった。
ロナンの父は、ベルネシュ自由連合王国西部の一領を治める領主だった。ロナンの胸元に隠されている銀印は、その父が政務で公文書に使用する正式な領主印である。
ロナンはこの印を、こっそり父の書斎から盗み出した。いや、ロナンの中では「盗んだ」という意識はない。領主家のものを、領主家の跡取りが少しの間「持ち出した」だけだ。そんなふうに思っていた。
数日前に、領主である父とロナンは口論になった。
父の執務室に押しかけ、今後の領地の統治について意見を述べたロナンに、父は迷惑そうな態度を隠しもしなかった。ロナンは執務机に腰掛けて、書類に目を通す父に詰め寄った。
『僕はもう十七です!』
『だから何だ。』
『いつまで僕を何もできない子供扱いするんです!』
『領地の税収すら把握していない人間を大人とは呼ばん。』
『そんなものは家令がやればいい!』
『ならばお前に領地は任せられん』
父はロナンの言葉に耳を傾けないばかりか、書類に視線を落としたまま、ろくにロナンの顔を見ようともしない。
いつもそうだ。
父はロナンの言葉を否定する。ロナンのことを見もしないで。
『僕にだって考えがあります!』
『考えがあることと、その考えが正しいことは別だ。』
ロナンの言葉をすべて否定する父の態度に、ここ数年の不満が一気に爆発した。
『父上は僕を信用していない!』
ロナンの叫びに、父が黙った。
その反応が、ロナンには肯定に思えた。
父は自分を信用してくれない。見てもいない。
だから屋敷を出る決意をしたのだ。
屋敷を出る計画はずっと以前から立てていた。その計画を実行に移すのに、きっかけを作ったのは隣国ローグレン王国の、とある有力領主だった。
領地の近いその領主とは宴席で数度顔を合わせたことがあった。父の態度に不満を持ち始めた頃のある日の宴席で、その領主とたまたま二人きりで話す機会があった。
『君は聡明だ』
その時、彼は優しい笑顔でロナンにそう言ったのだ。
初めてだった。その人は初めて自分を見て、自分を評価してくれた大人だった。
『君の父上は慎重すぎる。』
『そうなんです。』
『きっと怖いのだろうな。』
『……怖い?』
『君が、父君よりも優秀だから。それを認めるのが怖いのだろう。』
その言葉が嬉しかった。だから、信じた。
『本当に自立したいならば、どうかね、私のもとへ来る気はないか。』
この人ならば、自分を正しく評価してくれる。
その領主はさらにこう言った。
『その際、君が父上の後継者である証が欲しい。』
『証?』
『領主印だ。それを持って私の領地へ来なさい。』
領主印を持ち出す……?
一瞬だけ迷った。ロナンのその迷いを見抜いたように、領主は嗤って言う。
『いずれ君が受け継ぐ物ではないか。』
そうだと思った。
あれは、いずれ自分の物になる。
それにあれは領主家の物だ。領主家の物を、領主家を継ぐ者が少し早く手にするだけだ。
返そうと思えばいつでも返せる。
その考えが、国と国を争わせるほど危険な行為だと、その時のロナンは、まだ理解していなかった。
ロナンが今までの出来事を反芻していたころ、その向かいで。
「……ユーナ。」
鼾をかいていた筈のジンが、目を閉じたまま、小さく呼んだ。
「はい。」
「まだいるか。」
何が、とは聞かない。師の言葉に、ユーナは荷台から外を見る。
低い木立の、その向こう。木々の合間に見えるもの。
「います。」
ユーナの声が少し低くなる。
「少なくとも五人。さっきから同じ距離です。」
「そうか。」
ジンの答えはそれだけだった。
ただ、腕を組み、目を閉じたままで、彼の指は腰の剣の柄へごく自然に触れていた。




