エピローグ
――連邦王国。
この大陸に存在している七つの王国のうち最も広い国土を有する国である。この国は、王都を中心に栄えた国ではない。いくつもの領邦と大小さまざまな都市が集まり、それぞれの地方の代表を中央で王が統括する形で繫栄してきた国である。
そのため街道を一つ越えれば言葉の訛りが変わり、山を一つ越えれば家の造りも石造りの家から木造の家に変わる。
古い街並みが続く土地もあれば、近くの山を切り開き、ふんだんに木材を使用した家屋が立ち並ぶ新しい街もある。
職人たちの工房が軒を連ねる街があれば、街をあげて鉱山の採掘に励む土地もあり、牧場の経営や農業に力を入れる土地もあった。
そんなアルヴェインのとある街では、今日も朝からにぎやかな喧騒が街に溢れていた。
鍛冶屋からは金属を打つ甲高い音が響き、広い街道を進む荷車が石畳を鳴らし、威勢の良い商人たちの呼び声が飛び交う。
表通りの大きな街道には人通りも多かった。
旅人、商人、傭兵、地元の自警団…。
どこから来たかもしれない者たちがこの街を訪れ、それぞれの目的地を目指して去っていく。
だから、一人の傭兵風の旅人がこの街で何をしていようとも気に留めるものなど誰一人としていなかった。
そして、今、その男が人目のない街の裏側で死にかけていたとしても。
街の住人には知る由もない事だった。
表通りから細い路地へ入り、さらに街の奥へ向かって暗い小道を二本進む。
明るく活気のある市場の喧騒が遠くなり、石畳の割れが目立ち始め、周囲の建物も古く荒れたものが混じり始めるあたりに、その場所はあった。
―共同のゴミ捨て場。
近くの酒場から運ばれた腐った野菜や残飯、欠けた食器、何が入っていたか分からない破れた麻袋、役目を終えた木箱、薄汚れたぼろ布…。
ここは、街の人間が持ち込み、積み上げ、やがては回収人が運んでいく、不要になったものや壊れた道具を捨てる場所だった。
夏になれば腐った何かの、鼻をつくに臭いが周囲に漂い、傍を通る人間は眉をしかめて鼻を覆い目を背けて通り過ぎ、野良犬でさえ腹を空かせていても近寄らない、そんな場所だった。
そんなごみの山の陰に、一人の男が座り込んでいた。
歳は三十代半ばほど、傭兵風の旅装に隠された長身はよく鍛えあげられている。
腰には使い込まれた剣が下げられているが、今はその剣を抜く力さえ内容だった。
伸ばしかけの髪は汗で額や頬に張り付き、数日手を入れていない無精ひげが顎を覆っている。
上等とは言い難い外套には土埃で汚れ、あちこち擦切れていた。
どう見ても立派な身分の人間には見えない。
せいぜいが金に困った傭兵か、あるいは酒場で飲んだくれた挙句に宿代まで賭け事につぎ込んだろくでなしの旅人か。
実際そのろくでもない印象は、この男にとってそう外れたものでもなかった。
ただし腰に下げた剣の、その柄に残された使い込まれた形跡だけは、おこ男がただの酔っぱらいではない事だけを物語っていた。
そして今、その男の脇腹からは血が流れていた。
「……最悪だな」
男の口から低い声が漏れた。
任務でしくじった。
正確には、目的そのものは果たしたが、その代償がこれだった。
追っ手は撒いたはずだが宿まで戻る体力は残っていない。
応急処置は施したものの、血は完全に止まっていない。
剣の腕には自信があった。油断、したのだろうか、…したんだろうな。
仕事柄多少の怪我には慣れている。だからこそ、分かる。
流れる血の量を見れば、さすがにこれは少々まずい。
男は背後のゴミの山に背を預け、空を仰いだ。
建物と建物の隙間から、細く切り取られた青空が見える。
「こんなところで野垂れ死にか……」
乾いた笑いが漏れる。
ずいぶんと間抜けな最期だ。
男には長年、探している人間がいた。
ろくな手がかりもないまま、街から街へ、国から国へ渡り歩いた。
仕事のついでに、仕事の合間にも。
人に尋ね、噂を拾い、それでも見つけ出せぬまま、随分と長いこと探してきた。
それだというのに、相手を見つける前に自分はここでゴミになるらしい。
ここで死んでしまえば何もかも終わりだ。
「……笑えねえ」
男は自嘲をすると目を閉じた。
少しだけ、休もう。
少しだけ休んで。
そうしてまた――
あてどない人探しを続けるのか…
そう思うと、少しだけ、胸が苦しくなった。
脳裏に白銀の髪と薄い空色の瞳がよぎる。
その時だった。
「—―この役立たずが!」
しゃがれた怒声が裏路地に響いた。
男は脇腹を押さえて、薄く目を開ける。
男が隠れたごみの山の向こうから声が聞こえた。
「何度言えば分かる!お前は言われたことだけやってりゃいいんだ!」
今度は怒声とともに人を殴るような音がした。
男は僅かに眉を寄せ様子を伺うが、殴られた者の悲鳴は聞こえなった。
代わりに聞こえてきたのは、苛立ったように歩く大人の足音と、何かを引きずる音。
それがこちらに近づいてくる。男は見つからないように身を低くした。
「そこで頭でも冷やしてろ!」
言葉と共に、男の視界の上方から、小さな影が落ちてきた。
どさり、と。
腐った野菜や汚れた布切れや木くずがあたりに散った。
小さな身体が、男のすぐ目の前のゴミの山へ投げ込まれたのだった。
まるで、本当にゴミを捨てるように。
人間ではなく、不要な道具でも捨てるように。
男は目を見開いて、その小柄な影を見つめた。
少年だった。
六歳ほどだろうか。
汚れた粗末な衣服から伸びる手足は細く、頬は痩せている。土埃と泥にまみれた髪は、本来なら白に近い銀色なのだろう。
衣服から覗く腕や足にはいくつもの傷があった。傷には古いものも新しいものもあった。
そして彼の首には、この少年の身分を示す鉄の首輪がはめられていた。
少年は奴隷だった。
この大陸の七つの国では多かれ少なかれ奴隷が存在していた。
ここアルヴェイン連邦王国は比較的奴隷が多く、またその扱いも過酷な国であった。
少年をゴミ山に投げ込んだ男は、路地の入口に立って言った。
「呼ぶまでそこにいろ。今度、同じことを言わせたらお前は廃棄だ。」
その言葉に少年はゆっくりと身体を起こし、「はい。」と小さな声で答えた。
はい。と答えたその声に、悲しみや痛みの色は感じられなかった。
泣きもしない。怒りもしない。悔しさも、痛みすらない。
自分を投げ捨てた男を無感動な瞳で見つめるだけだった。
「返事だけはいいんだよ、お前は。」
男は吐き捨てると、その場を去っていった。
足音が次第に遠ざかり、完全に聞こえなくなっても、少年はそこから動かなかった。ゴミの中で膝をついた姿勢のままじっとしている。
逃げようとも、立ち上がろうともしなかった。
――ここにいろ。
その命令に従って、ただそこにいる。
傷を負った男は、眉間に皺を寄せたまま、その少年を黙って眺めていた。
やがて少年が男に気づいた。
ゴミの山の中から男を見つめる。
二人の視線が交わった。
しかし、少年の薄い空色の瞳には何の感情も浮かばなかった。
ただ静かにその瞳に男を映している。
少年の視線が男の脇腹へ移った。
赤黒く染まった服、地面に流れ落ちた血。
それを目にした少年が動いた。
四つん這いのようにしてゆっくりと男に近づいてくる。
「……おい」
男は不審げに眉をひそめた。
「何をしている」
しかし少年は答えずに、男の傷口に傷だらけの小さな手を伸ばした。
「触るな。血で汚れ――」
男は言葉を途中で飲み込んだ。
少年の手から淡い光がこぼれた。
暗い路地に落ちる月明りのような淡く、静かな光が、少年の手の中からあふれ男の傷を包んでいく。
「……は?」
男の口から、間の抜けた声が出た。
温かな光が傷口を覆い、流れていた血が止まった。
裂けていた肉が塞がっていく。
そうして、焼けるようだった痛みが引いていく。
治癒術。
この世に存在する二つの種族、人間とエルフ。その間に生まれるハーフエルフ。
不思議な術を使えるのはエルフかハーフエルフのみだった。その彼らの中でも、ごく一握りの素養のある者のみが扱うことができる奇跡の術。
それを目の前の奴隷の少年が使用している。
男は呆然とそれを見下ろしていた。
表情から、先程までの自嘲的で気怠い様子が消えた。
自分の傷でも、淡い光でもなく、少年の顔を食い入るように見つめている。
白銀の髪、薄い空色の瞳、年齢、そしてこの力。
「お前……」
と、呟いたまま言葉を失う。
探していた断片が、一つずつ目の前の少年と重なっていく。
まさか、この少年が――
その思いが頭をよぎる。
しかし、確信を持つ直前、少年の身体がぐらりと傾いた。
「おい!」
男は反射的に腕を伸ばして倒れかけた少年を抱き留める。
男の表情が変わった。
少年の身体は軽かった、あまりにも。
服越しに触れただけで肩や背中の骨の位置が分かるほどだった。
少年が薄く目を開いて男を見上げて聞いた。
「……治りましたか。」
「……ああ。」
男は自分の脇腹をみて、確かめるように手を当てた。
「治った。」
男の返答を聞くと少年は「そうですか」とだけ、小声で言うと、役目を終えたとでもいうように目を閉じる。
「待て」
男は思わず呼び止めた。
少年の瞼が僅かに上がる。
「お前、名前は?」
短い沈黙の後、少年は答えた。
「ありません」
今度は男が黙った。
しばらく何も言わずに腕の中の少年を見つめていた。
遠くから表通りの喧騒が聞こえてくる。
商人の呼び声、鍛冶屋の鉄を打つ音、馬車の車輪の音、路地をいくつか挟んだ先ではアルヴェインの人々の日常が営まれている。
だが、この裏路地のゴミ捨て場だけが世界から切り離されてしまったように男は感じていた。
男は小さく息を吐いて「……そうか。」とだけ呟いた。
それ以上は少年に何も聞かなかった。
ただ、抱えた少年を手放そうともしなかった。
そんな男に少年は言う。
「離してください」
「ん?」
「そこに―」
少年はゴミの山を指さして続ける。
「ご主人様に、そこにいるように命じられています。」
男は少年の指さしたゴミの山に視線を向けた。それから再び少年を見る。
そして、ニヤリとした笑いを浮かべる。
「嫌だね」
少年が瞬きをした。その顔にほんのわずかにではあるが、「分からない」というような疑問の感情が浮かんだ。
「……命令に逆らうことになります」
「だから?」
「怒られます」
「そうか」
それでも男は少年を手放さない。
少年は続ける。無感動に。
「叩かれます」
その言葉に男の表情から笑みが消えた。
「食事も、なくなります」
男は少し黙ってから少年に聞いた。
「いつもか?」
少年は答えなかった。どう答えれば良いのか分からないのだろう。今度はその表情に戸惑いがにじんだ。
その様子だけで十分だった。
男は小さなため息をつくと、少年を抱えたまま立ち上がった。
少年の治癒術のおかげで、傷は塞がっている。それでも、失った血のせいで足元がふらついた。
だが少年を抱いた腕は離さない。
「……どこへ行くんですか。」
「さあな。これから考える。」
「……僕を連れていくとご主人様に怒られます。」
「そうか。」
男は路地の入口に向かって歩き出した。
「あなたも怒られます。」
「そりゃ怖いな。」
まったく怖がっていない声だった。
少年が男の横顔を見つめた。
自分とは何の関係もない男が、なぜ自分を連れて行こうとしているのか、理解できないのだろう。
「……どうして…」
自分を連れていくのか。少年が小さな声で尋ねる。
男は歩みを止めた。
この少年が初めて自分から発した問いかけだった。
男は腕の中で分からないという顔をしている少年を見て、しばらく考えた。
言いたいことはたくさんある気がするが、結局まともな答えは返せなかった。
だから、「気に入らねえから。」とだけ答えた。
「……何がですか。」
「全部だよ。」
そう答えて再び歩き出した。
ゴミ捨て場の臭いが薄くなってきた。
薄暗い路地を抜け、表通りに出た。
男はそこで一度、足を止めた。
「……帰るぞ。」
少年が男を見るめて問う。
「どこへ、ですか。」
男は少し考えてから、口元にわずかな笑みを浮かべた。
無精ひげのせいもあって、決して人好きのする笑顔ではなかったが、少年は不思議とその笑顔が嫌いでないような気がした。
「さあな。俺もまだ決めてない。」
「……?」
「でもまあ――」
男は腕の中の少年を無意識に抱きなおす。
「お前がゴミ捨て場にいる必要は、もうない。」
少年にはその言葉の意味が分からなかったが、それ以上は何も聞かなかった。
二人は表通りを進む。
商人の呼び込みの声、鍛冶屋の鉄を打つ音、馬車の車輪のきしむ音、すれ違う旅人たち、警邏中の自警団…
アルヴェインの街は先ほどまでと何一つ変わらない。
二人に注意を向けるものもいない。
くたびれた旅装の旅の剣士が、薄汚れた小さな奴隷の少年を連れている。
――それだけだった。
少年はまだ男にしがみつかなかった。ただ荷物のように運ばれるだけだった。
男はそれが気に入らないらしく、時折、不機嫌そうに少年を見下ろしたが、特に何も言わなかった。
これから先、この少年が何を知り、何に笑い、何に怒り、そして何を選ぶのか。
このときには、まだ誰にも分からない。
少年には名前さえなかった。
六歳に見える彼が本当は九歳であることを知って、男が言葉を失うのはまだ先のことだった。
名前のない九歳の少年と、名前さえ名乗っていない旅の剣士。
この二人の出会いは、大勢の人間が行き交う世界の片隅で起きた、誰も知らない小さな出来事でしかない。
男は少年を抱いたまま、人混みに消えていく。
その肩越しに、少年は一度だけ振り返った。
もう見えなくなった暗い路地裏、その奥の、自分が投げ捨てられたゴミの山が遠ざかっていく。
少年は路地裏の方角をただ静かに見つめていた。
その表情には、寂しいさも、嬉しさも浮かぶことはない。
自分の行き先を、自分で決めることさえ知らなかったからだ。
やがて少年は前を向いた。
彼の視線の先には見慣れた街、その先には見知らぬ国へ続く道。
自分のそばには名前さえ知らない、見知らぬ男の横顔。
そして頭上にはまぶしい程の青空が広がっていた。




