第二章 saide白銀の髪の少年―過去の影―⑩
部屋へ入ると、ジンはユーナを椅子へ座らせた。それから水を杯に注ごうと水差しを取り上げる。
それを見たユーナが腰を浮かすのを制する。
少し水がこぼれた。ユーナが反射的に布を取ろうとするが、それも止める。
「今日は俺がするから、お前は座ってろ。」
アルバはその光景に別の意味で驚いていた。
生活能力は皆無に近いあの男が、ユーナのためなら動く。不器用な手つきだが、それでも、やろうとする。
水を注いだ杯をユーナに渡し、自分は向かいに腰かけた。 そして言う、何度でも。大事なことだから。
「ユーナ、もう一度言うぞ。今のお前は、あの時のお前じゃない」
水の入った杯を持った、ユーナの両手に力が込められる。
「分かっているつもりだったんです。もう、僕はあの頃の僕ではないって。でも、あの子たちを見たら……。」
言葉に詰まって下を向く。ジンは黙って聞いている。ジンはユーナに無理に話させない。焦らず、語られる言葉を受け入れる。だが。
「僕も、ああだったんだって思ったら、怖くなりました。今の僕も、本当は何も変わってないんじゃないかって。師匠がいなくなったら、また……」
「戻らねえよ」
大事なことは、伝える。知ってい欲しいこと、分かって欲しいことは、伝えようとする。不器用でも。
「戻らせない」
ユーナが顔を上げる。
ジンは静かに続けた。
「つーか、お前自身がもう三年前とは全然、違う。誰が何を言おうとも、お前がこの三年間、生きて積み重ねてきた物は消えねえよ。」
ジンはユーナの顔を見つめて続ける。
「嫌なものを嫌と言えるようになった。自分で食うものも選べるようになった。人が困ってりゃ勝手に助けに行く。俺に文句だって言う。」
「文句ではありません。注意です。」
「そこは今どうでもいい。」
アルバは部屋の隅の椅子に座って二人のやりとりを静かに聞いていた。
やがてユーナの肩から力が抜けていく。
それを見届けてから、アルバは慎重に尋ねた。
「……ひとつ聞いてもいいだろうか。答えたくなければ、答えずとも構わない。」
ジンがアルバを見る。だが、何も言わない。
アルバは口を開いた。慎重に、言葉を選ぶ。しかし、結局、彼の口から出たのは非常に直截な言葉だった。
「……君は、奴隷だったのか」
ユーナは何と答えるべきか、少し迷った。
ジンを見るがジンは何も言わなかった。
どう答えるか、決めるのはお前だ、とでも言うように。
一度息を吸い込んでから、ユーナは「はい。」
と答えた。
「九歳の時に師匠が拾ってくれました。」
少し笑って付け加える。ゴミ捨て場で、と。
アルバは冗談だと思った。しかし二人とも笑わない。
ユーナは胸元へ手を添えた。首から下げられたペンダントの銀色の鎖がチリとなる。
「あの頃の僕には、名前もありませんでした。命令されれば何でもしていました。そんな僕に師匠が名前をくれたんです。そして色々なことを教えてくれました。」
色々教えてくれた?
アルバは思わずジンを見つめて呟いてしまった。
「ジン殿が?」
「おい、何だその顔。」
「いや……。」
自分の洗濯すら弟子に任せている男だ。
そんな男が、九歳の子供へ生活を教える場面など、どう考えても想像できない。
アルバの様子を見て、ユーナはまた少し笑った。
「最初は師匠も大変だったんですよ。僕、食べていいと言われるまで食べませんでしたから。」
ジンが顔をしかめて腕を組んだ。
あれは本当に面倒だった、と、当時を思い出す。
「寝ていいと言われるまで寝ませんでしたし。」
腕組みをしたまま、そういえばあったなあ。と、遠くを見つめる目をする。
「俺の方が先に寝て、起きたらまだ立ってた事もあったな。」
はい、と言ってユーナは苦笑する。
「笑い話じゃねえぞ。」
「今は笑えるでしょう。」
ジンもほんの少しだけ笑った。
アルバはようやく分かった気がした。
ユーナがジンの世話を焼く理由も、ジンがユーナから目を離さない理由も、その少年の異変を敏感に察する理由も。
今はユーナが師匠の服を洗い、朝起こし、食事を忘れないように注意する。
しかし、その前には逆の時間があったのだ。
自分が名前を与えた、生きることをそのものを知らなかった子ども。
その子を注意深く見守りながら、「生きる」ということを、ジンが一つずつ教えた時間が。




