第5話:強襲
朝の鐘が七つ鳴った。
シエルはパンをくわえたまま、絨毯の端に腰をおろそう…としたら、すでにその場所にシロがいた。
「どいて」
「嫌だニャ。ここが一番風が当たって気持ちいい」
「私の絨毯なんだけど」
「でも今は俺がいる」
シエルは仕方なく絨毯の真ん中に座った。
配達鞄を膝に乗せて、昨日ルウに持たせてもらったロールパンをかじる。朝の空気に溶けていくバターの匂いがした。
「あんた、今日どうするの」
「どうするって?」
「ゼフィリア島、行くんでしょ。伝説の絵の具を探しに」
「行く。でも今日は一緒に配達するニャ」
「え、なんで」
「昨日おいしいご飯食べたから、恩返しするニャ」
シエルは少し黙ってから、パンをまたかじった。
「……別に恩返しなんていらないけど」
「俺がしたいからするニャ。郵便配達の手伝いをする。荷物は俺が持つ。それでどうだ」
「荷物持てる? 絨毯ないのに」
「俺の腕力を舐めるなニャ。猫は見た目より力持ちなんだよ」
シエルは空を見た。
今日のオルフェル島の朝は、霞がいつもより少なかった。遠くの島まで、うっすらと見えている。
「……まあ、いいけど」
「決まりニャ!」
シロがぴょんと立ち上がって、絨毯の前端に陣取った。風に白い毛が揺れる。
「じゃあ出発! どっちに行くの!」
「あんたが案内するわけじゃないでしょ」
「気分の問題ニャ」
シエルはため息をついて、絨毯を走らせた。
午前の配達は、順調だった。
シロは言った通り、荷物を運ぶのをよく手伝った。重い荷物でも文句を言わずに持ったし、受取人の顔をすぐに覚えて「次はこの人のところだニャ」などと言い出した。記憶力がいいらしい。
ただ。
「シエルさん、その子、猫さんですか」
三件目の受取人、花屋のサリーさんが、シロを指差して首を傾げた。
「猫ですよ」
「模様がないんですね」
「そうなんです」
「珍しいですね」
「そうなんです」
「あの、もしかして、飛べない……」
「俺は聞こえてるニャ!!」とシロ。
「ごめんなさい!」とサリーさん。
四件目では、受取人の子どもがシロを見て「まっしろ! さわっていい!?」と突進してきて、シロが「きゃー! やめろ! 揉むな!」と叫びながら絨毯の上を逃げ回った。
五件目では、受取人のおじいさんが「うちの猫と遊んでいきなさい」と言って、茶トラ猫を連れてきた。その茶トラ猫がシロの尻尾をじっと見つめて、じわじわと近づいてきて、シロが「な、なんだ、なんのつもりだ」とおびえながら後ずさりし、茶トラ猫に絨毯の端まで追い詰められた。
「たすけてシエル!」
「猫が猫を怖がってるの」
「あいつの目が怖いニャ! ギラギラしてる!」
「猫の目なんてみんなそんなもんよ」
おじいさんは「仲良くしてるねえ」と満足そうだった。
そんなこんなで、午前の配達が終わった。
問題が起きたのは、昼の休憩を終えて午後の配達に出た直後だった。
シエルは今日の後半ルートを頭の中で確認していた。北地区を抜けて、時計塔の方角へ。その後、島の外縁を回って郵便局に戻る。難しいルートではない。
シロは絨毯の前端で、雲をぼんやり眺めていた。
「ねえ、あの雲、ウサギみたいじゃないニャ」
「そう」
「あっちのはなんか魚みたい」
「そう」
「シエルは雲の形を気にしないの」
「仕事中だから」
「休憩中でも気にしなそう」
「うるさい」
空賊の影は、最初は小さかった。
遠くの方から、黒い点がいくつか近づいてくる。最初、シエルは鳥だと思った。このあたりにはオルフェル島の気流を利用して旋回する鳥が多い。
でも鳥の飛び方じゃなかった。
隊列を組んでいた。
一列に並んで、等間隔で、まっすぐこちらに向かってくる。
「……シロ」
「なに」
「あれ、見える?」
シロが目を細めた。それから耳がぴんと立った。
「……黒い羽?」
「カラスだ」
カラスの群れが、こちらに向かってくる。ただの野生のカラスではない。それぞれが黒い羽で作られた飛行メカのようなものを操っていて、ツヤツヤとした羽が朝日を反射してぎらぎらと光っている。
先頭の一羽が、特に大きかった。
片目に眼帯をしていた。
「カラス団だ」
シエルは思わず声を出した。
聞いたことがある。空を荒らす空賊の群れ。キラキラしたものが好物で、旅人の荷物を狙うという話。
「知ってるの?」とシロ。
「噂で聞いたことがある。でも実際に見るのは初めて……」
「逃げなくていいの?」
「え?」
「来てるよ、めっちゃ早く」
シエルが前を向いた瞬間、カラス団の先頭が急降下してきた。
目にも止まらぬ速さだった。
「うわっ!」
絨毯が激しく揺れた。何かがかすって、ラベンダーの端が裂けた。
「絨毯に当てた!?」
「ガーガーガー!」
カラスたちが包囲するように周りを飛び始めた。整然としたフォーメーションだ。一羽が突っ込んでくる。一羽が上から圧力をかける。一羽が横から風を起こす。
連携が取れている。
シエルは必死に絨毯を操作したが、向こうは多い。どちらに逃げても一羽が先回りしてくる。
「ぶつかる!」
「右! 右に下げて!」とシロ。
「わかってる!」
急降下。絨毯が縦になりかける。シロが四本の爪でしがみつく。配達鞄がぐらぐら揺れた。
眼帯のリーダーカラスが、スローモーションのようにシエルの目の前を横切った。
ギョロリとした目が、シエルを見た。
それから、視線が下にずれた。
配達鞄に。
より正確には、配達鞄の金色の留め金に。
「あ」
次の瞬間、リーダーがダイブしてきた。
狙いは留め金ではなかった。
配達鞄ごと、引っ張っていこうとしていた。
「ダメ! 荷物が入ってる!」
シエルは鞄の紐を両手で握った。引っ張り合いになる。カラスの力が思ったより強い。絨毯がぐらぐら揺れた。
「シロ、絨毯を操作して!」
「操作できないニャ! 俺の絨毯じゃないから!」
「じゃあ紐を! 紐を持って!」
「わかった!」
シロが鞄の紐に飛びついた。猫の爪で紐をがっちり掴む。でもカラスのほうが上空から引っ張っていて、有利な体勢にある。
じわじわと、鞄が持ち上がっていく。
「離さないで!」
「離してないニャ! でもこいつ力が強い!」
別のカラスが二羽、横から絨毯に体当たりしてきた。
大きく傾いた。
シロの爪が絨毯から離れた。
シロが落ちた。
「シロ!!」
シエルは鞄の紐を放して、絨毯を急降下させた。
落ちるシロに追いつくには、絨毯を思い切り傾けて急角度で突っ込むしかない。
配達鞄がカラスに持っていかれる感覚があったが、今はそれどころではなかった。
「シロ!!」
「ここだニャーッ!!」
白い毛玉が、めちゃくちゃに手足を動かしながら落ちていく。
シエルは手を伸ばした。
届いた、と思ったら。
シロがシエルの顔面にダイブしてきた。
「ぐわっ!」
「ニャーッ! 落ちた落ちたニャーッ!」
「顔から離れて! 離れないと私たちふたりして落ちるから!」
絨毯が、完全に制御を失っていた。
向こうに見えるのは、時計塔の美しいレンガ。背景に大きく広がる青空。上空では、カラス団がギャーギャーと鳴き叫んでいる。
そして、シエルたちは猛スピードで落下していた。
「ちょっと待って、話せばわかる! 私はただの郵便配達員なんだってば!」
シロをなんとか顔から引き剥がして、絨毯の上に放り投げる。
「いたいニャーッ! 乱暴するな!」
「乱暴したのはあんたでしょ!」
絨毯の紐を両手で掴んで、必死に立て直そうとする。でも紐を引っ張っても、絨毯が言うことを聞かない。
「どうなってるの!」
「絨毯の端が裂けてるニャ! さっきカラスに当てられたとこ!」
見ると、最初に引っかかれたラベンダー色の端が、ざっくりと裂けていた。そこから風が入り込んで、絨毯全体がまともに動かなくなっている。
地上まで、あと数十メートル。
「どうすんのニャ!!」
「考えてる!」
「考えてる場合じゃないニャーッ!!」
シエルは裂け目を見た。裂け目から入る風が問題なのだ。なら、塞げばいい。
「シロ、その裂け目の上に乗って!」
「え?」
「体重をかけて塞ぐの! 早く!」
シロは一瞬躊躇してから、裂け目の上に四本足で飛び乗った。全体重をかける。
風の入り込みが、少し弱まった。
シエルは紐を引いた。
絨毯が、わずかに持ち直した。
「いけるかも!」
「絶対いけるニャ!!」
「まだわからない!!」
石畳まで、十メートル。五メートル。
シエルは紐を限界まで引いた。
絨毯が、ぎりぎりで水平に戻った。
そのまま、石畳の一センチ上をかすめるようにして、ずさーっと滑った。
石畳に積んであった野菜売りの荷物が、盛大に吹き飛んだ。
「ぎゃー!」と野菜売りのおじさん。
「すみません!!」とシエル。
「ニャーッ!!」とシロ。
絨毯が止まったのは、時計塔の壁にぶつかる直前だった。
ふたりはしばらく、ぺたんと絨毯に突っ伏したまま動けなかった。




