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空飛ぶシエルと、まっ白なシロ  作者: ゆも
第一章:オルフェル島の空

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第4話:隠し味は、ほどほどに

 配達を全部終えたのは、夕方少し前だった。


 空が橙色に染まりかけていた。


 シエルは一度郵便局に戻って、今日の配達記録を提出してから、鞄を軽いものに取り替えた。財布と、非常用の地図と、替えの手袋。あとはシロが乗っているから、重くなりすぎないようにした。


「準備いい?」


「とっくに」


 シロは絨毯の前端に陣取って、すでに前のめりになっていた。


「どっちに飛ぶの」


「西。太陽と逆の方向に最初は飛んで、それから少し北に折れる」


「わかった。任せる」


「そもそも私の絨毯なんだから、最初から私が握ってるに決まってるじゃん」


 シエルは絨毯を走らせた。


 オルフェル島の端を越えると、急に風が変わる。


 島のすぐ上は島の空気が渦巻いているが、島の外に出ると、渡り風という大きな流れに乗ることができる。


 ベテランの配達員になると、渡り風を読んで最短ルートを探せるようになる。


 シエルはまだそこまで上手くはないが、よく使うルートなら体が覚えていた。


 島の端を越えた瞬間、シロが「おっ」と声を上げた。


「風が違う」


「そう。島の外はこういうもんよ」


「……大きい」


 シロの声が、少しだけ変わった。さっきまでの元気いっぱいのそれとは違う、もっと静かな声だった。


 シエルもわかる。


 島の外に出た瞬間の、この感覚。


 どこまでも続く空と、遠くに点々と浮かぶ島々と、自分の足元には何もなくて、ただ絨毯一枚だけが頼りで、それでも落ちない、という。


「怖い?」


「怖くない」


「嘘つかなくていいよ」


「……ちょっとだけ」


 シロが正直に言った。シエルは少しおかしくなった。


「最初はみんなそう。慣れるから」


「シエルは怖くないの?」


「もう慣れた」


「ふうん」


 シロは前を向いて、目を細めた。オレンジの空が、金色の目に映っていた。


「でも、気持ちいいニャ」


「そう」


「すごく、気持ちいい」


 シエルは返事をしなかった。


 かわりに、少しだけ絨毯の速度を上げた。


 夕風が頰を叩いた。シロの白い毛がふわふわと舞い上がった。


 小さな島が、正面に見えてきた。


 ランプの光が、ひとつひとつ灯り始めている。


 甘いような、香ばしいような、不思議な匂いが、風に乗って漂ってきた。


「……なんか、いい匂いがするニャ」


「着いたら分かるよ」


 シエルは絨毯を傾けた。


 小さな島に、ゆっくりと降下していく。


 看板には、くるくるした文字で「ル・ミアロン」と書いてあった。その下に、小さな茶トラと茶白の猫のシルエット。


「カフェ?」とシロ。


「空中カフェ。島と島の間に浮いてるの」


「誰がやってるの」


「腕のいいシェフ」


 ドアを開けた瞬間、香りが一気に押し寄せてきた。バターと、焼き立てのパンと、何かスパイシーなものと、あと甘いものが混ざった複雑なにおい。


 シロの耳がぴんと立った。


「うわ」


「おかえりニャー、シエル!」


 カウンターの向こうから、元気のいい声が飛んできた。


 茶白の猫が、エプロンをつけてこちらを見ていた。頭と尻尾は茶トラ模様、お腹と足は白、背中と尻尾の付け根はまた茶色という、複雑な配色の猫だった。首元で純金の鈴がきらりと光っている。


「ルウ! 今日もやってた?」


「毎日やってるニャ! ところで隣の白いの、誰?」


「拾った」


「拾ったって言うな!」とシロ。


「まあまあ、座って座って。今日のおすすめはクリームシチューと焼きたてのロールパン。それと新作デザートがあるんだけど」


「新作?」


 ルウが誇らしげに胸を張った。金の鈴がちりんと鳴った。


「そう! 今日ね、新しい隠し味を発見したんだ! お客さんにも大好評で!」


 シエルは嫌な予感がした。


 ルウの「新しい隠し味」は、たいていろくなことにならない。


「何入れたの」


「それはシークレットニャ。まあとにかく食べてみて! 自信作だから!」


 シロがカウンター席に飛び乗って、目をきらきらさせながらルウを見た。


「ねえ、これ全部作ったの?」


「そうニャ! このル・ミアロンは俺のカフェだから、料理も全部俺が作る!」


「すごいニャ……」


「まあね!」


「このシチューもパンも?」


「そうニャ!」


「匂いがすごくいい……」


「だろう! ルウの料理を食べたら他の料理が食べられなくなるって評判なんだよニャー!」


「謙虚にしてよ」とシエルは言ったが、ルウはもう鼻歌を歌いながらキッチンに戻っていた。


 シロはスツールに座って、ほかほかと湯気の出るシチューと向き合った。


「食べていいの?」


「どうぞ」


 シロがスプーンを取って、一口すくった。


 食べた。


 止まった。


「……」


「どう?」


「……」


「シロ?」


「……おいしい」


 それだけ言って、シロはまたスプーンを動かした。今度は止まらなかった。黙々と、ものすごい速さで食べた。


 シエルも自分のシチューを食べた。


 温かくて、こっくりしていて、ロールパンがふかふかで、それを浸して食べるとまた最高で。


「ルウの料理って、毎回こんな感じよね」


「こんな感じって?」


「美味しすぎて、余計なことを考えなくなる感じ」


 シロがシエルを見た。


「余計なこと?」


「……なんでもない」


 シエルはシチューを食べた。


 ルウがカウンターの向こうからのぞいた。


「どう? 新作デザートも食べる?」


「なにそれ」とシエル。


「マタタビ入りプリン!!」


 沈黙が落ちた。


「……マタタビ?」とシロ。


「そう! 風味付けに少し入れてみたんだけど、すごく香りがよくてさあ!」


「少し、って、どのくらい?」


「えっと……スープで言うと、鍋一杯にカップ三杯くらい?」


「多い!!」とシロとシエルが同時に叫んだ。


「え、でも味見した時は大丈夫だったよ?」


「その時点でもうおかしくなってたんじゃないの!?」


「そんなはずは……ところでシエル、なんかフワフワするんだけど」


「それがそのはずよ!!」


 結論から言うと、その夜、「ル・ミアロン」は一時間ほど営業停止になった。


 シエルは猫ではないので影響が少なかったが、それでも少しだけ足がふわふわした。


 シロは完全にゴロゴロして動けなくなり、絨毯の上でぐるぐる転がっていた。


 ルウは「俺もか!」と叫んだ後、カウンターに突っ伏してしばらく起き上がれなかった。


 三人が使い物になったのは、すっかり夜が更けてからだった。


 星空の下、シエルはお茶を飲みながら、シロとルウが言い争っているのを眺めた。


「おまえのせいだニャ!」とシロ。


「レシピの改善だニャ!」とルウ。


「改善の方向が間違ってるニャ!」


「次はもっと少なくすればいいだけニャ!」


「懲りてないニャーッ!!」


 カラスの件は、翌朝になってから起きた。


 でもそれは、また別の話だ。


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