第3話:島の外は気持ちいい
灯台は、思っていたよりずっと古かった。
レンガが苔むして、所々ひびが入っている。てっぺんのランプ部分はとっくに光を失っていて、代わりにツタが絡みついて、緑色の帽子をかぶっているみたいだった。
「こんなところに人が住んでるの?」
シロが絨毯の端から首を伸ばして、興味深そうに見ている。
「住所がそうなってるから、住んでるんでしょ」
「ずいぶん不便そうだニャ」
「余計なお世話よ」
絨毯を灯台の入り口前に着けて、シエルは鞄から封筒を取り出した。宛名をもう一度確認する。カナリア・ブランシュ。差出人は本島の法律事務所。中身はもちろん開けていないし、開けるつもりもない。
ドアをノックしようとして、手が止まった。
ドアが、すでに少し開いていた。
「……?」
おかしい。
風が強いとはいえ、こんな場所で鍵をかけないのだろうか。
「どうしたの」とシロが聞く。
「開いてる」
「だから入れば?」
「それは不法侵入でしょ」
「封筒を渡しに来てるんだから不法侵入じゃないニャ」
なんとなく理屈は通っている気がして、シエルは釈然としないままドアを押した。
中は、薄暗かった。
螺旋階段が上へ続いていて、どこかから風の音がしている。埃の匂いがする。長い間、あまり掃除されていないような気配だった。
「カナリア・ブランシュさーん。郵便でーす」
声が、反響した。返事がない。
「住んでいないんじゃないの」とシロ。
「住所がここになってるんだから、いるはずでしょ。……ブランシュさーん」
しばらく待ったが、やはり返事がない。
シエルは仕方なく階段を上がることにした。一段ごとにきしきしと音がする。シロがのこのこついてくる。
「ここで待ってなさいよ」
「嫌だニャ。暗いし」
「怖いの?」
「怖くない。暗いのが嫌いなだけ」
「……同じでしょ」
「違うニャ」
口喧嘩をしながら階段を上がっていくと、途中の踊り場に小さな部屋があった。ドアが開いていて、中に人の気配がした。
「失礼しまーす、郵便でーす」
のぞき込むと、老婆がいた。
肘掛け椅子に腰かけて、膝の上に大きな猫を乗せて、ぐうぐうと眠っていた。
猫のほうも眠っていた。
二人仲良く、盛大にいびきをかいていた。
「……」
シエルは封筒を持ったまま、しばし固まった。
「おばあさん」
声をかけても起きない。
「おばあさーん」
起きない。
「カナリア・ブランシュさーん!」
「ニャーーー!!」
突然シロが全力で鳴いた。
老婆と猫が同時に飛び起きた。猫は部屋中を走り回り、老婆は肘掛け椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
「なんじゃなんじゃなんじゃ!!」
「郵便です!」
シエルは半ば叫ぶように言って、封筒を差し出した。
老婆は眼鏡がずり落ちたまま、きょとんとシエルを見た。それから封筒を見た。それからシロを見た。
「……猫が二匹」
「一匹は猫じゃなくて私です」
「白いほうが珍しいね。模様がない」
「余計なお世話だニャ!」とシロ。
老婆はしばらくシロをじっと見つめてから、おもむろに立ち上がった。背中が丸く、背が低い。腰くらいまでしかなかった。
「まあ、上がりなさい。ちょうどお茶を飲もうと思っていたところじゃ」
「いえ、配達があるので」
「遠慮しなくていい。あんたたち、腹が空いているだろう」
シエルの腹が、タイミングよくぐうと鳴った。
シロが「ぷっ」と吹き出した。
「……お邪魔します」
老婆の名前は、やはりカナリア・ブランシュといった。
この灯台に一人で住んで、もう四十年になるという。島が空に浮かんでから、この灯台はもう使われていないが、居心地がいいから引っ越す気になれないのだと言った。
「昔はここからね、島の行き来を管理しておったんじゃよ。光を点けたり消したりして、信号を送るんじゃ」
「今は?」
「今は関係ない。隠居じゃ」
テーブルには、いつの間にかハーブティーとビスケットが出ていた。老婆の動きは遅いのに、気がつくと準備ができている。不思議な人だった。
シロはビスケットを三枚もらって、すごい速さで食べた。それから四枚目に手を伸ばしたところで、シエルに手をはたかれた。
「痛いニャ!」
「人の家でがつがつ食べない」
「減るもんじゃなし。いいじゃろ、もっと食べなさい」
老婆がシロの前にビスケットを積んでやった。シロは得意げにシエルを見た。シエルはため息をついた。
「……その封筒、差出人は法律事務所でしたが」
出しゃばったことを言うつもりはなかったが、なんとなく気になっていた。老婆は一人だ。家族も、それらしい気配もない。法律事務所からの手紙は、たいていあまりいいものではない。
老婆は封筒を見て、少し目を細めた。
「ああ、これか。知っておる。娘から聞いた」
「娘さんが……」
「もうずっと会っておらんがね。向こうもこっちも、頑固者じゃから」
それきり、老婆は封筒の話をしなかった。
シエルも、それ以上聞かなかった。
灯台を出たのは、昼前だった。
残りの配達を終えれば、今日の仕事はほぼ片付く。
問題は、絨毯にシロがいることだった。
「あんた、今日どこ行くつもりだったの」
「どこでもよかった。とにかく島を出ようと思ってた」
「あの崖から? 飛んで?」
「そうニャ」
「……何回くらいやったの、それ」
「今日で七回目」
「七回!!」
思わず叫んだ。シロは耳をぺたんとたたんだ。
「うるさい、恥ずかしいニャ」
「恥ずかしいじゃなくて! 七回崖から落ちてたの!?」
「落ちたんじゃなくて飛ぼうとした、って言ってるニャ」
「結果として落ちてるでしょ!」
「回を重ねるごとに、落下速度が遅くなってきてたんだ。あと三回くらいで何とかなると思ってた」
「何とかならないから! 絶対何ともならないから! 絨毯がないのにどうやって飛ぶの!」
シエルは頭を抱えた。
この猫は、七回も崖から飛び降りていた。七回、毎回海まで落ちていたのだ。よく生きている。
「……ていうか、なんで今日助かったの。落下速度が遅くなってたって言ったけど」
「あー」
シロが少し目を逸らした。
「白い毛が、若干……パラシュートみたいになってたかもしれない」
「猫がパラシュートになるの!?」
「毛がふわふわしてるから、広げると結構……いや、あんまり胸を張って言えることでもないニャ」
「なんで少し誇らしそうな顔してるの」
シエルは絨毯に寝転がりたくなったが、仕事中だったのでこらえた。
午後の配達は、島の東地区から始まった。
ここは商業地区で、建物が密集している。絨毯でくねくねと路地を縫っていくのが、少しだけ難しい。
シロは配達の間ずっと、絨毯の前の方に陣取って、目をきらきらさせながら街を眺めていた。
「あの猫、すごい柄だニャ」
通りの向こうを、鮮やかな三毛猫が自分の絨毯で飛んでいった。三色の魔法が渦を巻いている。
「ミケさんよ。郵便局の先輩」
「知り合い?」
「同じ職場だから」
「あの絨毯、三色あるってことは魔法も三種類使えるの?」
「そうみたい。風と、バリアと、あともうひとつ何かあるって聞いたけど」
「すごいニャ……」
シロは呆然とミケの絨毯を目で追った。やがて見えなくなると、少しだけ肩を落とした。
シエルはそれを横目で見ながら、次の配達先に絨毯を向けた。
シロが落ちた、とか、よかった助けられた、とかいう話ではないのだろうと思った。ただ、自分には出せないものを見て、それでも目を逸らさないで見ていたのだ。この猫は。
「ねえ」
シエルは前を向いたまま言った。
「伝説の絵の具って、どこにあるか、具体的にわかってるの?」
「噂では、ゼフィリア島にいる魔法使いが知ってるって」
「ゼフィリア……遠いじゃない」
「遠い。だから島を出ようとしてた」
「……一人で?」
「他に一緒に行ってくれる猫もいないし」
シロはあっけらかんと言った。傷ついている様子はない。もしくは、傷ついていることを顔に出さないのが上手いのか。
「シエルは嫌だニャ? 俺と旅するのが」
「嫌じゃないけど、私には仕事があるし」
「郵便配達?」
「そう」
「郵便配達ってさ」
シロがシエルを見た。
「毎日同じ島ばっかり飛んで、楽しい?」
返事に詰まった。
楽しい、かどうか。
考えたことがなかったと言えば嘘になる。でも考えないようにしてきた、というのも少し違う。
ただ、毎朝鐘の音を数えて、パンをかじって、荷物を届けて、「気をつけてね」と言われて、また飛ぶ。それが積み重なって今日になっている。
「……楽しいとか楽しくないとか、そういうもんじゃないでしょ、仕事って」
「そうなの? 俺は空飛ぶのが楽しいからやりたいけど」
「あんたはまだ飛べてないでしょ」
「飛べるようになるニャ。絶対に」
きっぱりと言った。疑いが一ミリもない声だった。
シエルは少し、羨ましいと思った。
思ったが、それも言わなかった。
「……今日の配達、終わったらご飯食べに行くんだけど」
「うん」
「いい店があって、でも少し遠い島にあって」
「うん」
「そこまで、寄り道してもいいかな、と思って」
シロがぱっと顔を上げた。
「どのくらい遠い?」
「三十分くらい。オルフェル島からフェザリア島の方角に飛んで、その途中にある小さい島」
「それって、島を出るってこと?」
「……まあ、一応」
シロが満面の笑みになった。猫が笑顔になるとどんな顔になるかというと、ひげがぴんと張って目が細くなって、耳がぴょこんと上を向く。
「行くニャ!!」
「わかった。大きい声出さないで」
「行く行く行くニャー!!」
「だから大きい声出さないでって言ってるでしょ!!」
通りがかりの人がこちらを見た。
シエルは会釈した。




