第2話:崖の上のパラシュート
こんなふうにして、シエルの朝は過ぎていく。
荷物を届けて、サインをもらって、「気をつけてね」と言われて、また飛ぶ。
それだけだ。
特別なことは何も起きない。
毎日毎日、同じ空を飛んで、同じ建物に降りて、同じ顔ぶれと顔を合わせる。
それが悪いとは思っていない。
ただ、ときどき、なんとなく。
「……」
思考を打ち切るように、シエルは鞄を開いた。次の荷物を確認する。
薬瓶。割れ物注意。慎重に扱うこと。
仕事に集中しよう。それが一番だ。
問題が起きたのは、午前の配達も終盤にさしかかった頃だった。
シエルは島の南端にある断崖絶壁の上、さびれた灯台へ向かっていた。
受取人の名前は「カナリア・ブランシュ」。書類の封筒が一通。急ぎではないが、住所が分かりにくい場所にあるため、配達を後回しにしていた。
灯台のあたりは風が強い。
絨毯の端がばたばたとはためいて、シエルは両手の紐をしっかり握った。
「うわっ」
突然、上から何かが降ってきた。
いや、正確には、何かが落ちてきた。
シエルは咄嗟に絨毯を急上昇させて、ぶつかるのをかろうじて回避した。落ちてきたものは、絨毯のすぐ横を通り抜けて、断崖の下の海へと消えていく……
「……消えない」
落ちてきた「それ」は、途中でばたばたともがき始めて、ぐるぐる回転しながら、なぜか落下速度が遅くなっていた。
必死にもがいているせいで空気抵抗が増しているのか、それとも何か別の力が働いているのか。
よく見ると、それは白い毛玉だった。
猫だ。
手足をめちゃくちゃに動かしながら落ちていく、真っ白な猫。全身これっぽっちも模様がない、純白の猫。
「ちょ、ちょっと!」
シエルは絨毯を急降下させた。落下する猫に追いつくには、絨毯を思い切り傾けて急角度で突っ込むしかない。配達鞄が激しく揺れて、中の荷物がガシャンと音を立てた。
「待って! 待ちなさい!」
猫に待てと言っても意味はないのだが、シエルは叫びながら手を伸ばした。
届いた。
白い猫の背中の皮をつかんだ瞬間、ものすごい勢いで爪が返ってきた。シエルの腕に引っかかるかと思ったが、猫はシエルの顔面にダイブしてきて、両手両足でしがみついた。
「ぐわっ! 痛い!」
「ニャーッ! あっちっち! 落ちた、落ちたニャーッ!」
「落ちたのはわかってる! 顔から離れて! 離れないと私たちふたりして落ちるから!」
シエルはぐらぐら揺れる絨毯を必死に立て直した。
猫が顔面にへばりついているので視界がゼロだ。右手で毛玉をつかんで引き剥がして、絨毯の上に放り投げる。
「いたいニャーッ! 乱暴するな!」
「乱暴したのはあんたでしょ! 顔に飛びついてくる猫がいますか!」
絨毯がようやく水平に戻って、シエルはぜいぜいと息をついた。心臓がまだばくばくしている。
猫は絨毯の上で、四本足でしっかり踏ん張って、シエルをじっと見上げていた。
全身まっ白だった。耳の先から尻尾の先まで、どこにも模様がない。大きな瞳だけが、濃い金色に光っている。
「……あんた、崖から落ちたの?」
「落ちたんじゃない。飛んだんだ」
「飛んで、あの落ち方になったの?」
「うるさいニャ! 練習中なの!」
猫は前足でぺしっと床を叩いた。絨毯の毛が少し乱れる。シエルは呆れながら、猫をしみじみと眺めた。
全身に模様がないということは、この猫は絨毯を出せない。
柄のない猫は、飛ぶための絨毯を生み出せないのだ。
それはシエルでも知っている、この世界の常識だ。
「あんた、もしかして、自力で飛ぼうとしてたの?」
「何が悪い」
「悪くはないけど……無謀でしょ」
「うるさいニャ。関係ない」
「いや、関係あるよ。私があんたを助けたんだから」
それを言うと、猫はぐっと黙った。
一秒くらい黙って、それから顔を横に向けた。耳が少しだけ下がった。
「……ありがとう」
ものすごく小さい声だった。
シエルはつい、聞こえないふりをしそうになったが、やめた。
「どういたしまして。……で、どこから来たの? 何者?」
「シロ。名前はシロ」
「シロね。私はシエル。郵便配達員」
「知ってる。あんたがよくこのへんを飛んでるのは見てた」
「見てたって……崖の上から?」
「崖のてっぺんが、一番空に近いから」
シロはそう言って、また空を見上げた。まっすぐ上を向いて、目を細める。その横顔に、シエルは何も言えなくなった。
空が、高かった。
今日はよく晴れていて、雲が少なく、遠くまで青が続いている。あの青の向こうに、他の島がある。まだ見たことのない島が、きっとたくさんある。
「俺さ」
シロが、ぽつりと言った。
「伝説の絵の具を探してるんだ」
「伝説の、絵の具?」
「世界の果てにある島に、何でも描けるすごい絵の具があるって話だ。それで自分の体に柄を描けば、絨毯が出せるようになる。本当かどうかは知らないけど」
「知らないけど、探してるの?」
「そうだニャ。他に方法がないから」
シロはシエルを見た。金色の目が、まっすぐシエルを見た。
「俺は空を飛びたい。自分の絨毯で、世界一かっこいい飛び方で、どこまでも飛んでいきたい。それだけだ」
シエルは返事に少し困った。
夢、というやつだ。
シエルにも昔はあった気がするが、今はよく思い出せない。毎日の配達に追われているうちに、どこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。
「……次の島まで、乗せていってあげるよ」
気がつくと、そう言っていた。
シロの耳がピンと立った。
「ほんとに?」
「ほんとに。一人で崖から飛び降り続けてたら、いつか本当に死ぬから。次の島まで、それから先は自分でなんとかしなさい」
「……ありがとうニャ」
また、ものすごく小さい声だった。
シエルは前を向いて、絨毯を走らせた。灯台への配達が、まだ残っていた。




