第44話 マル
ローナは一人で家に座っていた。
静かだった。すきま風の音まではっきり聞こえるほどに。
でも頭の中は酒場の光景でいっぱいだった。
イノの掌で弾けた火花。
セイラスの手。
骨の砕ける音。
あんなになるまで打ちのめされても。
立ち上がった。
あれが本当にイノだったのか。
目を閉じた。
「ローナ姉ちゃん——!待って!」
振り返ると。
夕暮れの光が道に落ちて、イノの小さな影がよたよたとこちらへ追いかけてきた。靴に泥がついていて、頬が赤かった。
「ローナ姉ちゃん——!」
自分より半頭分小さいその男の子が、やっと追いついて、顔を上げ、こちらに笑いかけた。
光景が揺れた。
草むらで虫が鳴いていた。
イノがそこにしゃがんで、何かをいじっていた。
近づいて覗き込むと。
エノコログサを一本手に持って、コオロギをつついていた。
こちらに気づいた瞬間、目が輝いた。
「ローナ姉ちゃん!見て!」
ローナは半歩後ずさった。
イノは構わず頭を下げてコオロギをつつき続けた。
うごめくコオロギを見ていると、鳥肌が立って、胸の中が妙に苛立った。
次の瞬間。
足を踏み下ろした。
イノが固まった。
顔を上げてローナを見て、目の縁がみるみる赤くなった。
ローナは強がって言った。「どうせ遊んでたって死ぬんだから!」
イノは何も言わなかった。ただゆっくり立ち上がって、頭を下げたまま後ろについてきた。
それ以上声を出さなかった。
夕暮れが落ちかけた頃、二人が分かれ道に差し掛かってから、彼がようやく小さな声で言った。「もう怒らないで、ローナ姉ちゃん」
「虫、もう触らないから」
ローナは足を止めた。
違う。
あのとき本当に言いたかったのはそれじゃなかった。
言いたかったのは——
ごめん、虫が怖いの。
——————
コンコン——
ノックの音で、ローナははっと我に返った。
部屋にはまだ自分一人だった。
コンコン——
立ち上がって灯りをつけた。
「誰?」
「ローナ姉ちゃん、俺、マルだ」
——————
マルが戸口に立っていた。まだ息が整っていなかった。
「マル?こんな時間にどうしたの」
「ローナ姉ちゃん、中で話していい?」
ローナが場所を空けた。
「入って」
マルは入る前に振り返って外を見た。
ローナが扉を閉めて向き直った。
「こんな時間に、何かあった?」
「ローナ姉ちゃん、ユージンを助けてほしいんだ」
ローナが一瞬止まった。「え?」
「ユージンがここ数日おかしい。本当におかしい」
マルが早口で言った。
「ゆっくり話して。ユージンがどうしたの?」
マルが唾を飲んだ。続けた。「俺、寝ぼけて聞き間違えたのかもしれない」
「冗談で言ったのかもしれない。でもユージンが本当におかしいんだ」
「言ってることもおかしい。顔色もおかしい」
「とにかく全部おかしい」
「殺すなんて……そんなの、おかしいだろ」
ローナがじっと見た。
「誰が誰を殺すの?」
マルが問いに詰まった。
「ユージンが……リオン様に、イノを殺せって言われたって」
部屋が一瞬静まった。
ローナが眉をひそめた。「マル、本当に?冗談じゃないのね」
「わからない」
マルがすぐに首を振り、一歩前へ出た。
「でもユージンが本気でそんなことしたいわけじゃないと思う!」
「ただここ数日変なんだ」
「ローナ姉ちゃんなら、どうにかしてくれると思って」
「ローナ姉ちゃん、助けてやってよ」
言い終わる前に、扉が勢いよく開いた。
ユージンだった。暗い顔で戸口に立っていた。
まずローナを見て、それからマルを見た。
「何の話をしてた?」
ローナがマルを引き寄せようとしたが、マルはもうユージンの横に歩み寄っていた。
「ユージン、怒らないでくれよ」
「ローナ姉ちゃんと一緒に考えようと思っただけだから」
ユージンがマルを見つめた。
「考える?何を?」
「俺を売るのが、お前の考えか?」
「違う、ユージン、聞いてよ——」
ローナがマルの言葉を遮った。
「こっちに来て。あの人と話さなくていい。友達まで殺そうとしてる人よ」
ユージンが鼻で笑った。
「友達?」
「誰の?」
「イノの?」
「それともお前の?」
ローナの顔が沈んだ。
「自分が今どうなってるか、見えてないの?」
ユージンが部屋の中に一歩踏み込んだ。ローナが一歩退いた。
「また説教か?」
「俺より少し年上なだけだろ」
「自分がどんな顔してるか、見てみろよ」
マルが左右を見て、焦った顔をしていた。
ユージンが部屋を見回した。
「この場所、見てみろよ。俺と何が違う?」
「死んだ人間の残した家に住んでるのは、お前も同じだろ」
ローナの口元が震えた。声が上がった。
「少なくとも、ここは父さんが残してくれた場所よ」
「あなたは?」
歯の間から言葉が出た。「奴隷のくせに」
「そうだよ」
ユージンはまったく動じなかった。怒りさえ浮かばなかった。
「ああ、正しいよ。俺たちは奴隷だ」
「しかも主人すらいない奴隷だ。前の主人の家に居座ってるだけの奴隷だ」
ローナはその言葉を受け流して続けた。「なんでイノを殺すの?」
「イノがどれだけ助けてくれたか、イノがあなたに何か悪いことした?」
その言葉が落ちた瞬間、ユージンが少し止まった。
マルが急いで前へ出ようとした。
ユージンがその肩を突き飛ばした。
「くそ、なんでお前ら全員それを言うんだよ」
「あいつには母親がいる。あのハーンってやつまで守ってやがる」
「そうだよ、みんなイノが好きなんだよね。リオン様の前でも、人間みたいな顔して立っていられる。大したもんだよな」
「じゃあ俺たちは何だ。俺たちに何がある?」
また一歩前へ出って、声がどんどん険しくなった。
「お前だって俺と何が違うんだよ?今になってわかったぞ、なんでお前の母親がお前を捨てたか——」
ローナの顔が固まった。
ユージンが辺りをぐるりと見渡して、手当たり次第に指さした。
「お前の父親はここで死んだのか?」
別の場所を指した。
「それともあっちか?どこで喉を掻っ切ったんだ?」
マルが慌てた。
「ユージン、やめてよ——」
ユージンの顔はもうまともじゃなかった。
「イノ、イノ、イノ」
「なんであいつはあんなに楽しそうに生きてんだよ」
「なんで?」
「俺はただ生きたいだけで、それが悪いのか」
「悪いのは俺か?」
「あ?」
ローナを見据えて、一字一字言った。「俺は、あいつを殺す」
「逃げられない」
「もう全部、仕込んである」
「あいつは死ぬ」
ローナがやっと口を開いた。
「仕込んであるって……何をしたの?」
ユージンが突然笑い出した。首を振った。「俺がここまで話してやってもまだそっちの心配かよ」
「なんだよ」
「俺たちの姉貴分は、イノのことが好きだったのかよ?」
「じゃあ教えてやるよ、イノはもう死ぬんだよ」
ローナが隙を見て扉へ向かって走った。
ユージンが腕を掴んで、床に叩きつけた。
マルが本当に慌てて、ユージンに飛びついた。
「ユージン、やめて!」
ユージンが逆手で押しのけた。
「どこ行くつもりだよ」
「あいつに知らせに行くのか」
「先にお前を殺してやる」
マルがよろめきながらまた飛びついた。
「ユージン、ユージン、俺が悪かった、悪かったから」
「やめてくれ」
「やめてよ——」
ユージンが振り払うと、マルはまたよろめいた。それでもすぐに二人の間に割り込んだ。
「ユージン、ユージン——
まだあるから……まだ、飢えなくて済むから……」
ユージンがやっとマルを見た。
「お前、頭おかしいのか」
マルが手を伸ばして、あの半枚の金貨を差し出した。
「持ってて。これ、先に持ってて——」
ユージンが突き飛ばした。
「お前も馬鹿かよ、どけ!」
マルが卓の角にぶつかって、低く痛そうな声を上げた。それでも手はずっとその半枚の金貨を握り続けていた。
ローナは床に倒れたまま、手探りで周囲を探った。椅子の脚にぶつかり、その先で冷たい金属に触れた。
倒れた燭台だった。
掴み上げた。
ユージンがまたこちらへ歩いてきた。
「逃げてみろよ」
「口だけは達者なんだろ」
「行けよ、教えに行けよ——」
ローナは床に手をついたまま後ずさり、卓の脚に背中がぶつかるまで退いた。
「来ないで!」
マルの顔から焦りが恐怖に変わった。
「ユージン!」
また飛びついて、死んでも離さないようにユージンを抱えた。
「まだ大丈夫だよ。まだ、飢えなくて済むから……」
そう言いながら、あの半枚の金貨をユージンの手に押し込もうとしていた。
「持ってて、持っててよ」
ユージンが勢いよく振り払い、マルがよろめいた。それでも体は二人の間に立ち続けた。
ローナには、目の前の人影がはっきり見えていなかった。制御を失った声がどんどん近づいてきた。
燭台を掴んで、思い切り振った。
ごん。
マルがそこに立ったまま、体が揺れた。
ゆっくり頭を下げた。
血が額の端から伝って、鼻筋を滑っていった。
ユージンが固まった。
「マル?」
マルが口を開いた。ただユージンを見ていた。
次の瞬間、真っ直ぐに倒れた。
どさり。
今度の音は、もっと小さかった。
ユージンが自分の手の中の半枚の金貨を見下ろした。
それから床の上のマルを見た。
ローナはユージンを見ていた。血のついた燭台を両手でぎゅっと握ったまま。
ユージンと目が合った瞬間、ローナの背中が冷えた。
マルをもう一度見ることもなく、勢いよく振り返り、よろめきながら外へ飛び出した。
扉が音を立てた。
部屋にはまた、彼女一人だけが残った。




