第42話 赤髪の少女 II
イノは間に立ったまま、前を見上げて、思わず固まった。
イレーナはまだそこに座っていた。片手で顔を支えて、かすかな笑みを含んでイノを見ていた。
セイラスのいた場所が、空だった。
(え?)
イノが勢いよく振り返った。
セイラスの大きな体がマリアンをほぼ覆っていた。両手が平らに彼女の肩に乗っている。
彼女は一声も出さなかった。
顔から色が消えて、体ごと凍りついていた。
ここでやっと、酒場の他の客たちが我に返った。
場が静まり返った。
イレーナがそれを眺めた。
「少し躾けてあげて」
セイラスが横目で見て、眉間にかすかな苛立ちが走った。
イレーナの目から笑みが薄れた。
「片脚、折ってちょうだい」
セイラスがやっと手を上げた。
——————
動き出した瞬間、イノはすでに飛び込んでいた。
マリアンをセイラスの手の下から引き剥がして、後ろへ思い切り押した。
よろめいて地面に倒れた。
次の瞬間。
イノの衿が掴まれた。
セイラスの三本目の腕だった。
軽々と、体ごと宙に持ち上げられた。
ローナが声を上げた。
「イノ——!」
反射的に駆け出そうとした。
店主が腕を掴んだ。
「行くな!」
声を絞って、こめかみに青筋を立てていた。
「死にたいか!」
店主がイレーナに向き直り、頭を下げた。
「イレーナ様……この子は町の子どもです」
唾を飲んだ。
「ヴィセス家は……本来、こういう子どもを守ってくださる家ではありませんか」
イレーナが少し目を上げた。
「殺さない程度にして」
——————
セイラスがイノを見下ろした。
「さっきので足りなかったか?」
マリアンが地面から起き上がり、セイラスの腕にしがみついた。
「やめて——」
その一瞬。
セイラスの視線がマリアンに移った。
その隙に。
イノが両手でその腕を掴んだ。
膝を引き付けた。
セイラスの顔面めがけて、思い切り蹴り込んだ。
手を上げて防いだ。
鈍い音がした。
その目が静かに沈んだ。
次の瞬間。
そのまま無造作に振り払った。
イノとマリアンが一緒に飛んだ。
カウンターに叩きつけられた。
木椅子が倒れ、酒杯が砕け散った。
——————
イノはほとんど即座に手をついて立ち上がった。
マリアンの目にやっと恐怖が溢れてきた。
震えながら、無意識にイノの裾を掴んだ。
イレーナの声が背後から落ちた。
「セイラス」
今度は。
声の中に笑みがなかった。
セイラスはその場に立ったまま。
淡々と言った。
「まだ子どもだぞ」
「セイラス」
少し黙ってから。
やはり足を踏み出した。
その一歩が落ちたとき。
イノは、背中に貼りついたマリアンの震えを感じた。
——————
彼女の裾を掴む手を外した。
自分からセイラスへ向かった。
右手を上げた。
セレイナに教わった呪文が、胸の中で一閃した。
掌の上で、火花が爆ぜた。
火はまだ歪で、不完全だった。
それでもこの距離なら、焼くには十分だった。
セイラスの目が変わった。
(詠唱が速い!)
三本目の腕が跳ね上がった。
火花の中で、甲が一瞬光った。
何の苦もなく、その火花を薙ぎ散らした。
灰を払うように軽かった。
甲の上に残る淡黄色の紋様を見下ろした。
「精霊魔法か?」
——————
その目が、初めてイノを正面から捉えた。
セイラスがイレーナを振り返った。
(「ただの子ども」というのは、この子のことか?)
イレーナはただ彼を見ていた。
小さく頷いた。
目の奥の興味がもう隠せなかった。
セイラスが改めてイノを見た。
「なるほど。その度胸はそこからか」
「誰に習った?」
イノの心臓が痛いほど打っていた。
視線はセイラスから外れなかった。
半歩も退かなかった。
「彼女を行かせろ」
——————
ローナは何が起きているのか、もうわからなくなっていた。
あの炎を見て、目の前の少年が誰なのか一瞬わからなくなった。
セイラスは反応しなかった。
イノはマリアンを振り返らなかった。
「下がれ」
声が震えていた。
「お姉さんのところへ行かせる」
(夜嵐)
イノの指がそこで止まった。
(駄目だ。
こんなに人がいる。
人前で指輪から刀を出したら……
……他に方法はないのか?)
——————
イノが前へ跳んだ。
左手を薙いだ。
火花が爆ぜて、セイラスの顔面へ飛んだ。
(掌を刀にする!)
セイラスが三本目の腕を上げて防いだ。
右拳がイノの左腕を横から打った。
「バキッ」——
骨の割れる音が空気の中でやけにはっきり響いた。
しかし拳が落ちた瞬間、セイラスは気づいた。何かがおかしい。
イノの右掌がすでに腰から滑り込んでいた。
風刃が掌の縁に絡んでいた。
その手は、抜き放たれる寸前の刀のように張り詰めていて、冷たい殺気を帯びたまま、セイラスの喉へ突いてきた。
セイラスが身を傾けて後ろへ引いた。
その一撃も届かなかった。
しかし頬を、風刃が一筋裂いていた。
血が顔を伝って落ちた。
——————
セイラスが指先の血を見た。
その目が完全に冷えた。
余分な動作は何もなかった。
三本目の腕がイノの頭を鷲掴みにして、真下へ叩きつけた。
ドン。
床が揺れた。
イノの視界が暗くなった。
続けて——
膝裏。
肩口。
脇腹。
拳が次々と落ちた。
静かで、絶対的な制圧だった。
——————
店主はローナの肩を全力で押さえていた。
ローナは唇を噛み切るほど噛んで、涙がとっくに流れていた。
骨の砕ける音が、何度も続いた。
妙にはっきりとした音だった。
セイラスがイノを無造作に床へ投げ捨てた。
両腕が歪んでいた。胸が陥没していた。脚の骨も明らかに折れていた。
全身を血の中に丸めて、かすかな、掠れた呻き声だけが漏れた。
——————
マリアンが真っ先に駆け寄った。
手を伸ばして、空中で固まった。
どこもかしこも血だらけだった。
砕けた骨が皮膚を内側から押し上げていた。
どこに触れればいいのかわからなかった。
セイラスがマリアンを地面から引き上げた。
「放して——!」
必死に暴れた。
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ずっと隅で頭を下げて酒を飲んでいた細身の女が、そこで初めてわずかに頭を傾けた。
乱れた黒髪の間から、灰色の靄がかかったような目が覗いた。
見えた。
淡い赤みがかった魔力が、地面からひっそりと、砕けた体に絡みついていた。
しかし次の瞬間、床に転がった血まみれの体が、動いた。
まず指が、引きつるように動いた。
それから肩の骨。
歯が浮くような細かい音とともに、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
胸の陥没が少しずつ持ち上がった。
裂けた皮膚が素早く塞がった。
血が止まった。
骨が繋がった。
イノが手をついて、立ち上がった。
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酒場が死んだように静まり返った。
セイラスが初めて、本当に足を止めた。
振り返ってイノを見た。目の奥に警戒が浮いた。
魔法が使えるというだけなら、面倒なだけだ。
しかしこれほど打ちのめされて、これほど短い時間で立ち上がるというのは——
「面倒」という言葉では説明がつかない。
この子どもの後ろに立っているのは、どう考えても並の魔導師ではない。
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イレーナがイノの方へ、二歩ほど歩み寄った。
「そんなに、この子を連れていきたいの?」
「イレーナ」
セイラスが低く言った。
「もういい」
彼女が振り返り、笑った。
「等価交換よ」
セイラスが目を閉じて、眉を寄せた。
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イノはまだ骨が繋がる痛みの中で震えていた。
喉に何か言おうとしたが、震えた息が一つ漏れるだけだった。
イレーナがイノを見た。
「お金を出しなさい」
イノが一瞬止まった。
ほとんど迷わなかった。体中を手で探った。
掌が血で濡れていた。
硬貨が少し赤く染まった。
一歩一歩、イレーナの前まで歩いた。
差し出した。
「これで足りますか?」
「これしかない」
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イレーナが目を落として、その硬貨を見て、ふいに笑った。
手を伸ばして受け取った。
その瞬間——
セイラスが手を上げて、マリアンの首を掴んだ。
こきり。
音は小さかった。
マリアンの体から力が抜けた。
イレーナが手の中の血に染まった硬貨を見下ろした。
「この程度では——」
顔を上げた。笑みは穏やかだった。
「死体しか買えないわ」




