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第39話 書と石

マリアンを見送って、イノは木の下に長いことそのまま座っていた。


指輪にそっと触れた。

次の瞬間、以前手に入れた古い書が手の中に落ちてきた。


表と裏を何度か確かめた。


「全部文字だ……」


長く息を吐いた。

深夜の静けさが思考をやけに澄ませる。


書を見つめながら、指先が無意識に表紙の割れた跡を撫でていた。


刀譜(とうふ)……?」


イノはあの遠い地の言葉を聞き取れる。書の文字も、塔語として流れるように読み出せた。


(なぜだ?)


指先が指輪に触れた。

(これのせいか?)


ページを開いた。


「我、この戦より帰らぬと知り、七式をここに遺す。我が一生に斬り断ちしもの、その志を記す。」


文字が目に入った瞬間、刃の影が頭の中に突然形を成した。


最後のページまで素早く繰った。


「この書を見る者あらば、この世はいまだ尽きていない」


「七式、これを汝へのはなむけとする」


イノはその一行を見つめ、眉の間に小さく皺を寄せた。


「どういう意味だ?」


——————


翌日 昼 


力の鍛錬を終えたイノはそのまま止まらなかった。


目を閉じ、手に木の棒を握っていた。


セレイナは石の上に腰かけて、イノが手に入れた古書をめくっていた。雲の隙間から日が差して、黄ばんだ紙の上に落ちている。

今朝一番に、イノはこの書をセレイナに渡していた。

「偶然拾ったんです。見てもらえますか」


セレイナは書を受け取り、すぐには何も言わなかった。


イノが全く読めないわけではないことは、わかっていた。


一ページ目を開いた。


東方の古い文字が目に飛び込んだ瞬間、頭の中にイノが石碑を読んだときの光景が先に蘇った。


(造物主の言葉が読める……

イノ・ストヴォーク、お前はいったい何者なんだ。)


「先生、お願いします」


セレイナが顔を上げてイノを一瞥し、静かに読み上げた。


「敵いまだ至らず、心すでに尽く。人にも神にも非ざる陣を割き、一式出ずれば万象皆裂く——」


イノが目を開いた瞬間——


砂煙、砕けた骨、裂けた城壁。

黒い影が地平の果てを突き破り、手にした巨刃が虚空を横断する。砂礫を巻いた気圧が顔に叩きつけてきた。


木の棒が振られた。動きはまだぎこちない。しかし初めて学ぶ者が持つはずの鈍さがなかった。


東方の武技において問われるのは、「形」の模倣ではなく、「意」の貫通だった。


セレイナはイノが文字を読めることは予想していた。だが「意」まで捉えているとは思っていなかった。


武技における天賦と勘が、ひどく常軌(じょうき)を逸していた。


横に薙いだ瞬間、空気が割れて、かすかな裂け音が届いた。


棒の先端が灰白色の弧を引き、風が砂を巻くように、地面にうっすらと跡が浮いた。刃が掠めたような跡だった。


セレイナが目を細めた。


東方の頂点に立つ武技は、それ自体が術式の器だ。型は言語であり、動きは詠唱になる。

だが初めて学んで術式が顕れた者など、見たことがなかった。


自分の目で見ていなければ、イノがまだ半日も稽古していないなど、信じられなかっただろう。


しかし、その一打の後、風の音は二度と来なかった。


静かに息をついた。


(どれほど天才があろうとも……)


その後のイノと無火王むかおうの稽古は最初と何ら変わらなかった。

正午から夜が落ちるまで、ひたすら一方的に押さえ込まれ続けた。


家が近くなったところで、セレイナが足を止めた。


イノが二歩進んでから気づいて振り返った。


「どうかしたんですか」


「あなたの家に客がいる」


言い終わると、もう半歩退いていた。暗がりが後ろから広がってきて、その影をゆっくり飲み込んでいった。


イノはしばらくその場に立って見ていたが、それ以上聞かずに振り返って家へ歩いた。


扉を押すと、エリーナが卓の前に座っていた。


「イノ、おかえり!」


卓の脇にもう一人いた。


ロウェンだった。


今日は学院で着ているあの目立つ外衣ではなく、濃い色の地味な服に変わっていた。手の脇に折りたたんだ紙が置いてあって、イノに気づくと自然に軽く手を上げた。


「こんばんは、イノ」


もう一人、フラカが立っていた。


座らず、卓の茶にも手をつけていなかった。ロウェンの斜め後ろに半歩分の距離を置いて静かに立っていて、灯りがその冷たさと鋭さをいっそう際立たせていた。


「……ロウェン? なんで来たんだ?」


イノが少し驚いて、すぐにエリーナを見た。


エリーナが笑いながら言った。


「ロウェン様とフラカさんが少し前にいらしてね。学院の件でイノに話があるって。


この子ったら、こんな立派なお友達がいるなら、早く言ってくれればよかったのに。」


「友達」という言葉を聞いたとき、イノの睫毛がかすかに揺れた。


ロウェンは小さく笑って、脇の紙を持ち上げた。


「突然押しかけてしまってすみません。大したことじゃないんですが、先日イノが学院に来たとき、ちょうど僕が当番で。書類に一箇所サインが抜けていて、本人がなかなか来ないものだから、直接伺いました」


紙をイノの方へ差し出した。


「こちらはフラカ。幼馴染です。他のところは全部記入済みなので、名前だけ書いてもらえれば」


イノが頷いた。


「よろしく」


フラカがロウェンをちらりと見て、低くぼやいた。


「誰があんたの……」


そのままイノを見た。


「よろしく」


イノが歩み寄ると、横を通り過ぎる瞬間、フラカの鼻先がごく微かに動いた。


香りは薄くて、錯覚に近かった。それでも彼女の視線が一瞬だけ止まり、体が一拍張った。反射的にロウェンの方へわずかに寄って、唇が動きかけたとき、ロウェンが先に口を開いた。


「それにしても」ロウェンはイノを見て笑った。「図書室に僕を一人残していくとは」


イノがちらりと顔を上げた。


ロウェンの笑顔は全く変わらなかった。


「……すみません」


「いえいえ」ロウェンが手を振った。口ぶりは軽い。「家を探すのに少し手間取りました。フラカがいなかったら今ごろまだ外を回っていたと思います」


イノが頭を下げて紙を受け取り、ロウェンの隣に座って筆を取り、名前を書いた。エリーナはその言葉に笑いながら言った。「そんな、わざわざ来ていただいて、こちらこそ失礼しました。何もお出しできるものがなくて……」


「十分ですよ」ロウェンが茶杯に手を添えた。「いただいたお茶が美味しくて」


「粗茶ですが、そう言っていただけて嬉しいです。」


ロウェンがエリーナを見て、屈託なく笑った。


「先日学院で、もうお腹いっぱいになるくらいいただきました。作ってくださったパン、本当に美味しかったです」


エリーナが目を丸くして、目に本物の驚きが浮かんだ。


「召し上がってくださったんですか?お集まりの方々はお口に合いましたか?」


イノが少し固まって、すぐにロウェンを見た。


「印象に残る味でした」


エリーナが笑い声を上げた。顔の硬さがだいぶ薄れた。


「あんな大きな注文は初めてで、ずっと足りなかったらどうしようって心配していたんです」


ロウェンが椅子の背にもたれてイノを横目で見た。


「パンが縁でお近づきになれたようなものです」


イノは筆を置いて書いた紙を返した。


「できました」


「ありがとう」ロウェンが紙を受け取った。動作に急ぎがない。


エリーナは二人を見て、フラカも見て、口を開きかけてから結局笑った。


「それにしてもイノも、うっかり者ね。ロウェン様を直接呼びつけてしまって」


「いえ、構いません」ロウェンが笑った。「学院はもともと息が詰まるので、外に出るいい口実になりました」


そう言いながら立ち上がった。


フラカの視線が部屋の中をごく軽く一巡りした。


「用事も済んだので、そろそろ失礼します」ロウェンが紙を懐にしまい、エリーナに小さく礼をした。「ストヴォーク夫人、夜分に突然伺いまして。お茶、美味しかったです」


エリーナも慌てて立ち上がった。


「とんでもない、お越しいただいて光栄です」


フラカもようやく口を開いた。


「お邪魔しました」


言い終えてからイノの顔に視線を合わせ、一瞬だけ止めて、すぐに外した。


イノが立ち上がって扉まで二人を送った。


そのとき、エリーナが後ろから小さな籠を提げてきて、ロウェンに渡した。


「よろしければ、学院で召し上がってください。」


ロウェンが笑顔で受け取った。


「ありがとうございます。外は冷えますから、中にお入りください。また機会があれば、お店に伺います」


「ぜひ、お待ちしています」エリーナは目元まで笑っていた。「ゆっくり話してらっしゃい。私は先に中へ入ってるから」


そう言って、家の中へ戻っていった。


ロウェンが扉から出る前にイノへ一言残した。


「また暇なときに遊びに来るよ。」


「ああ、また。」


ロウェンが小さく笑って、それ以上何も言わず夜の中に出ていった。


二人は細道を少し歩いた。家の灯りが後ろに遠くなっていく。


ロウェンがようやくのんびりと口を開いた。


「それで、魔導器か?」


フラカが半歩後ろについて歩いていた。


「指輪のこと?」


「ああ」ロウェンがパンの籠を揺らした。


フラカが眉をひそめて、答えが速かった。「魔力の気配がない」


「全くか?」


「全く」


ロウェンが横目で見た。


「考えすぎだったかな」


「普通の指輪か。でなければ最高位の魔導器か」


ロウェンは足を止めずに、口の端だけかすかに上げた。


「それはちょっと怖い話だな」


「私も、考えすぎであってほしい」


言い終えてから唇を引いた。表情は少しも緩まなかった。


ロウェンが横を向いた。


「さっきからおかしいぞ」


フラカがちらりと見た。「あなただってずっと指輪を見ていた。

まさか本当に『セルヴィアン』だと思ってるんじゃないでしょうね」


ロウェンが舌打ちした。


「そんなに露骨だったか?」


「非常に露骨」フラカが遠慮なく言った。「あなた、昔から嘘が下手なのよ」


「子供のころは誰に毎回まるめ込まれてたんだっけ?」


「あのころは私の目が節穴だっただけ」


「今は?」


「今は脳みそがある」


ロウェンが一声笑って、それ以上引っ張らなかった。


「学院から誰にも知られずに出たというだけで、十分すぎる話だ」


フラカの眉がいっそう寄った。


「指輪より、別のことの方が気になる」


「何が?」


少し間を置いた。


「魔力の残滓(ざんし)がある」


ロウェンの歩みがほんのわずかに止まった。


「魔法が使えるということか?」


「最初はそう思った。でも違う気がする」


フラカがこめかみを指で押さえた。


「どこが違う?」


「薄すぎる。もうほとんど散り切っているみたいに」フラカは低く言った。「それがかえっておかしい」


ロウェンが振り返った。


「わかるように言ってくれ」


フラカがじろりと見た。


「……香りがある」


「香り?」ロウェンが一拍遅れてから笑い出した。「匂いまで気になるとは、重症だな」


「ロウェン」


ロウェンが見た。笑いが引いた。


「深刻か?」


「おかしい」


フラカがゆっくり口を開いた。「香料じゃない。魔力に……香りがある」


「薬か何かではなく?」


「あの感覚が何なのかわからない。でも私が影響を受けたのは確か」


「お前が影響を受けるとは。加護魔法か何かか?」


「加護だけなら、こんな言い方はしない」


「では何だ?」


フラカが二息分黙ってから低く言った。「もしあれが魔法の残滓でないなら……

誰かの魔力が、あいつに付着しているということになる」


ロウェンが横目で見た。


フラカが目を上げた。その顔は普段より珍しく真剣で、冷たさに近かった。


「並の人間じゃない」


「どのくらい並じゃない?」


「少なくとも……」そこまで言ってから、自分でも馬鹿げていると思ったように唇を噛んだ。「少なくとも、師匠にできるかどうか私には自信がない」


ロウェンが完全に笑いをやめた。


「おい」


「わかってる」フラカが苛立たしそうに前髪を掻き上げた。「自分でも頭がおかしいと思う」


「思うどころか」


「黙って」


ロウェンが口を閉じた。表情も落ちた。


「爺さんより規格外の何かが、さっきあいつのそばを離れたということか?」


「そうは言っていない」フラカがすぐに返した。「わからないと言った」


少し間が空いた。声がさらに小さくなった。


「もしかしたら単純に……漏れていただけかもしれない」


ロウェンの目が変わった。


「魔力の漏出?」


フラカは前の暗い道を見て、喉が動いた。


ロウェンが急に足を止めた。


「自分が何を言っているかわかってるか?」


「だからわからないって言ってるでしょ!」フラカも少し声が荒れた。「私だってこんなことを言いたくない」


「爺さんならできるか?」


フラカが首を振った。


夜の中で、二人が黙って視線を交わした。


先に目を外したのはフラカだった。


「馬鹿げてる……この先を考えると、四帝の話になってしまう」低く呟いた。「なぜ城郊の平民の家に……」


ふいに何かを思い出したように、勢いよく顔を上げた。


「待って、もう一つある」


「何だ?」


「師匠があなたに石を渡したでしょ」


ロウェンが少し固まって、すぐに振り返った。


「あの石のことか?」


「持ってる?」


「持ってるけど」ロウェンが腰の小袋を探った。「あんなもの、場所を取る以外に何の役にも立たないと思ってたが」


「出して」


「そんなに急かすな——」


「早く」


ロウェンが口をへの字にしながら袋から小箱を取り出して渡した。


フラカが受け取って、指が蓋に触れた瞬間、動きが止まった。


「……一度も開けたことがないの?」


「爺さんにもらったものなんて、十個に九個半は、俺をからかうためのもんだろ」


「これは違う」


「いつもそう言う」


「黙って」


フラカが蓋を開けた。


「……光ってる」


眩いばかりの青い光が石の内側から層を成してにじみ出て、二人の顔を照らした。


ロウェンがその光を見つめた。「何だこれ」


フラカの顔色がすでに半分白くなっていた。


「ロウェン様」


声が先ほどより一段、真剣だった。


「急いで戻らないといけない」


「突然どうした?」


フラカが顔を上げた。目の中にその冷たい光が映っていた。


「悪魔がいる」

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