表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/40

第35話 朽木誠仁

霧がいっそう濃くなった。


誠仁は額の汗を拭い、ちょうどいい距離を保ってついてくるイノをちらりと見てから、長く息を吐いて、ゆっくりと足を緩めた。


やがて、二人が並んだ。


「一人の男がいた。今朝、妻と一緒に出かけようとしていた。いい場所があると言って」


誠仁がふいに話し始めた。

語り口は乾いていて、平らだった。喜びも悲しみも聞こえない。


「そこへ、誰かが訪ねてきた。長年の誤解を解きたいと言って」


二人の歩みは遅い。


イノは誠仁をちらりと見た。表情は見えなかった。声は本でも読み上げているようだった。


「戸口に立って、聞こえのいい言葉を並べた」


「男は信じた」


風が誠仁の裾の下を抜けていく。


「妻まで連れていった。

……それが最初の間違いだった」


イノは眉をひそめた。


「二つ目は——」


誠仁は言い切らなかった。


ただ、かすかに笑った。


「本当に信じていたんだ」


少し頭を傾ける。風が(びん)の髪を乱した。


「車から蹴り落とされた。そのまま……妻が連れていかれるのを見ていた」


誠仁の声が一瞬止まり、二人の足音だけが残った。


「あの家は、霧見崎では名の知れた家だ」


「でも誰が覚えているか。あの男の家も、かつてはそうだったことを」


誠仁の足が小石を踏んだ。静かな中で、その音だけが耳に刺さった。


「やがて没落した」


「土地が残った。鎧が残った」


「誰も覚えていない名前が、山ほど残った」


「それでも日々は……穏やかだった」


誠仁が薄く笑った。口の端が動いたが、温かさはなかった。


「あの男は刀より本が好きだった」


「惜しいことに、父親が正直すぎた。それと、鈍すぎた」


「恨みを持つ者がいても、父親は持ち続けなかった」


「だから誰かが、ずっと覚えていた。そしてある夜、父親に収賄(しゅうわい)務怠職慢(しょくむたいまん)の罪名が被せられた」


霧が足元で渦を巻く。イノは頭を下げたまま歩いていた。


「母親が——」


誠仁が深く息を吸い、今度は長く間が空いた。


「広間に跪いた。人前で。両の脚を折った」


イノは無意識に着物の裾を握り締めた。呼吸が、ほとんど聞こえなくなった。


長い沈黙の後、


誠仁がまた口を開いた。「父親を一日だけ外に出してもらった」


「だが父親は言った。『これは家の恥だ』と」


その言葉を繰り返すとき、誠仁の声はくぐもっていた。


「父親は牛車(ぎっしゃ)に乗せられ、市街を堂々と通り抜けた」


誠仁の肩が硬くなった。


「翌日、また連れ戻された。今度は、牢の扉が二度と開かなかった」


「母親は脚を折ってから、風邪を引いた」


「一年後、母親は逝った」


「咳の音が、頭から消えなくなった」


誠仁の口元が動いた。何かをこらえているようだった。


「父親に、誰を怒らせたのか聞きに行った」


「父親はただ言った。『自分は誰も傷つけていない』と」


イノの胸が重くなった。


「その年、十四歳。母親が逝った。父親も逝った」


「今、十七歳。結婚してまだ日が浅い」


「妻は元使用人の娘だ。花が好きで、甘いものが好きだ」


誠仁の歩みがさらに遅くなった。


「もう終わったと思っていた。仇は討たないと決めた」


「本に書いてあった。恨みの連鎖に終わりはないと。信じていた」


「今日まで、やっと知った……」


誠仁は霧の深い向こう、終わりの見えない小道を見つめた。


言葉が、そこで止まった。


イノはうつむきながら黙ってついていたが、言葉が止まるのを聞いて、思わず顔を上げた。


誠仁が立ち止まっていた。

瞳孔(どうこ)がわずかに開き、視線が霧の一点に釘付けになっていた。


イノはその方向を見た——


霧が揺れる中に、小さな人影が一つ、道の真ん中に横たわっていた。

風が静かに通り過ぎ、その人の長い髪を一筋だけ吹き上げた。


イノの体が止まった。

体ごと振り返り、歩いてきた道を見た。

黄褐色の泥道に、深い車輪の跡が二本、刻まれていた。


——————


衿が引き裂かれ、片側の肩が剥き出しになっている。


皮膚には、掴まれ、抉られた跡が散らばっていた。


裾は無残に引き千切られ、両脚は不自然な角度で折れ曲がっていた。


目が、半分開いたままだった。


血が着物の裾の下から滲み出し、泥の地面を少しずつ這い広がっていた。


誠仁が止まった。


木々の影が揺れ、一人の人間が横から出てきた。刀を抜きながら。


武士だった。


(まげ)を結い、皺だらけの薄い鎧を着て、顔に何の色もない。


遺体のそばへ歩いた。


頭を下げて、血に染まった裾の一角を指先で捲った。一瞥した。


それから足を上げ、何の気もなく、彼女の胸を踏んだ。


石を踏むように。


武士が(わら)った。「死に顔、ひどいもんだな。

ちっ……」


声は低かった。


「ずっとお前の名前を呼んでいたぞ——」


誠仁が体ごとぶつかっていった。


「足を——

どけろ!!!」


武士は素早く動いた。ほぼ同時に刀を振り下ろす。刃が霧の中に弧を引いた。


誠仁が地面すれすれに伏せてかわした。


泥水が飛び散り、刃が背をかすめて風を裂いた。


両手を地面に突いて跳ね上がり、逆脚を叩き込む。


武士が急いで引いてかわし、体勢を整えたときには、誠仁がすでに遺体を抱えて後退していた。


片膝をつき、彼女をきつく胸に引き寄せた。


イノが駆け寄ったのはそのときだった。目の端で見たものが、心臓を締め上げた。


「彼女は……」


誠仁は額の血の張りついた髪をそっと払いのけ、頬の泥を一寸一寸拭い取ってから、静かにイノの足元の草の上に横たえた。


「イノ、一つ頼む」


「彼女を見ていてくれ」


イノは頷いた。「わかった」


誠仁は最後にもう一度だけ彼女を見た。その目に、初めて罪悪感が溢れた。


顔を上げたとき、目の中に何か歪んだ光が燃えていた。


武士が口を鳴らした。「朽木家にはもう——」


言い切る前に、誠仁が動いた。


刀の前まで貼りついていた。


刃が落ちる。誠仁は体を傾けてかわし、続けて密着したまま刀の勢いを捌く。


膝を一撃。


武士が二歩退いて怒鳴り、また刀を振り上げた。


誠仁は退かなかった。手のひらで手首を払い、刃先をずらす。耳元を風が鳴って過ぎた。


膝を二撃目。


さらに近く、さらに深く。


武士がよろめき、目つきが変わった。


誠仁がまた間合いを詰める。左手でフェイント、右の拳が脇腹に叩き込まれた。

距離を渡さない。霧の中で二つの影が絡み合う。


隙間がない。


イノは少し離れて立ったまま、握った手が白くなっていた。掌が湿っていた。

誠仁が刃を奪おうと体を沈めた。


武士が手首を振り、腰から短い刺刀(さしがたな)を引き抜いた。


近すぎる。


「ッ——」


血が出た。


誠仁は止まらなかった。出血を意に介さず動き続けた。


手が掴んだ。


肩がぶつかった。


膝を三撃目。


誠仁の動きが乱れ始めた。


一刀目。


空いた。


二刀目。


入った。


「ッ——」


誠仁の体が揺れたが、退かなかった。


むしろ近づいた。


「ドン!」横蹴りが来た。


誠仁が弾き飛ばされた。


片膝をついて、血が落ちていた。


武士がやっと一歩分の間を作り、息を吐いた。「危うく噛み殺されるところだった」


刀を再び構える。


誠仁が連続して退き、一瞬足元が乱れた。


次の瞬間、横から一蹴りが腰に叩き込まれた。


「ぐっ——」

誠仁が二歩飛ばされた。顔が白い。


「死ね!」


刃が、誠仁の胸へ真っ直ぐ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ