第35話 朽木誠仁
霧がいっそう濃くなった。
誠仁は額の汗を拭い、ちょうどいい距離を保ってついてくるイノをちらりと見てから、長く息を吐いて、ゆっくりと足を緩めた。
やがて、二人が並んだ。
「一人の男がいた。今朝、妻と一緒に出かけようとしていた。いい場所があると言って」
誠仁がふいに話し始めた。
語り口は乾いていて、平らだった。喜びも悲しみも聞こえない。
「そこへ、誰かが訪ねてきた。長年の誤解を解きたいと言って」
二人の歩みは遅い。
イノは誠仁をちらりと見た。表情は見えなかった。声は本でも読み上げているようだった。
「戸口に立って、聞こえのいい言葉を並べた」
「男は信じた」
風が誠仁の裾の下を抜けていく。
「妻まで連れていった。
……それが最初の間違いだった」
イノは眉をひそめた。
「二つ目は——」
誠仁は言い切らなかった。
ただ、かすかに笑った。
「本当に信じていたんだ」
少し頭を傾ける。風が鬢の髪を乱した。
「車から蹴り落とされた。そのまま……妻が連れていかれるのを見ていた」
誠仁の声が一瞬止まり、二人の足音だけが残った。
「あの家は、霧見崎では名の知れた家だ」
「でも誰が覚えているか。あの男の家も、かつてはそうだったことを」
誠仁の足が小石を踏んだ。静かな中で、その音だけが耳に刺さった。
「やがて没落した」
「土地が残った。鎧が残った」
「誰も覚えていない名前が、山ほど残った」
「それでも日々は……穏やかだった」
誠仁が薄く笑った。口の端が動いたが、温かさはなかった。
「あの男は刀より本が好きだった」
「惜しいことに、父親が正直すぎた。それと、鈍すぎた」
「恨みを持つ者がいても、父親は持ち続けなかった」
「だから誰かが、ずっと覚えていた。そしてある夜、父親に収賄と務怠職慢の罪名が被せられた」
霧が足元で渦を巻く。イノは頭を下げたまま歩いていた。
「母親が——」
誠仁が深く息を吸い、今度は長く間が空いた。
「広間に跪いた。人前で。両の脚を折った」
イノは無意識に着物の裾を握り締めた。呼吸が、ほとんど聞こえなくなった。
長い沈黙の後、
誠仁がまた口を開いた。「父親を一日だけ外に出してもらった」
「だが父親は言った。『これは家の恥だ』と」
その言葉を繰り返すとき、誠仁の声はくぐもっていた。
「父親は牛車に乗せられ、市街を堂々と通り抜けた」
誠仁の肩が硬くなった。
「翌日、また連れ戻された。今度は、牢の扉が二度と開かなかった」
「母親は脚を折ってから、風邪を引いた」
「一年後、母親は逝った」
「咳の音が、頭から消えなくなった」
誠仁の口元が動いた。何かをこらえているようだった。
「父親に、誰を怒らせたのか聞きに行った」
「父親はただ言った。『自分は誰も傷つけていない』と」
イノの胸が重くなった。
「その年、十四歳。母親が逝った。父親も逝った」
「今、十七歳。結婚してまだ日が浅い」
「妻は元使用人の娘だ。花が好きで、甘いものが好きだ」
誠仁の歩みがさらに遅くなった。
「もう終わったと思っていた。仇は討たないと決めた」
「本に書いてあった。恨みの連鎖に終わりはないと。信じていた」
「今日まで、やっと知った……」
誠仁は霧の深い向こう、終わりの見えない小道を見つめた。
言葉が、そこで止まった。
イノはうつむきながら黙ってついていたが、言葉が止まるのを聞いて、思わず顔を上げた。
誠仁が立ち止まっていた。
瞳孔がわずかに開き、視線が霧の一点に釘付けになっていた。
イノはその方向を見た——
霧が揺れる中に、小さな人影が一つ、道の真ん中に横たわっていた。
風が静かに通り過ぎ、その人の長い髪を一筋だけ吹き上げた。
イノの体が止まった。
体ごと振り返り、歩いてきた道を見た。
黄褐色の泥道に、深い車輪の跡が二本、刻まれていた。
——————
衿が引き裂かれ、片側の肩が剥き出しになっている。
皮膚には、掴まれ、抉られた跡が散らばっていた。
裾は無残に引き千切られ、両脚は不自然な角度で折れ曲がっていた。
目が、半分開いたままだった。
血が着物の裾の下から滲み出し、泥の地面を少しずつ這い広がっていた。
誠仁が止まった。
木々の影が揺れ、一人の人間が横から出てきた。刀を抜きながら。
武士だった。
髷を結い、皺だらけの薄い鎧を着て、顔に何の色もない。
遺体のそばへ歩いた。
頭を下げて、血に染まった裾の一角を指先で捲った。一瞥した。
それから足を上げ、何の気もなく、彼女の胸を踏んだ。
石を踏むように。
武士が嗤った。「死に顔、ひどいもんだな。
ちっ……」
声は低かった。
「ずっとお前の名前を呼んでいたぞ——」
誠仁が体ごとぶつかっていった。
「足を——
どけろ!!!」
武士は素早く動いた。ほぼ同時に刀を振り下ろす。刃が霧の中に弧を引いた。
誠仁が地面すれすれに伏せてかわした。
泥水が飛び散り、刃が背をかすめて風を裂いた。
両手を地面に突いて跳ね上がり、逆脚を叩き込む。
武士が急いで引いてかわし、体勢を整えたときには、誠仁がすでに遺体を抱えて後退していた。
片膝をつき、彼女をきつく胸に引き寄せた。
イノが駆け寄ったのはそのときだった。目の端で見たものが、心臓を締め上げた。
「彼女は……」
誠仁は額の血の張りついた髪をそっと払いのけ、頬の泥を一寸一寸拭い取ってから、静かにイノの足元の草の上に横たえた。
「イノ、一つ頼む」
「彼女を見ていてくれ」
イノは頷いた。「わかった」
誠仁は最後にもう一度だけ彼女を見た。その目に、初めて罪悪感が溢れた。
顔を上げたとき、目の中に何か歪んだ光が燃えていた。
武士が口を鳴らした。「朽木家にはもう——」
言い切る前に、誠仁が動いた。
刀の前まで貼りついていた。
刃が落ちる。誠仁は体を傾けてかわし、続けて密着したまま刀の勢いを捌く。
膝を一撃。
武士が二歩退いて怒鳴り、また刀を振り上げた。
誠仁は退かなかった。手のひらで手首を払い、刃先をずらす。耳元を風が鳴って過ぎた。
膝を二撃目。
さらに近く、さらに深く。
武士がよろめき、目つきが変わった。
誠仁がまた間合いを詰める。左手でフェイント、右の拳が脇腹に叩き込まれた。
距離を渡さない。霧の中で二つの影が絡み合う。
隙間がない。
イノは少し離れて立ったまま、握った手が白くなっていた。掌が湿っていた。
誠仁が刃を奪おうと体を沈めた。
武士が手首を振り、腰から短い刺刀を引き抜いた。
近すぎる。
「ッ——」
血が出た。
誠仁は止まらなかった。出血を意に介さず動き続けた。
手が掴んだ。
肩がぶつかった。
膝を三撃目。
誠仁の動きが乱れ始めた。
一刀目。
空いた。
二刀目。
入った。
「ッ——」
誠仁の体が揺れたが、退かなかった。
むしろ近づいた。
「ドン!」横蹴りが来た。
誠仁が弾き飛ばされた。
片膝をついて、血が落ちていた。
武士がやっと一歩分の間を作り、息を吐いた。「危うく噛み殺されるところだった」
刀を再び構える。
誠仁が連続して退き、一瞬足元が乱れた。
次の瞬間、横から一蹴りが腰に叩き込まれた。
「ぐっ——」
誠仁が二歩飛ばされた。顔が白い。
「死ね!」
刃が、誠仁の胸へ真っ直ぐ向かった。




