第34話 霧の路地での邂逅 ⅠI
(何事だ、何事だ?)
イノは帯を締め直し、上着で手を拭きながら路地の入口へ頭を突き出した。
「追え——!」怒鳴り声に、刃のような気が混じっていた。
反射的に半歩引いた。背中が湿った木壁に当たり、冷たさに体が震えた。
通りにいた人影が、両側へと消えていく。
頭を下げて足を速める者、振り返りもせず路地に曲がる者。
「ドン」と誰かが木桶にぶつかって転び、そのまま這うようにして家の中へ滑り込んだ。
戸板が「バン」と閉まる。
窓が一枚一枚、続けて閉じられていく。
通りはあっという間に空になった。
一つの影が霧の中から飛び出してきた。
足運びが乱れていて、湿った石畳を踏む音が急いでいた。
輪郭が近づくにつれ、はっきりしてくる。
イノと同じくらいの年頃の少年だ。髪が汗と霧で乱れ、裾は泥と草屑だらけだった。
次の瞬間、少年がイノに気づいた。
目が合った。
少年が一気に速度を上げて突っ込んできた。
(ちょっと待て、なんで俺を見るんだ!!)
イノの全身が強張る。
少年がイノの胸倉を掴んだ。
「助けてくれ!!!」
(離せ!)
イノは顔をそらしながら、目の端で周囲を素早く確認した。
地面に竹籠がいくつか転がっている。干し野菜と藁が散らばっていた。
「お願いします!」少年の声が震えていた。
「頼む!!!」
イノは竹籠に視線を定め、少年の衿を掴み返して横へ引いた。
少年の足が滑り、竹籠の脇へ引きずられていく。
「入れ!」
少年が一瞬固まり、すぐに体をすぼめて中に入った。
イノは隣の籠を掴んで上から被せ、ぼろ布を引っ張って適当に覆った。
そのまま、上に座った。
竹籠が「ギイ」と鳴り、下から「うっ」という押し殺した声が出た。
足音が来た。
「おい——そこのやつ!」
イノは体を固くして、ゆっくり顔を上げた。
霧の中にいくつかの冷たい顔。視線がイノの上を流れた。
「異国人か?」
イノは口を開き、まばたきした。
「……え?」
一人が眉をひそめて一歩前へ出た。
「おい、来い」刀の柄が軽く鳴った。
イノはぼうっと竹籠の上に座ったまま、首をゆっくり縮めた。
「……え?」
「さっき、こっちに誰か逃げてきたか?」
また間を置いてから首をかしげた。
「わかんないけど」
数人が目を見合わせた。兵士の顔色が変わった。「くそ、何語だこれ」
イノの体がぴくりと揺れた。ゆっくりと手を上げ、自分の尻の下の籠を指さした。。
兵士が「は?」と言った。
イノは特別に力を込めてうなずいた。「探してる人、俺の下にいます」
兵士たちが顔を見合わせた。一人が眉を上げた。「あ?どういう意味?」
イノはできる限り真剣な目で、もう一度ゆっくりうなずいた。
「籠?籠って言ってるのか?」
「ふざけてんのか」その兵士が足を上げ、隣の古い籠を思い切り蹴った。干し野菜と藁がガサガサと音を立てた。
尻の下の籠が突然突き上げてきて、イノは危うく弾き飛ばされそうになり、慌てて両手で押さえた。「わっ、何すんだ!俺の籠に何するんだよ!!」
一人が面倒そうに舌打ちして、空中で走る仕草をした。
「人。さっき。逃げた」
イノはその手を見た。
視線がゆっくりついていく。
それから手を上げて、一方向を指した。
「……あっちですか?」
兵士たちが反射的にそちらを振り返った。
何もなかった。
「くそ、逃げられた!」
「追え!」
足音が散らばった。
数人が霧の中に消えていく。
通りが静かになった。
イノは顔を手でぬぐい、口を開けたが声が出なかった。
そのまま数秒。
ようやく、長く息を吐いた。
竹籠がかすかに動いた。イノの手がすかさず押さえた。
尻をずらす。
「……動くな、我慢しろ」
——————
しばらく経った。
風が竹すだれを揺らし、細かな音が繰り返し続く。
もう少し待った。
遠くで行商人がそっと顔を出し、安全を確かめてからゆっくりと荷物を拾い始めた。
イノはそこでやっと体をずらした。
籠の隙間から、二つの目が覗いた。
少年がゆっくりと這い出した。
イノは無意識に半歩退いた。
黒髪が汗と草屑で乱れ、顔に干し菜の葉がくっついている。端正だが、どこか鋭い顔立ちだった。
路地の入口。軒先。横道。
追手はいない。
少年がようやく息をついて、イノを見た。
二人の目が合った。
「……聞き取れたか?」
(塔語か。)
「え?」
「さっきの連中の言葉」
イノの口元が微かに動いた。
「……わからない」
少年がじっと見た。
「さっき誰かが聞き取っていたら。俺たち二人とも死んでいた」
イノは首の後ろを掻いた。
「……そこまで考えてなかった」
「また来る。早く行け」
そう言って歩き出した。
「おい——」
少年がすぐに振り向いた。
「……ありがとう」
振り返らず、横道に消えた。
イノはその場に立ったまま、遠くから足音がまた近づいてくるのを聞いた。
「おい……」
それでも、ついていった。
少年が数歩で屋根と屋根の隙間に埋もれた小さな穴へ飛び込むのをイノは見た。
穴の縁には湿った苔と、蜘蛛の巣の張った蔦。
長らく使われていない排水口で、人一人がやっと入れる大きさだった。
一瞬止まって、穴の中を覗き込んだ。
暗くて見えない。かすかな反響と、遠くで水を踏む足音だけが聞こえた。
歯を食いしばって、入った。
——————
湿気が顔に当たった。穴の中の空気は冷えて重い。
イノは腰をかがめて慎重に進んだ。
頭上に低い石壁、足元の苔は滑り、踏み外せばどこへつながるかわからない排水溝に落ちる。
やっと狭い出口を抜けると、視界が開けた。
霧はさらに濃くなっていた。空も地も灰白色に染まり、霧の野が広がっていた。
少し先で、少年が足早に歩いていた。
急いでいるのに足運びが乱れ始め、肩が下がってきている。
イノはひと目見て、少し距離を置いてついていった。
相手の足が緩んだとき、イノは二歩詰めた。
「おい——」
少年が振り返った。ついてくると最初からわかっていたような顔だった。
「まだ何か?」
「ついてくるな」また言った。「お前が巻き込まれることじゃない」
背中から手を出した。
握り飯だった。
「食うか」
イノは気軽に差し出した。
「そのままじゃ遠くへ行けない」
少年は握り飯を見て、受け取った。
「……ありがとう」
風に、かすかな米の香り。
「帝国人も……こういうの食うのか?」
「たまたま持ってた」
イノが返した。
二人は歩きながら食べた。
湿った土を踏む音と、草が風に揺れる音だけが続いた。
「イノ」
少年は反応しなかった。
「朽木誠仁」
二人はしばらく歩いた。
「さっき——俺が巻き込まれることじゃないって言った。なのに名前を教えるのか?」
誠仁がやれやれという顔でイノを見た。
「じゃあお前は何をやらかして、あんなに追われてたんだ?」
最後の一口を飲み込んだ。
次の一歩で、誠仁が突然加速した。
「おい——!」
イノは悪態をついて追いかけた。




