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第33話 霧の路地での邂逅 Ⅰ

午前中ずっと歩き続けた。

いつの間にか、木々の陰が薄くなっていた。


獣道は荒れていた。

蔓草と乱石が行く手を塞ぎ、人が踏んだ形跡はほとんどない。

一歩ごとに足が沈んだり浮いたりしながら登り、靴底が苔の上で滑るたびに木の幹を掴んで体を支えた。

疎らな松林を抜けると、坂の頂上が急に開けた。


山の谷間に、小さな村がひっそりとあった。


軒先には木の風鈴がいくつか下がり、風に揺れて軽く鳴り合う。

棚田が連なり、水路が石畳に沿ってゆっくり流れ、橋の面には苔がまだらに広がっていた。


遠くで、煙がうっすら上がっていた。

イノは知らず、足をゆるめた。


村の入口に踏み込んだとき、ちょうど細道の奥から老人がゆっくり歩いてくるところだった。


木の杖をついた細身の老人で、着物は洗いざらしで白く褪せ、靴の底にはまだ湿った泥がついていた。

白く下がった眉の下で、細めた目がイノを値踏みするように見た。


「あんた……あっちから来たのか?」


声は干からびた感じがしたが、粗野というよりは、ただ驚いているようだった。


イノはそこで初めて自分の格好を意識した。

襟の破れたところに固まった血の跡。体中に染み込んだ風と砂。


少し背を伸ばし、丁寧に頭を下げた。「こんにちは——」


老人が首をかしげ、まばたきした。


「あの、……ここ、どこですか?」


言いかけて、何かがおかしいと気づいた。


老人が最初に言った言葉は、確かに聞き取れた。

なのに今度は自分が話すと、相手はきょとんとしてまばたきするだけだ。


老人が「ああ——」と声を上げ、眉をわずかに動かした。

一歩前に出て、ごつごつした指でイノの袖をそっと引いた。


「兄ちゃん、ちょっと待っとれ」


そう言うと振り返り、近くの田んぼで作業していた人影に向かって大声で何か叫んだ。


腰をかがめて草を刈っていた中年の男が顔を上げ、こちらを一瞥した。

驚いた顔をしてから農具を置き、裾をたくし上げて村の方へ小走りに去っていく。


軒下の風鈴が小さく鳴った。

橋の石面に残る水の跡が、斜めの光を細く照り返していた。


老人はそれ以上何も言わず、のんびりと隣の家の中へ消えた。


イノはその場に立ったまま、自分がどんな気持ちなのかよくわからなかった。


どこか、現実感がない。


周りを見渡してから、なぜか少し後ろめたい気分になった。


(まさか、縛り上げる人を呼びに行ったんじゃないよな?)


しばらくして、老人がのそのそと戻ってきた。

手に古い木の椅子が二脚あった。


イノの前に椅子を「ギイッ」と置き、座面を手で叩いてみせた。


「座れ座れ。外の人間が来るなんて、久しぶりじゃからな」


老人自身も腰を下ろし、目を細めたままイノを眺め、口の端を緩めた。

歯が数本しかない。


「最後に来たのは……わしがまだ車輪より背の低い頃じゃったかな。ほっほっほ——」


その笑い声は柔らかく、少しくぐもっていた。


イノは少し居心地悪そうに腰かけ、背筋を伸ばして両手をきちんと膝の上に置いた。


老人がまた聞いた。「あんたは、どこから来たんじゃ?」


イノは口を開いて「帝国」と言いかけ、飲み込んだ。


「……遠いところです」


老人には当然聞き取れなかったようで、ただにこにこしながら頷き、また首を振った。


「ああ——わしゃわからん。生まれてからずっとここにおる。この村から出たこともないんじゃよ、ほっほ——」


自分のつぎはぎだらけの袴をぽんと叩き、それがちょっと自慢げにさえ見えた。


そこへ、さっき走り去った中年の男が戻ってきた。


今度は、白髪の老婦人に付き添われていた。


老婦人は細身だが、背筋が真っ直ぐだった。

着物は深い藍色で洗いざらし、その上に薄い古い羽織を重ね、つぎはぎは丁寧に当てられ、腰には古い布帯を一本巻いていた。

白髪は高く結い上げ、木の簪で無造作に留めている。

皺の多い顔の中で、目だけが澄んでいた。


風が吹き、老婦人はイノを見た。

その目に驚きはほとんどなかった。


「この村の村長をやってます。たいした村じゃないですが、もてなしの作法もだいぶ忘れてしまいました。行き届かないところがあっても、どうかご容赦を」


聞き慣れた語順。聞き慣れた言葉。


「帝国語、わかるんですか?」思わず声が出た。


老婦人は静かに笑った。


「『塔語』が話せるんです」


「塔……?」


イノは首を傾けた。


「名前、また変わったんですね」


村長は小さくため息をついた。「人って、名前を変えたがるものですね。古い名前を塗り替えれば、古いことも消えると思うのでしょうか」


イノはそこで初めて、帝国語にも別の名前があったことに気づいた。


少し恥ずかしくなって言い直した。「村長さん、ここは……」


綿村わたむらです」老婦人は迷わず答えた。「昔ここで綿がよく育ったから、ずっとそう呼ばれています」


「綿村はどこの国ですか?」


老婦人がイノをちらりと見て、薄い笑みを浮かべた。


「白狩国です」


「白狩……」


村長の視線が、ぼろぼろになったイノの服に落ちた。


「その着物……ひどいね

貸してみなさい」


「え?」


村長はただ落ち着いた顔でイノを見ていた。

イノは少し迷ってから、上着を脱いだ。


針と糸と古い端切れを持ってこさせて、うつむいたまま、一針一針縫い始めた。


「この村は白狩の一番東にある」


「村長さん、帝国に戻るには——」


「宿場で聞くといい」手を止めずに答えた。「今も帝国へ向かう商隊があるかどうかは、わからないけれど」


「一番近い町は……」


霧見崎きりみざきです」と言った。「遠くはない。足が速ければ半刻もかからない。ただ、道はあまりよくないですよ」


最後の一針を終えて、着物をイノに返した。

「着て」


イノは受け取り、頭を下げて袖を通した。


「ありがとうございます」


「いいえ」村長はゆっくりと立ち上がった。「道を教えましょう」


村の中を歩いた。


小道は湿っていた。

薪の束と低い軒が霧の中に続き、道端では鶏や鴨がのんびりと餌をつついていて、人が近づいても慌てず避けるだけだった。


三人の子供が路地から飛び出してきて、叫び声を上げながらイノの足元をすり抜け、笑いながらまた走り去った。


村長はその背中を見て笑った。「若い人はみんな町へ行ってしまって。この子たちだけが、村に残ってくれた賑わいです」


竹の柵と古い井戸を過ぎて、村長が前方の小道を指さした。


「この道をまっすぐ行けば霧見崎に出ます」


それから右手の細い山道を指し、声をわずかに落とした。「あの上に、この村が守る神——日御大神ひみおおかみの社があります」


「昔、世界に大きな禍があったとき、人々には頼る場所がなかった。そのとき祂みずから凡土に降り、人々と肩を並べ、『龍脊りゅうせき』の上で七日七夜守り続けたと伝わっています」


村長は視線をわずかに伏せた。「もっとも、あなたには昔話に聞こえるでしょうけれど」


「ただ、『古龍脊こりゅうせき』は本当にある。東へもう一つ峰を越えれば見えます。東の果て、道も険しい。それでも、そこまで行って一目見た人は、たいてい後悔しないと言いますよ」


「敵はとうに砂になった」


「今あの『龍脊』を守っているのは、風だけです……」


「古龍脊……」イノは小さく繰り返した。


村長が指さした方向を見ると、山道が木々の間を縫って上へ続き、その先の林の中に小さな社屋の輪郭が霞んで見えた。


「上がって見てもいいですか?」


村長は頷いた。「行ってきなさい。足元に気をつけて。婆にはもう登れませんよ」


イノはお礼を言い、振り返って石段を踏み始めた。


山道は見た目より静かだった。


少し歩くと、石造りの鳥居が前方に立っていた。


高さは一丈ほど。門の形をしているが、扉はない。

両側の石柱には苔がびっしり広がり、この時代のものとは思えないほど古かった。


最初の鳥居をくぐると、しばらくして二つ目が見えてくる。

さらに上へ、三つ目、四つ目……


一つずつ、山の麓から頂へと連なっていた。


両側の木々がだんだん迫り、枝が絡み合いながら頭上に濃い影を作る。

隙間から差し込む光だけが、石段に斑模様をつくっていた。


イノはいつの間にか歩みを緩め、呼吸も静かになっていた。


社は小さかったが、軒の端も柱も石段の縁も、みな行き届いた手入れがされていた。


軒下には細い風鈴が下がり、風のたびに清らかな音を立てる。

地面はきれいに掃かれ、落ち葉も端に寄せられていた。


中央に、石の神像が祀られていた。


長い髪を垂らした神が、静かに石座に座っている。表面は雨風で丸くなっているが、面立ちはまだわかる。


村の人々が年々、心を込めて奉り続けてきたことが伝わった。


イノはしばらく立ってから、きちんと頭を下げた。


それから来た道を戻った。


村長はやはり山の麓で待っていた。


手には古い布に包んだものを持っていた。開けると握り飯が二つ。


「道が悪い。腹が空いたら食べなさい」


イノは一瞬止まってから、両手で受け取った。


「ありがとうございます」


しばらく布を見つめてから、丁寧に胸元にしまった。



白狩 霧見崎郊外 午後


砕石と泥の混じった小道を、イノの足が踏んでいく。

両側には湿った葦と低い松林が続き、風が通り抜けるたびにざわざわと水っぽい音がした。


霧がどんどん濃くなる。

乳白色の霧が足首から纏わり、着物の裾を濡らしていく。


目を細めて白い層を透かして見ると、遠くにぼんやりした輪郭が浮かんでいた。

高い壁。斜めに立つ軒。真っ直ぐな楼閣(ろうかく)のシルエット。


「あそこか……」


霧がさらに低く垂れ込め、冷気が首筋から背中へ滲み込む。

足元の土道は泥で滑り、ところどころに青石板(あおいしいた)が嵌まっているが、年月で凸凹になっていた。


両側には低い木造の家と古い小屋が並ぶ。

軒下に古い竹すだれが垂れていて、湿気を吸って暗く変色している。

入口には薪の束と束ねた草むしろが積まれ、曲がった竹の干し台には濡れた漁網がかかっていて、水が一滴一滴落ちていた。


紙の提灯が霧の中で温かい黄色に光っている。

風に揺れるたびに灯影が揺れ、湿った磯の匂いが漂ってきた。


「どこ行っても霧ばっかりだな……」イノは心の中でぼやいた。


(まあ、名前どおりってことか。)


もう少し歩くと、前方の影がはっきりした輪郭を現した。


黒褐色の大門が、道の突き当たりに立っていた。

門板には青銅の飾り金具が打たれ、錆が浮いている。

両脇の土塀は低く、瓦が霧の中にぼんやりと浮いていた。


門の脇には兵士が二人、静かに立っていた。

暗青色の薄い鎧をまとい、腰に二刀、手には長柄の薙刀を持っている。

髪は武家風にきっちり結い上げ、顔に表情はない。


「どうしよう……言葉が通じないのに——」


手ぶりで何とかしようか考えていると、二人の兵士がこちらの接近に気づき、目を見合わせた。

一人が一歩前へ出て、手を上げて制しながら口を開いた。「待て、若いの、霧が濃い、お前——」


イノがお辞儀にするか頷くかで迷っていると、城内から急な怒鳴り声が飛んできた。

もう一人の兵士が門の内側から飛び出してきて、二人に向かって何か早口で叫ぶ。


守門の二人が目を見合わせた。

一人は返事をして門の中へ消えた。

残った一人がイノをちらりと見て、眉をひそめた。


また中から誰かが叫んだ。「早くしろ!」


守門の兵士が舌打ちした。「わかってる、急かすな!」


「門の外に見ねえ顔がいる」


中から面倒そうな返事が戻ってきた。「そのまま外に立たせとけ」


兵士がイノに手を振った。「そこに立ってろ。動くな」

そのまま門の中へ入っていった。


門は完全には閉まらなかった。


(それでいいのかよ)


イノは門の前に立って、少し呆れた。


(……止めないなら、入ってもいいってことだろ)


そのまま滑り込んだ。


門をくぐっても霧は晴れなかった。

青石の通りに沿って、白い層がどこまでも続いている。


ロヴァークとは違った。

霧見崎きりみざきの通りは人が少ないが、整然としていて、冷ややかなほど落ち着いた秩序があった。

ときどき屋台の商人が蒸したての団子を持ち出していて、甘い香りが冷えた霧の中にゆっくり広がっていく。


イノは大通りを歩きながら、通り沿いの看板を一つ一つ目で追った。

少し広い角を曲がると、往来はやはり少ないが、何人かがさりげなく振り返ってイノを見た。


その目に悪意はない。好奇心だ。


全身で見られている気がして居心地が悪く、気づかないふりをしながら両側の軒と門の表札を見ていた。


前から、大きな竹籠を背負った行商人が横から出てきた。

籠の中には露のついた野葱が何束か入っている。


行商人は慣れた笑顔で声をかけた。「おい、これ採れたてだよ、安いよ、どうだい?」


「そう言われても買わないけど……そもそもあなた、俺の言ってること、わからないでしょ」


ため息をついた。


行商人はイノの無表情な顔を見て、口をへの字に曲げた。「買わないなら買わないでいい、ぼーっとして、何が言いたいんだか」


イノの顔が固まった。


「……そうですか」


何か言い返しかけて、結局、口を閉じた。


行商人はもう籠を担いで遠ざかっていた。声だけが路地に残って聞こえてくる。


イノは口をきゅっと引き結び、その背中を見送りながら、笑っていいのかもわからないまま顔が引きつった。


数歩歩いてから、ようやく息を吐いた。


「……これからどうしよう」青石板の隙間を靴先でつついた。


顔を上げると、すぐ近くの軒下に木の板がかかっていた。


板の上端にはいくつかの文字が並んでいるが、下端にははっきりした塔語が刻まれていた。


——「公共宿場」。


イノの中で、何かがカチリと緩んだ。「よかった、やっと見つけた」


自分がずっと肩に力を入れていたことに、そこで初めて気づいた。

緊張がほどけると、今度は全身がなんとなくだるい。


「……まず緊急の問題を片付けるか」


左右を見て、少し人気のない壁際を見つけ、足早に歩み寄って帯を解いた。


「はあ——」


その息を吐き終わらないうちに、霧の向こうから鋭い怒鳴り声が炸裂した。


「逃がすな——!」


刀鞘が当たる鈍い音。いくつかの黒い影が霧を蹴って足早に迫ってくる。


通りが一瞬、静まった。


そのあとに続いたのは、慌ただしいざわめきだった。


道端の行商人がびくりと肩を震わせ、担い棒ごと荷物を「ガシャン」と地面に落とした。葱と青菜が転がり散らばる。拾いもせず、担い棒を引っ掴んで脇の路地に駆け込み、腰を低くしてそのまま消えた。


向かいの染物屋はもっと早かった。「バン」と竹すだれを下ろし、掛け金を「ギイ」と落とす。すだれの奥から女の押し殺した声が漏れてきて、内容は聞き取れないが、子供をなだめているらしかった。


「逃がすな——!」怒鳴り声がまた一段近づいた。

石畳を叩く足音が乱れ、この通りに向かって迫ってくる。

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