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第32話 風と砂に埋もれた場所

初秋 夕暮れ


……


砂利が、骨に刺さるように痛かった。


イノはゆっくりと目を開けた。

喉がひりひりする。


視界は砂礫(されき)で埋め尽くされ、耳のそばを風が通り過ぎていく。はるか高いところから吹き降りてくるその風は、薄く冷たかった。


刃の風。砕けた草。石の門。

そして、完全な暗闇。


上半身を起こすと、胸が重く詰まる感じがした。肩の傷が引っ張られて痛む。以前負った傷はとっくに痂皮になっていた。


「……生きてる」


イノは低く呟き、指輪から水袋を取り出して一口あおった。


冷たさが喉を伝って落ちていく。ようやく体が自分のものに感じられた。


ゆっくりと立ち上がり、目を細めて周囲を見渡す。すぐ後ろに、見覚えのある造りの石門がそびえていた。


足元は起伏のある砂地で、砕けた石が剥き出しになっている。風が砂粒を押し動かし、細かな波紋をいくつも描いていた。

少し先には古い防壁(ぼうへき)の残骸が半ば砂に埋もれていて、石組みは風雨で削られ、銅の緑青(ろくしょう)と鉄の錆が隙間から滲み出るように広がっていた。


イノはそこへ歩み寄り、冷たい壁面に手をつきながら少しずつ登っていった。

やがて、崩れかけた壁の頂に立つ。


視界が、一気に開けた。


遠く、巨大な城壁が山の稜線(りょうせん)に沿って波打ちながら、地平の果てまで続いていた。

雲の中に消えたかと思えば、崩れた塔や欠けた胸壁が顔を出す。


イノは口を少し開けたまま、しばらく動けなかった。


やがて、静かに息を吐いた。


近くの壁面には風食の跡と苔が広がり、崩れた断面からは爪のように曲がった老木の枝が伸びている。

城壁の向こうには砂丘が連なり、こちら側には緩やかな丘と疎らな松林があった。


「……ここ、どこだ?」


ロワークの近くでないことだけは確かだった。


風が吹き抜け、頭の中のセレイナの顔が遠ざかっていく。


(……俺がいなくなったことに、気づくだろうか。)


「さすがに自分の弟子をこんなところで死なせはしないだろ……」

首を振った。

「とにかく、生き延びることが先だ」


イノは最後にもう一度だけ城壁を見やり、崩れた箇所から下へ降り始めた。


斜面は長く、足元の砕石が不安定だった。

丘の麓まで下りると、城壁はすでに山に遮られて見えない。

残るのは、重なり合う小高い丘ばかりだ。

丘と丘の間を風が抜けるたびに、細かな砂が肌を打つ。じわじわと痛い。


「……本当に、どこへ行っても歓迎されないな」


低く呟きながら、一番近くの丘へ向かって登り始めた。


丘はそれほど高くないが、頂上付近に細い亀裂があった。

岩壁に手をついて探りながら上へ向かうと、足元が突然滑った。


砕けた砂が崩れ、体が宙に浮く。


「まず——!」


言い終わる前に背中が何かに叩きつけられ、そのまま斜面を転がり落ちた。

最後に「ドン」という音とともに、柔らかくて冷たい砂の中に沈み込んだ。


しばらく仰向けで動けなかった。

ようやく息を整え、なんとか体を起こす。


暗かった。


真っ暗ではない。砂と岩に幾重にも包まれた、深い薄暗さだ。


イノは反射的に声を出した。

声は空間に広がったが、反響しなかった。


目が慣れてきてから、ようやく足元の「柔らかなもの」の正体がわかった。


砂ではなかった。

折れた刀の柄。磨り減った槍の柄。折り曲がった金属片。押しつぶされた胸甲(きょうこう)

それらが重なり合いながら砂に埋まっていて、向きだけが奇妙なほど揃っていた。


「……こんなところに武器庫でもあったのか」


そのとき、少し高くなった石面が目に入った。


石碑だった。


砂に半ば埋もれ、風に角を削られ、それでも文字の痕跡は残っていた。

イノはしゃがみ込み、砂を払った。


石面に、見覚えのない文字が刻まれていた。


帝国文字とはまるで違う、重くぎこちない筆跡。


なのに。


目に入った瞬間、その意味が、すんなりと頭に入ってきた。

まるで最初から知っていたかのように。


イノは無意識に、低く読み上げていた。


「ここに葬られしは、すべて『守る者を守りし者』なり。

人の身をもって神の禍に赴き、命をもって壁を立て、死をもって、万生(ばんせい)の続きを成せり」


読み終えた瞬間、体が固まった。


「……え?」


一文字も知らないはずの文字なのに、意味だけが、はっきりとわかった。


おそるおそる石碑に触れる。

それでやっと、自分が言ったことの意味に気づいた。


ここは武器庫ではない。


墓だ。


耳が少し熱くなった。

イノは静かに立ち上がり、石板に向かってきちんと頭を下げた。


「……す、すみません」


外の風が強まっていた。


崩れた穴から外へ出ようと手をかけると、冷たい風が夜ごと流れ込んでくる。

外はもう、深い青と黒が重なる夜だった。

狭い入口を絞り込まれた風が、耳のそばでうなる。

大きな風が来るたびに砂がさらさらと落ちてきて、イノがつけた足跡をすぐに消していった。


しばらく考えて、戻ることにした。


「……わかった。今夜は外が嫌いみたいだな」


墓の中は広かった。ひと回りしてから、イノは石碑の前に戻り、そっと座り込んだ。


「……すみません

少し、もたれかけてもいいですか」


冷たい石面が背中に当たる。

風の音が、まるで外の世界のものになったようだった。


膝を抱えて、体を小さくする。

それから、きちんとお辞儀をした。


「今夜は、よろしくお願いします」


指輪から小さなパンを取り出して、半分に割った。

片方を食べ、もう片方を碑の前に置く。


「なんでよりによってこんなところに……」と呟いてから、少し考えて首を振った。


「でも、まあ。おかげで生きてるんだけどな」


記憶が遡っていく。


「……俺を殺そうとしたあいつ……」


「レオネルがあんなに手間をかけて、俺を引き込んで……」


「リオンだ

でも、なんで?」


ふと、あの言葉が浮かんだ。


(クラニウム狩り)


「でも——殺したのは言川じゃないか」


「貴族ってのは……こんな『もの』まで、奪い合うのか……」


まぶたが重くなってきた。


「少なくとも一つだけは確かだ。学院の連中は、あれが初めてじゃない」


砂がゆっくりと落ちる。風の音が遠ざかる。


イノは石碑にもたれたまま、少しずつ眠りに落ちた。


……


どのくらい経ったか。


うとうとしながら、足元で何かがゆっくり動いている感覚があった。


ある瞬間、その細かな音がはっきりした。


砂が動いている。流れ、押され、崩れ、ずれている。


イノは目を開けた。


石碑の下の砂が大きく陥没し、碑の根元がほぼ剥き出しになっていた。

少し先には細長い亀裂が走り、その隙間に黒く重そうな何かが横たわっていた。


太く、くぐもった色で、表面は砂岩と歳月に削られて鈍い質感になっている。

長い間埋まっていた、大きな棍棒のように見えた。


「……いつの間にこんなものが」


イノはゆっくり立ち上がり、砂を踏みながら近づいた。


墓の中は相変わらず静かで、細砂だけがまだ流れ続けていた。

その「棍棒」の前まで来たとき、足元が急に沈んだ。


「わっ——!」


信じられないほど薄い砂の膜を踏み抜いた。体が傾く。

砂が頭から降り注ぎ、顔に、目に、口に入ってくる。

何かを掴もうと、反射的に手を伸ばした。


体が斜面に叩きつけられ、背中、肘、後頭部と続けて鈍い痛みが走る。


そのとき、手のひらが「棍棒」を掴んだ。


それを支えに、なんとか滑落が止まる。

胸が激しく上下し、背中が冷えた汗で湿る。


次の瞬間、砂層が低い音を立てて崩れ、「棍棒」ごとイノはまた落ちた。


「ちょ、ちょっと——!」


斜面を引きずられながら落ち、地面に叩きつけられる。

口の中が砂だらけになった。


「……ぺっ!ぺっぺっぺっ!」


起き上がろうとして、胸の上に重いものが乗っていることに気づいた。


あの「棍棒」だった。


思ったより遥かに長い。斜めに胸に乗っていて、二メートル近くある。


肘をついた場所に、砂が引きずられてできた浅い弧の跡があった。

その先に、一冊の本が静かに落ちていた。


紙はとっくに黄ばみ、表紙は磨り減って元の姿がわからない。それでも、かつて丁寧に包まれていたことが伝わってくる。


イノはしばらく呆然としていた。


足の下はもう、崩れる砂ではなく、少し湿り気を帯びた土だった。

冷たい風に松脂(まつやに)の匂いが混じり、前方には色の濃い松林が広がっている。

空には、夜明けの光がほんの少しだけ差し込んでいた。


イノはまず本を拾い、それから胸の上の「棍棒」を見下ろした。


「……まあ、いいか。

縁があったんだろ」


本とその物を指輪の中にしまい、深く息を吸って、松林へと歩き出した。


——————


砂は、止まらなかった。


別の場所で。


最初に現れたのは、弧を描く影だった。

続いて、深く黒い穴——何かが貫通した痕。


砂が、さらに退いていく。


巨大な口が、暗がりの中から少しずつ姿を現した。

砂と石が皮膚の上で殻になっていて、露出した面積が広がるにつれ、その殻が微かに軋んだ。


その口のそばに、もう一つ、小さな口が薄く開いていた。

隙間に、小さな肉の欠片が挟まっている。


血の跡はない。腐敗の臭いもない。

まるで、時間などというものが存在しなかったかのように。


その口が、ゆっくりと動いた。


肉が、少しずつ暗がりへと送り込まれていく。


洞のような傷の奥から、暗い血が一筋滲んだ。

傷の縁が、内側へ向けて縮み始める。


さらに深い暗がりの中で、砂がかすかに揺れ、また静かに流れ落ちた。


何かが、目を開けた。

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