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第29話 消音《しょうおん》

見覚えのある校舎が、ゆっくりと視界に入ってきた。


陽が石壁に当たっている。輪郭は記憶のままだった。


あの日、追い出された場面が頭をよぎった。


イノのあごがわずかに引き締まり、顔が沈んだ。


「ロウェン」


「ん?」


「クラニウムって何だ?」


ロウェンはイノを見ず、教員棟の屋根を見上げた。眉がわずかに寄る。


「どこで聞いた?」


「さっき……誰かがリオン様のことを『クラニウム狩り』と呼んでた」


イノも見上げた。陽がまぶしく、屋根は白く飛んでいた。


ロウェンが口の端を引いた。


「誰が言ったか、当てるまでもないな」


笑いの中に、苦さが混じっていた。


「最近の新入りは大したもんだ——」


「ここが教員たちの棟だ」


ロウェンが目を戻し、イノの腕の中の木箱をちらりと見た。


「それ抱えたまま入る気か?」


イノが止まった。


ロウェンが軽く笑った。


「入り口でちょっと待ってろ。俺が先に話を通してくる」


イノが頷いた。


ロウェンが扉を押し開け、石段を上がっていく。その背中が廊下の奥の光に呑まれた。


門廊もんろうの下に、イノだけが残った。


視線を一巡りさせた。


誰もいない。


素早く石柱の陰に回り込んだ。


箱が掌に沈む。二箱のパンが指輪に収まった。


石柱にもたれ、目を伏せた。


この先、どう切り出すか。何度も頭の中で言葉を並べ直していた。


——————


同じ頃。


一つの影が屋根を走り抜けた。身は軽く、ほとんど音がない。


教員棟の上に着地し、角度を変えて潜もうとした瞬間——背後から、冷たい女の声。


「ダノス、何をしている?」


名前が落ちた瞬間、空気の温度が跳ね上がった。


「ひっ——驚かすなよ」


ダノスが半秒固まり、ゆっくり振り返った。泣き笑いのような顔を作る。


女が三歩先に立っていた。


墨紫の長い髪が風に流れ、掌の上で細い蛇のように炎がうごめいている。黒紅の長衣ちょういすそが風にめくれ、体に沿った黒曜こくよう革鎧かわよろいが覗いた。胸元が大きく開き、炎の明かりに白い肌がひと筋映った。


「質問に答えなさい」


「いやいや、落ち着いてくれ」


ダノスが両手を上げ、無実を訴えるように「降参」の形を作った。


「学院の中で勝手に手は出せない決まり——」


言い終わる前に、炎が一瞬で色を変えた。青の中に紫が透け、ダノスの耳の脇をぐるりと一周した。


数本の毛先が瞬時に焦げ、空気に焦げ臭さが立った。


「ここがどこかわかっていて来たのでしょう?」


女の声は淡い。


「なら——屋根の修繕しゅうぜんに来た、と言いなさい」


ダノスが目の端で下をうかがった。ロウェンとイノの姿がちょうど見えた。


こっそり半歩退き、びるように笑った。


「レオネルに用があるだけだって」


「レオネルに?」


女が眉を上げた。


「道がないの?」


「そう言うなよ」


ダノスが肩をすくめた。


「窓から入るのが好きなんだ」


背を向け、反対側ののきへ歩き出した。


足先が軒角のきかどにかかり、飛び降りようとしたとき、後ろからまた声が来た。


「ロウェン様に近づくな」


ダノスの足が一拍止まった。


振り返り、大袈裟おおげさに腰を折った。


「承知いたしました——フラカ嬢」


言い終わる前に、影が軒を越え、建物の側面の光と風の中に消えた。


——————


四階の執務室。


陽が斜めに茶色の木卓に落ち、空気に珈琲コーヒーの湯気が漂っている。


レオネルが杯を持ち上げ、口をつけようとした瞬間——窓が「ばん」と開いた。


外から人影が翻り込んできた。


「うわっ——!」


レオネルの手が震え、珈琲がこぼれかけた。


椅子ごと後ろにひっくり返りそうになり、慌てて体勢を立て直した。


来た人間を見て、丸い顔がまず白くなり、すぐに無理やり笑顔を繕った。頬の肉まで震えていた。


「だ、ダノス殿……これはまた……」


レオネルがおびえを隠せない。


ダノスは指の爪の間の汚れをほじっていた。


声は投げやり。


「今、この棟にイノ・ストヴォークってのがいるだろう。お前が引っ張り出して、旧区きゅうくに連れて行け」


「イノ……ストヴォーク?」


レオネルの目が半周回り、名前と顔が繋がった。


表情が妙になった。


「あいつ、また来たのか?」


「へえ? 知り合いか」


「まあ……知り合い、と言えば」


「話が早い」


ダノスが指を振った。


「あいつだけを連れてこい。」


レオネルが口を開きかけたが、結局飲み込んだ。


ダノスが立ち上がり、窓枠を叩いた。


「お嬢様の命令だ。俺はやるだけだ。面倒があるなら——」


ひと拍。耳が動いた。外から足音が聞こえてきた。


ダノスの笑みが少し薄くなった。


「自分でなんとかしろ」


言い終わる前に、窓枠に手をつき、外へ翻った。


レオネルはその場で二秒固まり、すぐに窓へ走って「がちゃ」と閉めた。


次の瞬間、扉の外でノックの音。


「レオネル先生、いらっしゃいますか?」


聞き覚えのある声。


レオネルが額の汗を拭い、素早くいつもの顔に戻った。


「——ロウェンか、入りなさい」


——————


ほどなくして、ロウェンが戻ってきた。


少しに落ちない顔をしている。


「変なんだよな」


「レオネルが、お前に一人で来いって」


ロウェンがイノを見た。


「お前ら、知り合いなのか?」


イノが、なんとも言えない顔をした。


ロウェンが眉を上げた。


「まあいい。ついてこい。四階の右手、二つ目の部屋だ」


二人で階段を上がった。


「しかしお前、なんであんな人間と知り合いなんだ?」


ロウェンが歩きながらぼやく。


「正直、あいつがどうやって学院の教職に潜り込んだのか、いまだにわからん」


イノは黙って、横についていた。


三階でロウェンが足を止めた。


「俺はここで待つ」


半開きの扉を指した。


「三階に図書室がある。本でも読んでる」


イノが低く言った。


「悪い、手間をかけて」


「いいって」


ロウェンが手を振った。


「お前は登録して入ってる。俺は今日の当番だ。入れた以上、ちゃんと送り届けるのが仕事だ」


背を向けかけ、ふと振り返った。


「そうだ、あのパンの箱二つはどうした?」


イノの表情が一瞬固まった。


ロウェンは深くは考えず、ただ言った。


「預かっとこうか?」


「いい」


イノがほぼ即座に返した。少し速かった。


「下に……置いてきた。ありがとう」


ロウェンが手を振った。


「別にいいけど、俺は盗み食いしないぞ」


図書室のほうへ歩いていった。


イノはその背中を見送り、顔を上げて四階への階段を踏んだ。


——————


「——入りなさい」


イノが扉を開けた。


あの顔。はっきり覚えている。


「レオネル先生」


「おやまあ!」


レオネルが声を上げた。


「今日は——」


途中で目が回り、笑みがさらに深くなった。


「イノじゃないか! どうしたんだ?」


イノがレオネルを見た。


「先に、どうやって入ったか訊くものだと思いましたが」


「いやいや——何を言う」


レオネルが即座に手を振った。しわが全部笑みに集まっている。


「ロウェン様が直々に連れてきたんだ、私が何を訊くことがある」


「一つだけ」


イノの声が一段落ちた。


「侯爵様の推薦状を、返していただきたい」


その一言で、レオネルの顔の笑みがほんの一瞬止まった。


「推薦状か……」


レオネルが顎を撫でた。声に含みが乗った。


「今日来たのは、ちょうどよかったな」


イノの眉がかすかに動いた。


「どういう意味です?」


レオネルはすぐに答えず、卓をゆっくり回り、イノの前に立った。


「あの推薦状は、もう返せない」


イノの目が沈んだ。


「なぜ」


レオネルがぱんと手を打った。顔にまた大袈裟な笑みが戻った。


「お前、運が来たぞ」


レオネルが少し寄った。


「学院に入れる可能性がある」


「何ですって?」


イノがようやく目を上げた。


「どこがわからない?」


「でも……あのとき俺は——」


「侯爵様の推薦状ってのは、飾りじゃないんだよ」


「あれが本当に上まで届けば、もう私一人の判断じゃ済まなくなる」


イノの呼吸が、ほとんどわからないほど止まった。


レオネルはその微かな反応を見逃さなかった。内心で半分ほっとした。


「ただし……」


話の向きが変わった。すぐに「察してくれ」という顔を作る。


「いろいろ面倒がある」


「面倒?」


「なあ、わかってくれよ」


レオネルが苦い顔を作った。


「リオン若に正面から逆らえると思うか? だが侯爵様をないがしろにもできん」


「私も板挟みでな。苦しいんだよ」


イノはあの顔を見つめていた。


レオネルはイノが即座に反論しないのを見て、さらにたたみかけた。


「よし、ここで突っ立ってても始まらん」


振り返って上着を掴んだ。動きが少し速すぎた。


「書類上の手続きは表でやれるもんじゃない。ついてこい」


「どこへ?」


「どこって」


レオネルが振り返り、当然だという顔で笑った。


「自分のものを取り戻しに来たんだろう?」


イノの指先がわずかに締まった。


「レオネル——」


レオネルは振り返りもせず、手を振った。


「先生の言うことを聞いておけ」


有無を言わせず、もう扉の外に出ていた。


イノがひと呼吸止まり、後を追った。


——————


レオネルが前を歩いている。足取りが少し軽すぎた。


イノが後ろについている。


最初は人がいた。


石段の脇で学院生が数人、低い声で話している。誰かが手を上げ、誰かが頷く。


だが奥へ行くほど、人影が減っていった。


やがて誰もいなくなった。風の音さえ、不自然に静かだった。


「レオネル……先生?」


イノがかろうじてその二文字を口にした。


「おう」


レオネルは振り返らずに応じた。


「緊張するな。グランソワ学院だぞ、入学にはいろいろ手順がある」


笑って付け加えた。


「五百年以上の歴史だ。れっきとした古跡こせきだよ」


「見た目はぼろいがな」


前方を指した。


「学院生は全員、一度ここを通る。伝統だ」


草に覆われた庭に踏み込んだ。


敷石が割れ、隙間から植物が伸び放題になっている。


その先に、まだらな石の拱門アーチ。くぐると、石の広場が静まり返っていた。地面は苔に覆われ、四方の高い壁は半ば崩れている。


イノの足が半拍遅れた。


(おかしい。)


さっきの言葉が頭を巡り始めた。


あの背中が、いつの間にかイノから離れていた。


歩いている。


だが待っているのではない。距離を開けている。


「待て」


イノが急に止まった。顔を上げ、周囲を見回した。


「ここは——」


言い終わる前に、あの背中が横にれた。


(まずい!)


「レオネル!!」


イノの怒号が響いた。


返事はなかった。


風が荒れ草を鳴らす音だけ。


次の瞬間——背後から、骨まで刺す殺気が叩きつけられた。


イノが本能で左に転がった。


っ!


短刀が耳をかすめた。血の粒が草の葉に散り、風に吹かれて赤い霧になった。


「へえ?」


声が後ろから。


ダノスが崩れた壁の上に立ち、見下ろしている。


刀が手の中で軽く一回転した。


「嘘ばっかりだな——」


「パン屋がこんな反応するかよ」


イノが転がって起き上がった。肩が断壁にぶつかり、目の前が暗くなった。


砕石が靴底に刺さり、荒れ草がすねを打つ。


「なに走ってんだ?」


次の瞬間。


六本の短刀が、影の中から浮き上がった。


地を這うように。


——シュッ。


地面が裂けた。


イノが横に跳んだ。


わずかに遅い。


肩がり開かれた。


汗と血が額から滑り落ちる。


「お前は誰だ!」


「なんで俺を殺す!」


ダノスが笑った。


「リオン・ヴィセスか!」


「この辺でいいか」


ダノスが静かに言った。


短刀が二本、同時に射出された。


イノが素早く横に翻った——


だが短刀が空中で不意に軌道を変えた。刃がいびつな弧を描き、背中へと向かってくる。


「——!」


イノの瞳が縮んだ。


指輪が光った。


夜闌やらんが手に収まった。


刀光が一閃——


ガン! ガン!


火花が散り、刃同士がぶつかる音が広場に響き渡った。


「ちっ」


ダノスが目を細め、夜闌を眺めた。笑みが深くなった。


「やっぱりな——パン屋が? 誰をだましてるんだ」


首を傾げた。


「小僧、その刀はどこから出した?」


イノは答えなかった。


身を翻して走った。


(止まるな!)


(こいつは遊んでいる!)


走るほど呼吸が乱れる。


だが頭はむしろんでいった。


この男はまるで本気を出していない。それが一番恐ろしい。


「よし」


ダノスがイノの背中を見て、首を回した。


「そのうち教えてくれるだろ」


——————


イノが荒れた広場の端を全力で走っていた。


目の隅に、前方に何かの輪郭を捉えた。


草叢くさむらの奥に、石の門が立っていた。


扉はない。残った門枠もんわくだけが、伸び放題の野草に半ば埋もれている。石の面に深い古傷がいくつも刻まれていた。


次の瞬間、背後から殺気が張りついてきた。


振り返った。


ダノスが崩れた壁の上にいた。唇が動き、低い詠唱えいしょうがすでに収束している。短刀が体の前に浮き、黒赤の魔力が絡みつき、刀身が鈍く危険なうなりを上げていた。


直後、刀の群れが爆射された。


歪んだ牽引力けんいんりょくがこの空間を圧し潰す。野草、砕石、折れた枝が根こそぎ引き抜かれ、回転する金属のあらしになって、叫びを上げながら襲いかかった。


土が巻き上がり、刃が空を切り裂く。鼓膜こまくしびれるほどの音。


イノの目の前が白く飛んだ。


かわせない!)


その判断は恐怖より速かった。


咄嗟とっさに手を上げ、意識をあの短刀に向けた。


おさめろ!)


指輪が震えた。


あの馴染みの牽引感がわずかに浮かんだ——次の瞬間、奇妙に止まった。


外力に阻まれたのではない。


イノ自身が、半歩退いたのだ。


本能が体を止めた。


(今度の代償は——何だ?)


その考えが浮かんだ瞬間、引く力が完全に消えた。


イノの胸が沈んだ。感情を抱く間すらなく、体がもう前を向いて走り出していた。


逃げ場などない。


それでも死にかけている人間は走る。


「遅い」


ダノスの声が後ろから落ちた。


淡く。


刃が迫る。


背中の布が裂け、冷気が裂け目から肉に滲みた。


時間が、急に遅くなった気がした。


振り返らなかった。前だけを見た。


あの荒れ草の中の石門が、どんどん近くなる。


こんな場所で死ぬとは、思っていなかった。


そこで思考が止まった。


足音だけが耳に残った。


一歩。


もう一歩。


……


唇がかすかに動いた。


体が石門に突っ込んだ瞬間——門枠の内側に刻まれた、長く沈黙していた痕が、極めて淡い光を帯びた。


周囲の音が、世界ごと消えた。


刃の嵐が石門に殺到し、門前の野草を引き裂き、砕石と土を吹き飛ばした。


だが門の内側には——何もなかった。


空。


イノが消えていた。


——————


ほぼ同じ瞬間。


セレイナがふいに目を開けた。


腕の中の夜咬やがみが驚き、喉の奥で低い唸りを漏らした。耳がぴんと立つ。


セレイナの指先が夜咬の額にひと触れ。


だが目はもう窓の外を越え、グランソワ学院の方角をまっすぐ射抜いていた。


——————


ダノスがあの石門を見つめていた。


顔が、じわりと沈んでいく。


消えた。


隠れたのではない。煙に紛れて逃げたのでもない。


気配ごと、断たれた。


ダノスがゆっくり近づき、門枠を半周した。指が冷たく粗い石の面に触れた。


「何だこりゃ……」


次の瞬間、手をはじくように引き、全身が一気に張りつめた。


目が周囲の崩れた壁の影を、一つずつめるように走る。


「どなた様か、おいでですか」


廃墟は静まり返っていた。


返事はない。


ダノスが手を上げた。短刀が集まり、体に寄った。


それ以上留まらなかった。


短刀を引き、身を翻して崩れた壁と瓦礫がれきの陰に消えた。

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