第28話 逸れゆく先
いくつもの扉が背後で閉まり、回廊の影がようやく薄れた。
視界が、不意に開けた。
内庭の庭園に出ていた。
庭園というよりは、石壁と楼の影のあいだに無理やり押し込まれた緑地だった。芝は完璧に刈り込まれ、木は弧を描くように整えられている。葉が揺れる音まで行儀がよかった。
庭の中央に、白い石の階段がまっすぐ上に伸びていた。その先に、巨大な建物がある。層を重ねた丸屋根。白灰色の外壁。柱が林のように並んでいた。
イノの板車が芝の縁で止まった。
車輪が草に食い込んで、動かない。
つい力を入れた。木の車輪が芝に浅い跡を一本つけた。
すぐに手を離した。
ロウェンがそこで気づいた。
「しまった、この先は芝生だったな」
後ろ首を掻いた。本当に申し訳なさそうだった。
「悪い……手で運んでもらえるか」
イノが「大丈夫です」と言いかけたとき、ロウェンはもう車の横に来て、箱のひとつに手をかけていた。
「片方は俺が——」
イノが首を振った。
一気に二つとも抱え上げた。箱の縁に顎を載せるようにして、隙間から前を見る。
「自分で運べます」
「……そうか。じゃあこっちだ」
ロウェンが階段の脇にある小さな拱門を指した。
「リオン学弟の集まりは本館だが、正面からは入れない」
芝を踏んだ瞬間、空気が変わった。
静けさの中に、人の気配が混じり始めた。
回廊を歩く学院生がちらほらいた。
長衣の者、軽い鎧の者、訓練上がりで肩に汗布を引っかけた者。
ロウェンとすれ違うたび、声がかかる。
「おはよう、ロウェン」
「おい、また門番サボりか?」
「今夜の演習、遅れるなよ!」
ロウェンがひとつひとつ笑顔で返す。自然で、清潔な笑み。すれ違った女子の何人かは耳の先を赤くして、足が少し速くなっていた。
通りすがりの学院生が、イノを見た。
目がまず木箱に行き、それから靴、服、最後に顔。
眉をひそめる者もいた。一瞥して、すぐに忘れる者もいた。
ロウェンがイノの表情に気づいた。
低く言った。
「気にするな。見慣れない顔がいると、みんなああいう反応になる」
少し間を置いた。
「お前のせいじゃない」
「……はい」
——————
厨房 通用口
ロウェンが扉を押し開けた瞬間、熱気と匂いが潮のように押し寄せた。
厨房はイノの想像よりずっと広かった。
銅鍋、銀の皿、長柄の鉄叉。全てが精緻で、忙しく動く人々は制服が整い、動作に無駄がない。顔の清潔さだけでも、ロワク城の小貴族より上に見えた。
リオンはずっと待っていたらしい。扉の音で即座に振り返った。
「ロウェン先輩——」
言いかけて、目が門の向こうを探った。
三人目はいない。
それからようやく、ロウェンの後ろのイノに気づいた。
固まったのが見えた。隠しようがなかった。
「イノ——!」
リオンが笑みを作った。
「お前に開けてもらったのか、ロウェン先輩に。お母さんは?」
イノが箱を下ろした。
「すみません」
「え? いや、気にしないでくれ」
ロウェンが面食らって手を振った。
「たまたま当番だったし、道中いろいろ話せて楽しかったよ」
リオンの胃が沈んだ。
「たまたま」はまだいい。
だが「楽しかった」が——予想していない角度から刺さった。
(何を話した?)
(どこまで——)
リオンは即座に話題を引き戻した。
「ロウェン先輩、このあとお時間あれば……ご一緒にいかがです? 皆さん、先輩がいらしたら喜びますよ」
ロウェンが気楽に笑った。
「ありがたいけど、このあと門番だ。邪魔はしないよ。楽しんでくれ」
イノに手を振った。
「イノ、外で待ってるからな」
通用口がイノの背後で閉じた。
リオンが振り向いた。
低い声。
「イノ——ここに戻ってきて、どんな気分だ?」
イノは答えず、木箱の蓋を開けた。
焼きたてのパンの香りが広がった。
厨房の給仕がすぐに近づいてきた。
「結構です、こちらで」
丁寧な声だった。
だが箱を受け取る手つきに、ほんの一瞬の間があった。イノの指が箱から離れる前に、すでに向こうの手が被さっていた。
イノの指が止まった。
それから、離した。
リオンがそれを見ていた。
咳払い。
「イノ」
声を少し緩めた。
「今日みたいな仕事、続けることもできるぞ」
イノが顔を上げた。
「……リオン様?」
「お前の家のパン屋、学院への出入り業者にしてやれる。僕が一言言えば、この手の注文は一度きりじゃなくなる」
リオンがイノを見た。表情を、穏やかで誠実なものに整えようとしていた。
「お母さんも、あんなに苦労しなくて済むようになる」
「今よりずっと楽になるはずだ」
少し間を置いた。
「だから——いくつか、もう済んだことにしておいたほうがいい話がある」
イノの目がゆっくりと定まった。
「何の話です?」
リオンが眉をわずかに動かした。
「イノ。わかっているだろう」
「口にして誰の得にもならないことがある」
「特に——お前にとって」
厨房の近くにいた給仕たちが、さりげなく手を止めた。互いに目を交わし、音もなく奥の仕切りの向こうへ退いていった。遠くで包丁の音だけが少し速くなり、鍋蓋がいつもより重く鳴った。
イノがリオンを見つめた。
しばらくして、低く、ひと声笑った。
「そういうことか」
顔を上げた。声は大きくない。だが一語ずつ、はっきりしていた。
「リオン様。あなたは皆の前で俺の母親を侮辱し、侯爵様の推薦状を奪った」
「今度は仕事をやるから——全部呑み込めと」
リオンの顔の笑みが、ほとんど固まった。
イノが目を離さなかった。
「それとも——これがもう、恩恵のつもりですか」
「イノ——」
リオンの声にわずかな苛立ち。
「頭のいいやつが、わざとわからないふりをするのは感心しないな」
一歩近づいた。声がさらに低くなった。
「僕は機会をやると言っている」
「お前が今ここに立っていること自体が——僕がすでに機会を与えた証拠だろう」
「機会?」
リオンの笑みがわずかに引きつった。
声を落とした。だが圧が増した。
「イノ、欲を出すな。十分すぎるほど与えている。先のことを考えろ」
イノがゆっくりと口を開いた。
「ヴィセス家の『機会』というのは——金貨半枚ですか」
「……何だと?」
イノが一語ずつ言った。
「昨夜、母は一晩寝ずに焼きました。あなたが払ったのは、半枚です」
リオンが一瞬止まった。
「待て」
だがイノは止まらなかった。
「俺を辱めたいなら、俺に向かってやればいい」
「待て——」
イノが遮った。
「リオン様。あなたの好意は要りません。あなたがしたことを、俺は一生忘れない」
リオンの額に筋が走った。口を開きかけた——
「へえ、『クラニウム狩り』がここにいたのか」
淡い声が、竈の向こう側から聞こえた。
イノが振り返った。
学院の最上位の深い藍の制服。金糸の縁取り。肩の留め金に皇族の紋章。眉目が静かで、この上なく純粋な金髪が、最も高い血統を示していた。
その後ろに年配の随侍が一人。衣装は凝り、足音がない。わずかに身を傾け、控えめに告げた。
「殿下、ここには部外者がおります」
リオンの背筋が伸びた。即座に礼を取った。
「ユリアン殿下……なぜこちらへ?」
ユリアンが袖口をさっと払い、穏やかに言った。
「主催者がいつまでも来ないから、外の皆が待っている」
二歩進み、厨房を見渡した。
「彼らは待てる。だが、待たせるべきではない。だから様子を見に来た」
「なにしろ——誰かが場を繕わなければならないからな」
声は責めてすらいない。だがリオンの肩が、もう一寸下がった。
(クラニウム狩り?)
イノが思わずリオンをちらりと見た。
リオンが急いで笑みを作った。
「殿下、お待たせしました。ちょうどこのパンの到着を——」
木箱を手で示した。
ユリアンが目を落とした。
視線に、何の感情もなかった。
「リオン」
静かに言った。
「お前が?」
リオンの顔から色が引いた。すぐに頭を下げた。
「殿下……自分の目で確かめたかっただけです」
「そうか」
ユリアンが淡く言った。
リオンをもう一度見ることもなく、目を木箱に戻した。
「これは中に入れなくていい」
横の給仕に向き直った。
声は穏やかで、ほとんど優しかった。
「適当に処分してくれ」
その言葉を聞いた瞬間、イノの背中が強張った。
「かしこまりました、殿下」
給仕がすぐに頭を下げた。
リオンが明らかに動揺した。
「殿下、これは——」
ユリアンがふっと笑った。
「行こう。皆が待っている」
「はっ、殿下!」
リオンがほとんど反射で従った。
足音が遠ざかった。炉の火がまた鳴り始め、厨房が忙しさを取り戻した。
何事もなかったかのように。
イノの胸の中の火だけが、目の前を黒く焼いていた。
給仕が近づき、箱に手を伸ばした。
イノはその手を見ていた。目が動かなかった。
次の瞬間、箱の縁を押さえた。
「俺が運びます。お手を煩わせるまでもない」
給仕がイノの目の中のものを見て、びくりと手を引いた。一歩退いた。
イノが箱を抱えて出てきたとき、ロウェンが拱門の石柱にもたれてぼんやりしていた。
また箱を持っているイノを見て、目を丸くした。
「……なんでまた持って出てきたんだ?」
すぐ後ろから給仕が足早に出てきた。表情が気まずい。
「ロウェン様……申し訳ありません。ユリアン殿下のご意向で、本館には入れないことになりました」
イノは顔を沈めたまま、箱を抱える腕に青筋が浮いていた。一言も発さない。
給仕が一瞬ためらい、付け加えた。
「わたくしは言われた通りにしただけで……この方がどうしてもと仰るので、それ以上は……」
イノをちらりと見た。
ユリアンより、今この沈黙の少年のほうが怖かった。
ロウェンが軽く眉を寄せ、手を振った。
「わかった。戻っていい。何か聞かれたら、俺が処理したと言ってくれ」
給仕がほっとして、頭を下げて門の中に消えた。
ロウェンがイノに向き直った。
何も訊かなかった。
ただ笑った。
「行こう。送るよ」
「……すみません」
「だから、『すみません』はやめてくれって」
——————
ロウェンが首を振った。
二人が芝を踏んだ。
ロウェンが先を歩き、わずかに速度を落とした。
横目で箱を見た。
「いい匂いがするな」
「ありがとうございます」
ロウェンが「ほう」と声を漏らし、指先で箱の蓋の隙間をこじ開け、中からパンを二つ掴み出した。
イノの喉が動いた。だが何も言わなかった。
ロウェンがふた口かじった。
目がすぐに光った。
「本当にうまいな」
もうひと口かじりながら、噛みつつ言った。
「学院ってさ、『平等』って言葉をやたら使うんだ」
「でも口で言うのと、本当にそうするのは別物だからな」
肩をすくめた。
「ここにいるのは金持ちか貴族だ。気にしすぎるな」
残りの半分も口に押し込み、手をぱんぱんと払った。
「いつか外に出たら、お前の店に寄らせてもらうよ」
イノは答えなかった。
だが肩が、半寸ほど下がった。
あと数歩のところで、ふいに足を止めた。
「ロウェン」
これが、イノが初めて敬称を外した瞬間だった。
ロウェンも立ち止まった。ゆっくり振り返る。口はまだ動いているが、目から笑みが消えていた。
「ん?」
「頼みがある」
イノが箱を下ろそうとした。
ロウェンがすぐに手を上げた。
「置くな置くな、先に言え」
イノが息を吸った。
「レオネル子爵を知ってるか?」
「レオネル?」
ロウェンが眉を上げた。
「もちろん」
「会わせてほしい」
ロウェンがパンを呑み込み、すぐには答えなかった。イノを見ている。
「会ってどうするんだ?」
声はまだ軽い。
「誤解するなよ、単純に気になっただけだ」
イノの箱を抱える指がひと瞬きつくなり、すぐに緩んだ。
「どうしても会わなきゃならない」
急がず言った。
「連れて行ってくれるか?」
ロウェンが少し黙った。
最後に頷いた。
「いいよ。連れて行く」
そう言って、また箱の中に手を伸ばし、パンを二つ摘まんだ。
イノに向かってひらひらと振った。
「ただじゃないからな」
——————
遠く離れた場所で、リオンが二人の歩く方向を見つめていた。
道が逸れていく。
顔が、墨を塗ったように暗くなった。
ユリアンが歩み寄り、声をかけた。
「ヴィセス」
リオンは聞こえなかったかのように、身を翻して走り出した。
ユリアンはその場に立ったまま、背中を見送っていた。しばらく動かなかった。
リオンには、イノとロウェンがどこへ向かっているのかわからなかった。
わからないからこそ、不安が背骨を這い上がってくる。
(あいつをこれ以上歩かせるわけにはいかない。)
(絶対に。)
花園の回廊を駆け抜けたとき、一つの人影がゆっくりと脇の影から出てきた。
ずっとそこにいたかのように。
「リオン若」
男が怠そうに笑った。
「ずいぶんお急ぎで。お手伝いが要りますかな?」
リオンが急停止した。だが驚いてはいなかった。
「なんでここにいる?」
「お嬢様のお言いつけで」
男が袖口を払った。
「若が近頃、人手の要るときが来るだろうと。先に学院で控えておけ、と」
目を上げてリオンを見た。
「それで——何をお望みで?」
リオンの顔が、人を怖がらせるほど沈んでいた。
「イノ・ストヴォークを殺せ」
男が一瞬止まった。リオンの命令に、明らかに面食らっていた。
「いきなり殺しですか」
「あいつは今、ロウェンの傍にいる」
リオンが歯を食いしばった。
「手段は問わない。消せ」
「ちょっと待ってください、若。学院の中で人を殺すんですか?」
声に拒絶はなかった。
「相手がどんな身分か、せめて聞かせてもらわないと」
「パン屋の小僧だ。殺せないのか」
リオンの声が冷たかった。
男の笑みが半分沈んだ。
「若、本気でおっしゃってますか——ここがどこかわかって?」
リオンを見た。この臆病な若様が本当に狂ったのかを確かめるように。
「イノ・ストヴォークをこの世から消せ」
リオンが歯を軋ませた。
「最初からいなかったことにしろ」
男は答えなかった。
背を向け、脇の影へ歩いた。足は急がないが、どこへ行くべきか最初からわかっているようだった。
「では、本当に参りますよ」
リオンがその背を見送った。
数呼吸の後、かすかな音がした。
顔を上げた。
男の姿がもう軒先の上にあった。
次の瞬間、視界から消えた。
リオンは頭を下げた。
父親の後ろでいつも伏し目がちにしていたあの姉が、本当は何者なのか——初めて真剣に考えた。




