第27話 名もなく歩む
ロワク城郊外 イノの家 夜
家の前まで戻ったとき、門の前に二人立っているのが見えた。
近づいて、ようやくわかった。
ユージンとマルだった。
マルは半分かじったパンを口にくわえたまま、もぐもぐと頷いている。
「ほんとだって、エリーナおばさんのパン、うまいんだって!」
「黙って食え、口から飛んでるぞ」
ユージンがマルの後頭部をぱしりと叩いた。
エリーナが門口に立っていた。足音を聞いて振り向き、笑った。
「イノ、おかえり」
「よう、イノ」
ユージンが顎を上げてみせた。
「何しに来たんだ?」
イノが眉をひそめた。
ユージンが口を開く前に、エリーナが割って入った。
「イノ、そんな言い方しないの。ユージンたちはヴィセス様から注文を届けに来てくれたのよ。お礼を言いなさい」
(ヴィセス?)
イノの動きがわずかに止まった。
唇を引き結び、低く言った。
「……ありがとう」
ユージンが「ふん」と鼻を鳴らしたが、口の端は上がっていた。
マルが慌てて手を振った。
「ほんとだって! パンがうまいから注文が来たんだよ! リオン若様もそう思って——」
「お前はいちいち全部しゃべるな!」
ユージンが肘でマルを突き、話を逸らした。
「明日、昼。覚えとけ——必ず届けろよ」
「ヴィセス様にお伝えください、必ず時間通りにお届けしますと」
エリーナが自ら二人を門の外まで送った。林の小道を二つの影が消えるまで、門口に立っていた。
夜風が裾を撫でた。影が見えなくなって、ようやく手を下ろし、小さく息を吐いた。
(リオン・ヴィセス。)
イノの眉が、さらに寄った。
——————
扉を閉めると、卓にはもう晩飯が並んでいた。蝋燭が小さな炎を揺らしている。
「ご飯はできてるから。セレイナ先生が戻ったら、先に食べてて。私は店で仕込みがあるから」
「今回いくらなんだ?」
イノが訊いた。声は低い。
「けっこうよ」
エリーナが親指と人差し指の間隔で示した。
「金貨半枚」
「半枚?」
イノが目を丸くした。
エリーナが金貨の半片をイノの掌に載せた。
イノが目を落とした。断面が揃っていない。縁がざらつき、鈍い。誰かが力ずくで折ったような跡。
親指でその断面をなぞった。
「……これで通るのか?」
「何言ってんの、あんたはお金を稼ぐ大変さをわかってないのよ」
「いや、そうじゃなくて……」
イノが眉をひそめた。
「わざわざ金貨を折って渡す人間がいるか?」
「金は金よ」
エリーナが金貨を取り返し、銭袋に入れた。
イノは黙った。
「いつまでかかる?」
「今晩どこまでできるか次第ね」
「届け先はロワク城砦?」
「グランソワ学院よ。
ヴィセス家が学院で新入生の集まりを開くんですって」
「学院……集まり?」
イノが繰り返した。胸の中に、名前のつかない味が広がった。
「うちに回ってくる仕事か?」
「詳しいことは知らないわ」
エリーナが軽く首を振った。
「くれると言うなら、やるだけ」
「母さん、俺も手伝う」
「あんたが手を出したら余計ややこしくなるわよ」
エリーナが笑って睨んだ。声は穏やかだった。
「今日は十分疲れたでしょう。早く休みなさい」
「じゃあ仕込みが終わったら店に置いといてくれ」
イノがエリーナの目を受け止め、声はむしろ落ち着いていた。
「届けるのは俺一人で行く」
「一人で?」
エリーナが少し迷った。「駄目よ」と言いかけて、止まった。
「量が多いのよ」
「だからこそ俺が行くんだろ」
イノが腕を振った。
「任せてくれ。母さんは休め」
部屋が少し静まった。蝋燭が燃える音だけ。
「……わかった」
エリーナが頷いた。まだ心配そうに付け加えた。
「明日は早く起きなさいよ。道中気をつけてね」
(学院を見られる……悪くない。)
イノは「ん」とだけ答え、それ以上何も言わなかった。
ちょうどそのとき、扉がそっと開いた。
「お邪魔します」
セレイナが外套を畳み、母子の間に視線をひと巡りさせた。
「セレイナ先生、ちょうどよかった」
エリーナが急いで二歩近づき、学院の注文のこと、今夜店に行かなければならないことを早口で伝え、イノにもう一度念を押してから、上着を羽織って足早に出ていった。
扉が閉まり、部屋がまた静かになった。炎が揺れ、二つの影が長く伸びている。
「先生」
イノが目を上げた。先に口を開いた。
「明日は一日休ませてくれ」
セレイナはただ席について食事を始めた。何も訊かなかった。
イノもそれ以上何も言わず、蝋燭の火をぼんやり見つめていた。
——————
ロワク城郊外 小さな町 夜
マルが先を走っていた。
手に何かを握りしめ、時折振り返ってはユージンにひらひら見せる。顔がはちきれそうだった。
「ユージン、早くしろよ!」
「うるせえ、走んな!」
ユージンが声を殺して怒鳴り、足を速めた。
マルはまるで聞いていない。喜びを抱えたまま前へ突っ走り、あっという間に見えなくなった。
先へ進むと、道端に傾いた掘っ立て小屋がぽつぽつ現れ始めた。板を継ぎ合わせた小さな店が道沿いに押し合うように並んでいる。
軒が低く、入り口に油灯がぶら下がっている。灯籠の笠は垢で黄ばみ、風が吹くたびに揺れた。
そのうちの一軒の前で、兵士が女の肩に腕を回していた。もう片方の手が腰のあたりをぽんと叩く。
女は古びて光り始めた薄い上着を羽織っていた。襟は緩く結ばれ、裾に泥がついている。顔の粉は湿気で崩れかけていた。
「前はこの値段じゃなかったろ」
兵士がにやりと笑った。
「今日は上がったのか?」
「あんたこそ前に『次で埋め合わせる』って言ったじゃない」
女が白い目を剥き、腰の手を払い落とした。
「埋めた?」
「おいおい、俺とお前の仲で——」
「何が仲よ」
ユージンが通りかかったとき、兵士が先に気づいた。
「おう、ユージン!」
女の肩から手を離し、顎を上げてみせた。
「まだ生きてたか」
「死んでたらここに立ってねえだろ」
ユージンが口の端を歪め、拳を軽くぶつけた。
「コル兄、また来てんのかよ」
「しょうがねえだろ」
コルが女の背中をぽんと叩き、にへらと笑った。
「やめらんねえもんはやめらんねえ」
女が口を開きかけ、目がユージンを捉えた。
上から下まで、だるそうに値踏みする目。
鼻で笑った。
「何見てんのよ」
首を傾げた。目の中に、怠惰な意地悪さ。
「一人前になってから出直しな」
コルが腿を叩いて笑った。
「はは——ユージン聞いたか! ロサに小僧扱いされてやんの!」
ユージンの笑みが一瞬で固まった。
耳の後ろが痒いほど熱い。
「よう、ロサ」
ポケットに手を突っ込んだ。
「コル兄に甘やかされてるだけじゃ足りなくて、今度は誰に噛みついてんだ?」
「あんたに」
ロサは瞼すら上げなかった。
「噛みついたところで、どうする? 噛み返す?」
コルが横で手を振った。
「やめろやめろ——ガキをいじめるな」
「誰がガキだ?」
ユージンの声が上がった。
ロサを見ている。目が、彼女の顔から滑り落ちた。鎖骨のあたりの肌が、緩い襟に包まれて、輪郭が灯りの中で半分見えて半分隠れている。
目を無理に戻した。
「俺は知らねえけどな、コル兄」
「飽きねえのか? だんだん節操がなくなってきてるだろ」
「安物で自分を慰めてちゃ——」
「黙りな」ロサが遮った。
コルが「おっ」と声を上げ、むしろ楽しそうだった。
「お前の口は本当に減らねえな」
ロサがゆっくり体を起こした。首を傾げ、ユージンを見た。
「小僧」
彼女が俯き、裾の端をつまんで、少しだけ横にめくった。
少しだけ。脛がわずかに覗く。白く、線が引き締まっている。膝の少し下に古い傷跡がひとつ。
灯りがあの肌に落ち、湿った暖色を帯びた。
「目で追うだけ」
声は大きくない。語尾がゆっくり引かれた。
「金も持ってないくせにさ」
あの「どうせ何もできないくせに」という目が、ユージンを貫いた。
喉仏が動いた。
コルが「ぷっ」と吹き出し、ロサの尻を撫でた。
「やめろって、こいつの脳みそ溶かすなよ——」
「そんな金、持ってねえよ」
ユージンが言った。
声が思ったより小さかった。
もう見なかった。
背を向けて歩き出した。
速い。
後ろでロサが門の枠にもたれ直し、背中に向かって声を投げた。
「いつか本当にモノになったら——そのときお姉さんに声かけな」
コルの笑い罵りと油灯の音が、風に混じって背後で散った。
ユージンは歯を噛み締めた。足がどんどん速くなる。
前方の遠くで、マルがまだ手を振っている。
だがあの目が、まだ刺さったまま抜けなかった。
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ロワク城 ストヴォーク・パン店 朝
店の中はもう温かく、炉が勢いよく燃えている。空気に焼きたての生地の香りが満ちていた。
イノが両手で天板を炉から引き抜いた。熱波が顔を叩き、睫毛まで乾く。
「最後の一釜よ」
エリーナが隣で手早く箱に詰めていた。いつもより丁寧に。
「こっちが白パン、そっちが蜂蜜入り」
木箱が二つ並び、中に清潔な布が敷かれ、パンが一層ずつきちんと詰まっている。
「あとは任せて。母さんは帰って休んでくれ」
イノが歩み寄り、箱を一つ門のそばに移した。
「私も一緒に行こうかしら」
言い終わらないうちに、イノがもう二つ目の箱も運んでいた。
門の外の壁際に小さな板車が置いてある。腰を屈め、一つずつ載せた。
気の利いた言葉は昔から言えない。重いものを先に全部持っていくことしかできない。
エリーナがイノの背中を見て、溜め息をついた。
エプロンを外した。
「気をつけてね」
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箱を固定し終えたところで、店の入り口に人影が動いた。
ユージンが門枠にもたれて待っていた。イノが出てくるのを見て体を起こし、服の埃を叩いた。
「やっとできたか、イノ。リオン若様の用事だからな、俺がちゃんと見届けてやる」
イノは声を出さず、車の取っ手を握って前方の道を確かめた。
「うん、まあまあだな」
ユージンが板車の周りを一周し、満足げな声を出した。
「箱二つ、金貨半枚。けっこう稼いだだろ?」
自分の胸を指した。
「正直な話、俺が若様の前でお前のとこの名前を出してやらなきゃ、この仕事は来てなかったぞ」
「こういうのはな、パンより人の縁のほうが値打ちがあるんだ。
今回はまあ、貴人の恩恵ってやつだな」
「ほらな、マルのやつ絶対起きてこないと思った」
イノの背中を叩いた。
「行くぞ。早けりゃ気が利くってもんだ、遅れたら俺だってかばいきれねえ」
——————
日が真上に近づく頃、道端の草の葉が光り始めた。
「はー……くそ、こんな遠いのかよ城門から……」
ユージンが腰を押さえ、ぶつくさ言っている。
「どうりで貴族は偉そうにするわけだ……門だけで人を歩き殺す気か」
数歩ごとに一言。イノは一言も返さず、板車を押して、下を向いて、一歩ずつ進んでいた。歩くほどに、口数が減っていく。
ユージンがちらりと見た。
「お前なんで黙ってんだ? 疲れて馬鹿になったか?」
イノは「ん」とだけ。
実のところ、学院に近づくほど、口を開きたくなくなっていた。
木立の間から、見覚えのある門が少しずつ姿を現した。
人生には一つか二つ、一生忘れない目に遭うことがある。たとえば前回自分を蹴り出した相手に、次にまた会うのがよりによってこの場所だということ。
イノの足が止まった。車の取っ手を握る力が強くなり、手の甲が白くなった。
門前の学院生は瞼すら上げなかった。イノの顔を覚えていないのは明らかだった。ただのありふれた配達人。
「何の用だ?」
同じ声。同じ態度——
イノの胸で、火が「ぼっ」と上がった。
口を開く前に、ユージンがもう前に出ていた。声が誰よりでかい。
「リオン若様のご注文だ! よく見ろ!」
蝋封のついた注文書を高く掲げた。
学院生がようやく目を上げた。
「ヴィセス」の名が視界に入り、表情がほとんどわからないほど微かに止まった。
「パン?」
頷いた。
「ついてこい」
二人は学院の脇へ回され、目立たない小さな通用門の前で止められた。
学院生が手を上げ、奥の石畳の道の先にある門廊を指した。
「あそこまで運べ。人が待っている」
それから二人を見た。
「こいつは入れ」
イノを指した。
「お前はここで待て」
ユージンを指した。
ユージンが一歩前に飛び出す。
「なんでだ?! 俺が誰だかわかってんのか? リオン若様の——」
声が速すぎた。
「注文書に名前がない」
学院生は顔を上げる気もなかった。
「こいつはなんで入れるんだ!」
「配達人だからだ」
学院生の声は、日課をこなすような平坦さだった。
「注文書には"パンの配送"とある。"従者の入場"とは書いていない」
注文書を通用門の内側に渡した。
中の学院生が受け取った。
「案内する」
ユージンがほとんど跳ね上がった。
「おい——注文書返せ!」
「これが何か必要なのか?」
ユージンが口を開き、顔を真っ赤にしたが、言い返す言葉がひとつも出てこなかった。
イノは板車を押して、ユージンの横を通り過ぎた。
見なかった。止まらなかった。
ただ袖口が、すれ違うときにユージンの手の甲をかすかに擦った。
——————
通用門が「ぎい」と開いたとき、外の光が一気に呑まれた。
門の奥は石の部屋だった。壁に鉄条と木梁が嵌め込まれ、案内の学院生が影の中に立っている。
イノより頭半分高い。肩幅が広く、制服の下に薄い鎧の輪郭がうっすら見える。肌は小麦色で、顔立ちは際立って整ってはいないが、清潔で、陽の気配がある。
「ついてこい」
手招きし、イノの後ろで門を閉めた。
空気が一瞬で反響と石壁の冷気だけになった。イノの背中が本能的に締まり、肌に細かな粟立ちが走った。
石の部屋を抜け、重い木の扉をいくつもくぐり、やがて細長い回廊に出た。
幅は二人がかろうじて並べるほど。
壁がやたらと高い。表面はつるりとして紋がない。
イノが見上げた。
見えるのは、一筋の空だけだった。
天光が最上部の隙間から差し込み、一本の細い銀の線になっている。「前へ」と矢を引くように。
「驚いたか?」
案内の学院生は口調が穏やかだった。
「初めて通ると迷うんだ。俺も平民を中に入れるのは初めてだけどな」
足音が回廊の中で妙にはっきり響く。
イノは板車を押しながら、つい低い声で訊いた。
「あの……学院の皆さんの物資は、どこから届くんですか?」
「全部専属の業者がいる。皇族と教会の指定だ」
学院生はあっさり答えた。
「普通はこの道は使わない」
「あ——別にそういう意味じゃないんだ」
途中まで言って、後ろ首を揉んだ。
「まあ……決まりだからな」
「それにしても」
学院生がふと思い出したように。
「リオン学弟が小さな集まりをやるだけなのに……なんでわざわざ外からパンを取り寄せたんだろうな?」
「……」
イノは答えなかった。
学院生も気にせず、軽く笑った。
「まあいい、別に聞いてるわけじゃない。ストヴォーク・パン店か……聞いたことないな。もしかして美味いのか?」
イノはまだ黙っていた。
学院生がイノの強張った肩をちらりと見て、腕を軽く叩いた。
「そう固くなるなよ。俺は気にしない」
イノが少し間を置いて、低く言った。
「……はい」
学院生が一瞬きょとんとし、頷いた。
「ああ——まあな」
顎を上げ、両脇の壁を示した。
「ここはもともと防衛用なんだ。学院全体をぐるっと囲んでる」
「もっとも……」
空を見上げた。
「ここに攻め入ってくるやつがいるとは、ちょっと想像できないが」
イノは相槌を打つべきかわからず、小さく答えた。
「……ですね」
学院生がまだ堅いイノを見て、それ以上は追わなかった。
少し軽い調子に変えた。
「お前の店、ロワク城にあるのか?」
「はい」
「そうか」
学院生がもっと柔らかく笑った。
「『はい』ばっかりだな。俺はロウェン・ヘルマンだ。気楽にしてくれ」
イノが少し声を落とした。
「……イノ・ストヴォークです」
ロウェンの歩みがわずかに遅くなった。イノのずっと張りつめた態度に気づき、それ以上は踏み込まなかった。
頭上のあの銀の一線が、歩くにつれて細くなっていった。光が、石壁に少しずつ呑まれていく。




