第26話 黒と赤
イノは疲れ切った体を引きずり、焚き火を起こした。
弱い炎が立ち上がり、夜の冷気を押しのけた。
セレイナは焚き火の前に膝をつき、両手を静かに膝の上で重ねていた。表情は、初めて会ったときと何も変わらない。
ただひとつ違うのは――いま彼女が、イノの師であるということ。
馴染みのある香りが炎に乗って漂い始める。イノはまぶたが重くなるのを感じた。訓練のあと、精神はほとんど壊れかけていた。
「これから毎晩、こうなる――あれを倒すまで」
「ありがとう、先生」イノの声には疲労がにじんでいたが、偽りのない響きがあった。
「ん?」セレイナが首を傾げる。声にわずかな疑問が浮かんだ。
「ありがとう」彼はもう一度言った。口元にはいたずらな笑みが浮かんでいる。
「イノ・ストヴォーク」セレイナがゆっくりと口を開いた。「礼は要らない。私が従えと言ったとき、あなたは無条件に従いなさい。これは取引の一部よ」
イノは一瞬きょとんとし、すぐにふてぶてしい顔になった。「そんな条件、聞いてませんけど」
セレイナは答えず、ただ静かに火を見つめていた。
「はいはい……感謝してもしきれないっすよ」彼は笑いながら頭を下げて火をいじった。声がすこし軽くなる。「そのときは、俺が力になります」
セレイナが彼を見た。「あなたの望まないことをさせても?」
イノは黙った。
長い間があった。やがて、低い声で言った。「――そのとき、まだ選べるといいんですけど」
「困らせないでくださいよ、先生」
彼女は動かなかった。
「で、なんで気が変わったんですか?」イノが訊いた。
セレイナは答えず、逆に問うた。「力を手に入れたら、あなたは何をするの」
イノは少し考えた。
「べつに。ふつうに生きますよ」
一拍おいて、付け足した。
「母さんを守れれば、それでいい」
セレイナの視線がわずかに止まった。
「復讐はしないのか」
「え?」
「リオン。学院」
イノはかすかに笑った。
「……めんどくさい」
枝で火をつついた。
「あいつらは俺みたいなやつのこと、覚えてもいないし」
炎が揺れた。
「騎士になりたかったんじゃないの」
イノは火を見つめた。
「思った」
強く火をつついた。
「あのころの俺は……あれで十分だと思ってた」
少し間を置いた。
「もう、いい」
イノは枝を火の中に放り込んだ。
「憎くないの」
「誰を」
「私を」
「……悪魔だろ」
沈黙。
「憎い、
怖い」
彼は顔を上げなかった。
長い沈黙が続いた。
「そういえば、セレイナ先生」イノが口を開いた。「悪魔を始末する人間がいるって知ってますか」
「興味ないわ」
「あんたを狙うやつらだろ。興味ないのかよ?」
セレイナは答えなかった。
イノが低く呟いた。「正直……あんまり、そうは見えない」
目を上げると、セレイナの静かな瞳とぶつかった。「本当にそうなんですか」
彼女は目を閉じた。
⸻
焚き火の匂いがまだ衣にまとわりついていた。
セレイナが前を歩き、イノがその後ろに続く。足音は浅い。
不意に、セレイナの足が止まった。右手の林の奥へ視線を向ける。
「どうしたんですか」
イノが彼女の視線を追った。草むらがかすかに揺れ、月明かりの中に赤い色がちらついた。
その赤い髪の持ち主も、ふたりに気づいたらしい。
赤髪の少女がぴくりと身を固くした。
だがイノの顔を見て——
隣のセレイナは近づかず、少し離れた場所に立っているだけだった。
少女は動きを止めた。
イノは何も言わず、背中に回した手に指輪が光った。掌に、パンがひとつ現れる。
少女の視線が、そのパンに釘付けになった。
風が草の先を撫でた。彼女は微動だにしない。
イノが数歩近づき、パンを差し出した。
少女が手を伸ばした。速く、けれど用心深い動きだった。
受け取った瞬間、前と同じように、食らいついた。
「ゆっくり」
イノが小声で言った。
少女はふと止まり、目を上げてまた伏せた。
そのとき、イノの手にふたつめのパンが現れた。
「まだある」
少女は一瞬ぽかんとした。口の中のひと口をまだ呑み込んでいない。やがて腰の後ろに手を回し、前に奪った水筒を取り出して、そっとイノに差し出した。
月の光が、彼女の手に落ちた。
その両手は傷だらけだった。皮膚はひび割れ、何箇所かまだ膿んでいる。
イノは見ていた。眉がわずかに動いたが、何も言わなかった。二歩下がった。「俺、帰らないと」
少し間を置いて、付け足した。「これしかやれなくて」
言い終わると、背を向けて山を下りた。
セレイナはすでに前方を歩いていた。衣の裾が月光をかすめた。
少女はひと口ずつ食べながら、あの背中をずっと目で追っていた。
夜闇がそれを呑み込むまで。
⸻
イノはセレイナを屋敷の前まで送った。
セレイナが振り返り、一度だけ彼を見た。「ここまでで十分よ」
「あ、はい」
セレイナは身を翻して扉を押し開けた。木の扉がかすかに軋んだ。
「先生」イノが声をかけた。
彼女の足が止まった。振り返る。
「……ありがとうございます」
セレイナは彼を見た。何か言いかけたようだったが、最後にはただ、小さく頷いた。




